折り鶴
宴
第1話
それだけ聞くと、ただほほえましい話に聞こえるやもしれないが、彼女に関しては、ほとんど異常の域に達していると言ってもいいほどだった。
私は彼女のことを小学生の頃から知っているが、彼女が折り紙で鶴を折った事例を数えるほどしか知らない。
彼女が鶴にするのは、大抵何か他の役割を持っているはずの紙なのだ。
学校の宿題プリント、保健だより、小テストをはじめ、裏紙、ポスター、しまいには紙ナプキンまでもが、彼女の手に渡るとものの十数秒で全て折り鶴になるのだ。
小学五年生の頃、私は彼女と机を並べる配置になった。窓際最後尾の、その頃の私が一番好きだった席に、彼女は陣取っていた。
陽香は、当時は「折り鶴の子」として、同級生にも先生にも、さらには同級生の保護者にまで認知されていた。
私は特段、彼女に対して何か特別な感情があったわけでもないが、しかし隣の席になったというのだから、やはりお話はするべきであろうと思い、会話のとっかかりとして折り紙で彼女同様に一羽の鶴を折って、陽香に見せたことがあった。
どうだろうか?
私の折り鶴はきれいだろうか?
試しに折ってみたが、やっぱり時間がかかった。
あなたのように素早く折ることはできない。何かコツとかあるのか?
そのようなことを、当時の私は少ない語彙の中、懸命に伝えた記憶がある。今思い返しても、我ながらよく頑張っていたと自画自賛したいくらいだ。今の私は同僚とも必要事項以外は喋ることがない。
昔の私の方が立派で、素直で、そして素敵だ。
だからこそ、陽香の気味が悪そうにこちらに向けた顔を思い返すと、悲しい気持ちになる。
「え?なに?私に用?鶴?それ、いきなり見せられて私はどうすればいいの?」
どうすればいいの?と聞かれても、私はなんて返せばいいのか見当もつかなかった。
仲良くなりたいのだ、と
途方に暮れている私を救ったのが、昼休み終了のチャイムであったことを、今でもよく覚えている。
掃除の時間が始まり、すぐに次の授業に移らなかったのも幸いだった。そのままの流れで彼女の隣に四十五分間座り続けるのは、私にとっては苦痛であったからである。
その日を境に、私は彼女に話しかけるのをやめた。そも、
しかし授業中、私は時折彼女が隣で静かに、配られたプリントを鶴にしている動作を見るのを楽しみにしていたのも事実である。
プリントが前から回ってきたら、私は秘かに心の中で数を数え始める。隣の彼女がどれくらいの速さで鶴を折るのかを記録するためであった。
算数のノートの最後のページの端っこに、私は数字を書き並べていた。
およそ五十から六十秒くらいが平均で、調子がいいと四十秒台に入ることもあったし、体育の時間の後だと二分を上回ることもあった。
プリントは大抵正方形ではなく長方形の形をしている。
それを陽香は、プリントの長辺と短辺の端がそろうように、短辺を長辺に沿って折り、三角形を作るように折る。はみ出した部分を裏側に折りこみ、そのまま三角形の部分を開くと、正方形の形ができる。
彼女は毎回、そのようにして、手の中のプリントを鶴の素材にしていた。
彼女の作る鶴は、速さよりもきれいさが売りのようであった。
やってみると分かると思うが、元から正方形の紙を使用するならともかく、長方形の紙を正方形に折った紙で折ろうとすると、紙の厚みの不均衡のせいできれいに折りづらい。
しかし陽香の作り出す鶴は、どれも顔がシュッとしており、元の紙がどのようなものであれ、整った形になっていた。
器用であるなと感心していた。
それでも、陽香自身に対しては、当時の私はあまり好意は抱かなかった。
他の女の子と凡庸な話題で盛り上がったりもする、普通の女の子という印象であり、折り鶴を執拗に折るような子だとは、普段の振る舞いからは想像もつかない子であった。
陽香との関係が、少し特異になり始めたのは、中学に上がってからのことである。
私は中学受験をして私立に進学したのだが、同じ小学校から進学した子は陽香一人だけだったのだ。
陽香が同じ学校を受けているというのは寡聞にして知らず、初登校の日に教室に入って座った席の真後ろに彼女が座るまで、彼女のことが意識に登ってくることさえなかったのだ。
声を掛けようか、ふと迷ったが、しかし小学生の頃の、彼女に声を掛けた際の、彼女からの視線を思い出し、すぐに諦めた。
この学校でも彼女は鶴を折るのだろうか。
そのことが少し頭の片隅にあったが、その後、クラスの担任である厳格そうな男の先生が、私たちを体育館に引率しに来て思考が中断される。
