第十三話 会えない人の名前
中庭、アネモネとハイドが真剣に私の姿を見つめている。祈りの力がちゃんと行使できるようになっているか、昨日の騒動があって以来初めて祈りの力を発動することになる。スターチスのドライフラワーを両手で包み込むと、そのまま祈りの力を発動する。体が白い光に包まれたのがわかる。まるで祝福の時のようであった。光は大きいけれど、しっかりと発動時の制御はできている。
発動、付与。
それが無事に完了したとわかった時、アネモネとハイドは二人してハイタッチして喜んだという。集中していたせいで全然見ていなかったのが残念である。いつも適度な距離を保っている二人がハイタッチする光景はさぞ可愛かっただろう、目に焼き付けておきたかった。
三時間後、私は目を見開いた。
初めて創った夢を宿したスターチスはどこか萎れているように見えるがしっかりと祈りの力の気配を感じる。
「お、終わった…。」
「ランジア!」
この三時間ずっと見守っていたというのか、すぐさま二人が駆け寄ってきた。
祈りの力が使われた後の庭にはなぜか白い光の残滓が残っているような錯覚を感じる。疲れて祈りの力で上がった体温を冷やすように吹き出た汗を拭いながら感じた、鮮やかに色彩が瞳に映る。
二人に抱き締められながら私は口角をあげた。我慢できずに表情に出た嬉しさゆえにきっとお風呂でふやけたような、気持ちの悪い表情をしていたに違いない。
***
「さて、ランジア。」
「な、何?」
「祈りの力の制御は安定していたし、力の付与も十分に上手い。ただ、夢の創造の工程が未熟だ。まだ練習が必要。あと、午後は図書館に行って昨日渡された資料の暗記をするよ。マナーに追加して、最低限任命式にくると言われている客人の名前を覚えておかないと。話す機会もあるだろうし。」
いつもは優しいハイドの表情が今は鬼畜の所業を穏やかな雰囲気の中で行う人でなしに思えてくる。これは私の極度の勉強への忌避が生み出す幻覚なのはわかっている。とはいえハイドをここまで怖く感じたのは初めてだ。も、もう少し喜びに浸る時間が欲しいかも…。
「あ、暗記はまた明日で…。」
「じゃあ、いこっか。またね、アネモネ。」
逃げようとする私の手をあくまで冷静なハイドが掴み図書室の方向へ歩き出す。心の奥で逃げても後で自分にのしかかってくるだけだとわかっていたが故、私は逃げることを諦めた。少し同情した目をしたアネモネに見送られながら私は項垂れた。
***
「俺もまだ全然覚えてないから、一緒に覚えて練習しよ?儀式の模擬練習はとんがりさんが暇な時に付き合ってくれるって言ってたし、安心安心。」
図書館で資料を広げながら、ハイドは一通り目を通すと言って読書モードに入ってしまった。こうなったら、声をかけても暫く反応しないだろう。私もハイドの真似をして全く知らない単語が多く羅列された資料を調べ調べに読み始めた。三十分くらい経ったころだろうかちょうど私が資料の「二、上流階級のマナー大全」を読み始めた頃、ハイドの肩がびくっと揺れた。
「どした?」
「えっ、あ、いや。なんでもない。読み終わったよ。俺はもう大丈夫。」
ハイドの短くなった髪から首へ汗が滴り落ちる。小さくなった瞳孔が揺れている。動揺していることがまるわかりだ。ハイドは、深く息を吸うとあっという間にいつものように落ち着いて背筋を伸ばした。
そこから三十分、細かい文字を読むのに慣れてきて資料も終盤に差し掛かった頃、私は理由を察する。重要人物客人リストの最後の方、グレゴール・ルフレス、ブローデ・ルフレス、カラン・ルフレスの三名の名前が目に入る。グレゴールという名の人物の身分の欄を見るとアウリーズ地方トラネス統轄者とある。その名に続いて、トラネス統轄者次期後継者、トラネス統轄者の長女と記されている。
やべぇ家のやつやこいつ…。
私の故郷、トラネスを治めている、ってことだ。
そう思って目をやろうとすると、冷たい目が私を貫いた。まるで、触れるなと言っているように。
ハイドは私の資料を閉じるとすぐに笑ってこう口にした。
「ランジア、次は実践やろう?」
ハイドは家族の話をあまりしたがらない。兄姉がいることは前に聞いていたけれど、話すときはどこか楽しそうであった。だとすれば、ハイドが話したがらない原因はグレゴール・ルフレスという男にあるのだろう。おそらくはハイドの父。
一瞬見せた寂しそうな顔は気のせいかと思うほどに跡形もなく消えて、あとは細かいマナーの指導が続いた。ハイドはもしかしたら、私と同じかもしれない。キャンバスに向かう父の後ろ姿を思い出しながらふと思ったりしたものだ。
そういえば、私の家族の名前、なかったな。
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