第六話 人生の転換点ってやつ
―外暦七十八年七月二十九日―
三年前、姉に連れられてトラネスの西区を見学に来たときの話である。トラネスは花と商業の街などといわれ、一見豊かな街に思える。しかし、栄えているがゆえ必然的に生まれるひどい貧富の格差が西区と東区との間に存在する。
トラネスの街全体の守護と治世を代々受け継ぎ管轄とするルフレス家はその解決にいささか難儀していた。
ハイド・ルフレス。
少年はルフレス家三人兄弟の末っ子。穏やかで、人当たりのよい性格から民からの評判は上々。学科、剣技共に一定以上の実力を持つ。しかし、天才的な発明を生み出す姉や卓越した剣技を持つ兄のように、誰もが認める突出した才能は持ち合わせていない。そのためか、花以外の事柄には強い関心を示さず、何かにのめり込む姿を見せることも少ない。
彼は後妻の子として生まれたため、いまだ前妻への信仰が根強く残るルフレス家では立場が不安定であった。
母が病で他界してからは、その立場はいっそう揺らぎ、父からの粗雑な扱いを受けるようになった。
「良い子なのですが、それ以上に可哀想にも思います。」
彼の世話係はハイドのことについて語れと言われたら、これに近いようなことを言うだろう。
そんな微妙な立ち位置にいる子どもに、誰が特別に目を掛けようとするだろうか。
否、使用人たちからの少しよそよそしい態度、父親からは暴言の連続。
兄ブローデと、姉のカランは、父親の目を盗んでは、ハイドを気にかけ続けた。
まだ小さかった頃、俺は街の燃料の研究のため、街に光力を渡すための視察という名目で姉の助手という形でカランについてきていた。
カランは光力を渡せば西区と東区の格差も少しは和らぐのではないか、と言っていた。まだ成人して四年程しか経っていないというのに立派に仕事をしているものだ、と年の離れた弟ながらに感心していた。
「西区は治安が悪いから私から離れないでね。」
そんな言葉を最後に、カランを見失ったのは自身でも驚いたものである。何せ、細心の注意を払おうとした直後に消えたかのようにいなくなってしまったのだから。
「お姉ぇー!どこー?」
探しても探しても見つからなかった。それどころか西区の狭く乱立する建物のせいでどんどん路地裏の奥に入り込んでしまう。これ以上動いたらここから出れなくなると悟り、その場の段差に座りこんだ。
路地裏に漂う不快な匂いが肺に満たされて、脳がうっすらと煙がかかったように働かなくなってくる。
数分が経った頃、頭上から無邪気な子供の声が降ってきた。
「迷子?見かけない子だ。」
見上げると白いブラウスに薄紫のスカートを着た少女が見下ろしていた。菫色の瞳に灰色の髪。なんとも特徴的な容姿をしていたため、少女の儚く可愛げのある姿は強く印象に残った。
「…君は?」
「私はランジア。昨日十歳の誕生日だった!」
「えっと…おめでとう?」
「貴方の名前は?」
「言っていいのかな…。わかんない…。」
西区の人には警戒しろと姉に言われた。東区よりも治安が悪いらしいし…と、礼儀知らずだという自己嫌悪に駆られながら名乗ることをを躊躇した。
「じゃあいいや。なんか事情ありそうだし。話戻るけど、迷ったの?」
以外にもランジアはすんなりと諦めてくれたようであった。普通このくらいの年頃の子供はこういう秘密を知りたがるものなのに。現に自身がそうであるのだ。秘密にされたら知りたくなる。
「うん…。」
「じゃあ行こーか!」
ランジアは後ろを向くと西区の大通りへ案内すると言って歩いていったので、その後を追った。
「名前知らないと不便だから君のあだ名は今からクルクルね。で、クルクルは私と同じくらいに見えるけど実際のとこ何歳なの?」
「クルクル………。えっと…僕は十二だよ。」
あだ名の元ネタはすぐに分かる。髪の所々が跳ねた癖っ毛だ。気にしてるのに…、髪の毛を弄りながら不機嫌な顔をしてから小さなため息をついた。
「じゃ、お兄さんだ。ちっちゃかったから同じぐらいだと思った。」
「そうだね…。」
ちっちゃい…か。より一層複雑になった感情をどう発散すべきか悩んだ挙句、自分の靴の踵を踏みつけてみた。踵を踏んで歩いたことで、後で転んで痛い思いをした。
「クルクルは東区の人でしょ?西区のいいとこ知りたくない?案内したげる。」
どうせ今探し回ってもカランは見つからないだろう。だったら西区の視察という名目に則って、この場所を知ることから始めようではないか。
「じゃあ…。」
お言葉に甘えて。
そう言おうとした時、急に意識が飛んだ。
――そういえば、昨日の夜は姉の手伝いに関する計画を立てていて眠れていなかったような気がする。
「えっ!ちょっと、大丈夫!?ねぇ!」
***
「ん…。はっ!」
意識を取り戻した瞬間、木組みの屋根が落ちてくる幻覚に襲われ飛び起きた。何処か知らぬ建物に寝ていたようだ。美味しそうな匂いに、腹が小さく鳴る。