入学式を行っている
自己紹介は結局、自分の名前と出身学校、入りたい部活などの無難なものになってしまったが、下手に噛んだり変な印象を与えたりすることもなかったので、私はほっと息を吐いた。
安堵の息を吐きながら、同時に背後の同級生の存在を再び意識し始める。私の直後に自己紹介をする、常定寺陽香は何を話すのか。
「折り鶴が好きです」とでも言うのだろうか。
いいな。
キャラクターが立って。
私もそのような、一発で覚えられるような特徴が欲しいなと、今から振り返れば安易で愚かな考えを頭の中でぐるぐる回していた。
背中で、陽香が立った気配を感じる。
私の前の席に座っている子が、半身を捻って陽香に目を向けているのを観察する。
「常定寺陽香。十二歳。誕生日は十二月十三日。好きな曲はクラシックのカノンで、中学では陸上部に入ろうと思っています」
陽香に注目している面々の、目の形や鼻筋、肌つやまで眺め回しているうちに、いつの間にか彼女の番は終わっていた。拍手が鳴る。
あまりにも普通に終わったので「えっ?鶴は?」と口から漏れ出てしまっていた。
この時、私は人生で初めて「思っていたことをうっかり口に出してしまう」という経験をし、顔が赤くなった。
幸い、つぶやきは拍手によってかき消されていたのでほとんどの子の耳には入っていないだろうが、陽香は私の失言を聞き逃していなかったようで、私のうなじをつんとついて「何?鶴って?」と小さい声で抗議をしてきた。
私は陽香のそのまた後ろの席の子の自己紹介を聞くふりをしながら上半身を後ろに向ける。
声を潜めながら「鶴、折ってるじゃん、いつも。好きですとか言わないの?」と私が言うと、「別に好きじゃないよ」とだけ返ってきた。
視線を感じてその方向に目をやると、自己紹介のために立っている子がこちらを見下ろして迷惑そうな顔をしている。
私はどうしていいか分からず、とりあえず肩をすくめて会釈した。
陽香の折り鶴の特性は、自己紹介の三日後には既にクラスの間では周知の事実となっていた。
レクリエーション用に配られたプリントを、案の定鶴に折り、机の上に置いていたのが印象的だ。
前に座っていた子が「折り鶴ってそういう……」と呟いているのを耳にした。
そういうことである、と心の中でひっそりと答えていた。
小学生の頃に隣に座った時の記憶、そして中学生の自己紹介の時の反省を活かし、折り鶴の話には触れないようにして、彼女と付き合おうとした。小学生の時の印象と同様、彼女は鶴に関する事柄以外は、平均を大きく逸脱しない人間という印象のままであった。
しかし私が、そして恐らく陽香も、未知の世界の中にて数少ない知り合いの人間であるという理由から、よくよく話すようになった。
部活も同じ陸上部に入った。
中・長距離を共に走った。
運動が得意というイメージはなかった。実際、夏休み前の彼女は私なんかよりもずっと体力がなく、準備運動の段階でヘロヘロになるのが日常だった。けれど、いつの間にか彼女は私よりも速くなっていた。
それでもやはり、大会プログラムを印刷した紙をうっかり渡してしまうと、すぐさま鶴に変換させられてしまったりする。
そんな時は先輩が彼女を叱るのだが、その時なぜか私も一緒に怒られるのだ。
あなたがちゃんと止めないからだと、理不尽を喰らうのが常。
こいつよりも絶対、速くなってやると心の中で中指を立てたりした。
夏休みには一緒に遊びに行ったりもした。
映画に行った。
ディズニーに行った。
祭りに行った。
チケットの半券が、園のパンフレットが、包装紙が、鶴に変わった。
お互いの家にも遊びに行った。
陽香が私の家に初めて訪ねてきたとき、私はさりげなく、実際さりげないかは怪しいが、折り紙を用意して彼女の手の届く位置に自然と置いた。
何か思いもしないようなものを折り鶴にでもされたら困るので、であれば最初から鶴にされても問題ないものを付近に置いておこうという算段もあったが、しかしどちらかといえば、私は彼女の折った鶴を、欲しかったという気持ちが、少し、いやかなりあった。
彼女が鶴にするのは大抵紙のほかに役割があるものである。つまるところ陽香が折った鶴は大抵、その後もう一度開かれるのだ。
なので、彼女の折った鶴は、彼女自身が回収するか、皺だらけの紙になるかのほぼ二択である。
他者の手に渡る鶴は、ほとんどない。
だから私は、彼女の鶴が欲しかった。
しかし陽香は、自身の宿題のプリントは鶴にするが、私の折り紙には一切手を付けなかった。
彼女が折り鶴にするのは彼女の手に渡った紙のものだけ。
こちらから「折ってほしい」と願っても、彼女が素直に折ってくれないだろうということは、今までの付き合いからわかっていた。それに、そのようにお願いをして折ってもらう折り鶴は、何か違う気がした。
私は陽香が、手癖で折った拍子に、ふと零れ落とした折り鶴を手にしたかった。
この夏を境に、私は彼女の鶴を狙うようになった。
夏季の長期休暇明け、私はホームルームで配られたプリントが、陽香の手によって鶴になったのを見計らって、自分のプリントと交換してもらえないか打診した。
「え?何?気持ち悪いからなんか嫌だ」
ある程度仲良くなったから行けるかもしれないと思っていた私は、バカであった。
陽香はこういう人間だった。
別に、無理矢理確保しようと思えば、出来るといえば出来るのだ。
しかし彼女に断られてから、私はもう、彼女から進んで私に鶴を献上してもらうことでしか手にしないようにという縛りを、自身の中でひっそりと結んだ。
どうしてそうなるのか。恐らく今、周囲の人間に話しても、この心境を分かってくれる人はそう多くはないだろう。
しかしその気持ちは、ほかならぬ私は、今でも理解してあげられる。
なんだか悔しかったのだ。拒絶されることが。
意地になっていたのだ。
私はそこから二年間、中学の間に鶴を彼女からもらうことは結局なかった。
私と陽香の通っている学校は、中高一貫であったため、受験をせずにそのまま進学した。
高校に進学してすぐ、理系か文系かを選ばされるコース選択に直面した。
私自身は、特に数学が比較的苦手で、であるならば文系かなぁとぼんやり考えていたのだ。
陽香はどうするのだろうか。
別にあれに合わせるつもりはないが、友人なのだから、気になりはする。
しかし直接聞いてもはぐらかされる。
なんだかんだと決めあぐねていたら、ついぞ締め切りを過ぎてしまい、一人放課後に残って書くよう先生から言い渡されるなどの災難に見舞われた。
陽香は私に「さーきにいってぇーるぅねぇー」とスパイクが入った靴袋を振り回しながら、既に教室を後にしていた。
別に単なる意識調査であり、悩む必要もなかったのだが、しかしなぜか決めあぐねていた。
うーん。
なんだろうなぁ。
などと考えていたら、ふと進路調査の提出用のボックスが目に入った。
今、教室には誰もいない。
そんな場所に生徒の個人情報を放置しているのは、
今から考えると信じられないことである。そも、なぜ先生は回収していなかったのか。疑問は尽きないが、しかし当時の私はそれよりも、重大なことに頭を奪われていた。
私はのそりと自分の席を立ちあがり、回収ボックスに近づき、中を見た。
一枚、一際くしゃくしゃになった紙がすぐに見つかる。指にかけ、取り出してみると、皺の正体が幾何学的な模様であることに気が付く。何かを折って、そして再び開いた、そのような跡。
しかしプリントの内容は私が今書きあぐねているものと同じ、進路調査である。
一体これが誰のものなのか皆目見当もつかない。
そう、見当もつかないが、そのプリントの第一志望の欄には、「医学部」と書いてあった。
私はプリントをそのまましまって、席に戻る。
とりあえず「理系」と書いておいた。
生物は必須科目だろう。
瞬く間に二年が過ぎ、そして受験期に入り、私はノイローゼになった。
対照的に陽香の方は、彼女は要領よく勉強をしており、模試の方でも常に合格水準を二回りほど上回った点数を維持していた。
青チャートの解法を丸っと覚えるという方法で何とか平均点を獲得していた私に対して、「それはそれスゴイよ。私にはできない」と慰めてくれたりもしていたが、しかしそれでは医学部に合格するには若干心もとない点数であり、担任からは「それは勉強としては正しくない」だのなんだのと揶揄されてもいた。
正直受験の合格ラインまで引き上げられるのであればなんでもよかったが、限界も見えていた。
そも、私はどうして医学部を目指しているのか。
別に陽香だけが特別というわけではない。友人は他にもいるし、進路を無理に彼女に合わせなければ一人ぼっちになる、というわけでもない。
それでもなお医学部を選んだ理由をひとつ挙げるなら、私はまだ常定寺陽香から、折り鶴をもらっていないからだ。
大学進学までに彼女から鶴が頂戴される見通しは、今のところない。
陽香歴八年のベテランの私がそう思うのだから、恐らくこの予想は正しい。
となると、もう少し時間が必要だ。
しかし別々の大学に進んでしまうと、会う頻度は激減するだろう。
するとどうか?
折り鶴をもらえる可能性がまた一段と低くなる。
それは悲しいではないか。
そう、悲しいのだ。
故に私はいっそう努力した。
鶴のために。
その甲斐あってか、私は晴れて合格をした。
そして、陽香は落ちた。
笑い話のオチとしても不謹慎極まりない話である。
流石の私も、辞退してもう一年浪人をし、陽香を待つなんてことはできなかった。
陽香には「おめでとう」とLINEで、そして卒業式の日にも改めて言われた。
「私は浪人するから、取り敢えず一人で頑張って」
卒業証書を鶴に折ろうとする陽香の手を遮りながら、私は「待ってるよ」と、涙を浮かべながら答えた。
学年が一年違うというのは、やはり接触回数が減るのだろうか。
医学部ということは授業も大変だろう。
陽香と会う機会は確保できるだろうか。
先輩として、色々教えてあげるという口実は出来るか。
浪人はできなかったが、留年して学年を合わせるという手もあるな。
そんなことを講義を受ける中、ぼーっと考えていた私は、まだ幸せだった。
翌年、私が特段興味もない人体の部位や病名の暗記を行っていた最中、久しぶりに陽香から連絡の通知が来た。
カレンダーを見ると、国公立の前期日程の合格発表の日であった。
私は緊張半分、期待半分でその連絡を開く。
最初に目に飛び込んできたのは「合格した」という素っ気ない文言。
私は歓喜に震えた。
交感神経の興奮・緊張による立毛筋の収縮、全身が総毛立つ。
めまぐるしく、来年からの二人での学生生活が頭を
私の三年間と、一年間の苦労が報われるのだ。
そして次の言葉に目を通し、そして、私は、次の言葉に目を通し、そして、何度か読んで、そして、だから、それは私の通う大学ではなく、だから、違う大学で、医学部でもなくて、私は、だから、目の前が真っ暗になって、だって酸素が脳に送られないから、だから……。
私はその場で電話を掛けた。
ワンコール、ツーコール、スリーの間に、陽香は応じた。
「久し振り。合格したよ」
「合格って、それ陽香の第一志望だったところじゃないじゃん」
「浪人中にさ、やりたいことが変わったんだよ」
「なにそれ?じゃあ私はどうなるの?」
「別に私は、一緒に行こうだなんて頼んでないし。え?あれ私が志望したから一緒の大学受けたの?え?医学部に?」
「それは違うけど……」
半分嘘であるが、今はどうでもいい。
「でも一緒に大学いけるかなって、楽しみにしてたからさ。ちょっとびっくりしちゃって。うん、ごめんね。合格おめでとう」
「ありがとー」
そして、電話が切られた。
ぶつ切りだった。
まだ話したいことはたくさんあったが、しかしもう一度かける気にはなれなかった。
私はふらふらと部屋の中を歩き、そしてベッドに倒れ込んだ。
頭の中を巡るのは、陽香のことと、鶴のこと。
私はもう陽香と共に同じ大学には通えない。
都内ではあるので、そんなに離れているわけではないが、しかしこの一年間、忙しかったのと、浪人中の勉強を邪魔したくないからという理由で陽香との連絡は控えていた。
私は、友人をどのように遊びに誘っていたのか、忘れていた。
その日からの、時間の流れはあっという間だった。
大学で過ごしている間、ふと陽香との生活を妄想する時間がなくなった。
勉強と、バイトと、旅行と、恋愛の真似事とに時間を費やした。
気がつけば六年が過ぎ、国家試験に合格して、医者として現場に立っていた。
外科だった。
多忙を極めた。
考える時間も体を動かす時間も増え、昔を思い返す時間が減った。
時折、小児科で折り紙を見かけるとふと彼女を思い出すが、しかしすぐに思考の隅に追いやられた。
陽香が、私の手術を受けに来るなどといった物語のようなこともなかった。
次に会うのは高校の同窓会だろうか、などと考えていたが、それも仕事の都合で叶わずに顔を出すことができていない。
グループラインで事の次第を眺めていたが、次の同窓会は十年後に行われるらしい。十年後を想像し、過労で倒れていなければ御の字だろうと、ひとり思いを馳せる。
なんとなく、もう陽香と私の人生が交わることはないのだろうと思ってしまう。
私は、あの折り鶴を手に入れることもできないのだ。
入院患者に千羽鶴を送る光景は、最近はほとんど見かけなくなったと、職場の先輩は言っていた。
折り鶴 宴 @mukimukihinanan
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