「あ、クルクル起きた。」
「ランジアさん…、ここは…。」
「私のことは友達だと思って普通に呼んでくれていいよ。ここはお母さんのお店!急に倒れたから運んできた。あのままだと身包み剥がされるか、運悪いと攫われるからねぇ。」
「そ…、ありがとう。」
隣で見守っていたらしきランジアが事情を説明してくれた。個人経営の食堂だろうか、所々にお客さんらしい人が座っていてご飯を食べている。奥の光がついた小さなキッチンでは黒髪の女性が料理をしているのが見えた。
「今、お母さんは忙しいから居ないけど…様子を見たときに寝不足だろうって言ってた。ちゃんと寝たの?」
「寝てない…。」
「なんで?」
率直な疑問である。この時、ランジアからすれば身を削ってまで起きている必要性が全く理解できなかったに違いない。
「だって…、勉強しないとお姉ぇとお兄ぃに追いつけないし。」
「追いつかないといけないの?クルクル…君は君じゃん。」
ランジアはわからない、どうして、と少し苦い顔をして聞いてきた。今思えば、俺だってわからない。
幼かった俺は立派に評価される兄姉をみて焦燥感にかられ、ある種の義務感と劣等感を抱え込んでいたのかもしれない。
「……。わかんない。」
「そっか。……元気になったなら、私は仕事に戻るね。」
「仕事って?」
「フウロの花の匂い袋づくり。…副業みたいな。うちもお金がそんなにあるわけじゃないから。」
「手伝うよ。」
トラネスはフウロの花に囲まれた街ということで花畑の景色目当ての観光客も来ることが多い。そういった人たち目当てに売り出されているお土産の一つに匂い袋がある。
その人気ぶりは《持っていると願いが叶う》などと云われこの街の住人でも持っている人がいるほどである。姉が熱く語ってきていたのを覚えている。
細かい装飾に丁寧な縫製。人気が出るわけである。俺も欲しい。いい匂いがするんだろうな…。
知る限り東区に作っている人がいるという話は聞いたことがなかった。成程、西区の人が作っていたのか、と少し納得した。
「ふっ、いいよいいよ。可愛い可愛い。」
ランジアに笑われながら体験させてもらい、無事、不格好な匂い袋が完成した。
「……ごめん。」
「いいじゃん、それもそれでかわいい。私に頂戴!」
「え、えっと。」
上手くできなかったことが悔しくてぎゅっと握りしめていた匂い袋をランジアは無理矢理ぶんどって、ポケットに仕舞った。そんな物を取っておいてどうするのかと困惑しなかった訳では無いが、きっとランジアは慰めようとしてくれたのだろうと、自分の中で思考を完結した。
「あ、そろそろ夕方。中央区まで送り届けたげる。」
ランジアは言葉通り中央区の噴水のある広場まで送り届けてくれた。その道程は夕焼けと東区とは雰囲気の違う西区の景色に気を取られて思考がぼんやりとしていた。ランジアの母の食堂までの道を覚えておけばよかったと、後で後悔したことは言うまでもない。
「ほんとにありがとう。ここまでこれば道わかるよ。」
噴水の前で今日一日のお礼を言葉にする。なにか手土産のようなものを渡せたら良かったのだが、あいにく持ち合わせていない。そのためここでは精一杯の感謝を伝える。
「そっか。…ねぇクルクル。これあげる。」
「これ…ランジアがつくったやつ?」
急に差し出された綺麗な装飾の施された匂い袋に驚く。くれるの、こんなきれいなものを?
「うん、御守。今日話聞いてて色々大変そうだったから体調崩さないようにーってね。」
「……。」
首元がすっと冷えたような感覚がした。多分、頰が熱くなったから、体温の差で錯覚を起こしたのだ。
「あれ。いらないならいいけど。」
「ちがっ、いる…要る!ありがとう!」
勿論必要に決まってる。
「あと、もう一回聞いていい?名前…。」
ランジアが小さく口を開こうとした時、聞き飽きたほどいつも聴いている女性の声がそれを遮る。
「ハー君!もう何処行ってたのよ。探したんだからね!」
「お姉ぇ!そのあだ名で呼ぶな!……ごめんランジア、姉が。それで…なんか言った?」
ランジアは目を伏せたが瞬きをする間に輝く目を見開いた。笑顔で、俺の胸元に匂い袋を押し付けるように渡してきた。
「ううん。お姉さん、見つかってよかったね。じゃあバイバイ。」
「う、うん。バイバイ。」
姉がこちらに向かってきたときには、ランジアはさっさと走っていって見失ってしまった。
「何?あの女の子、…あら。あらあら。」
「…案内してくれただけ!お姉ぇ早く帰ろ!」
冷静を装って、姉には接した。
姉はニヤつきながら、俺の顔を覗き込んでくる。その瞬間決めた。
俺は髪を伸ばす。その方が、表情を隠しやすい。
その日は俺にとって、いつもの自分を追い詰めたような生活からはかけ離れた日であったし、少し体が軽く自由だった感覚を覚えている。
『追いつかないといけないの?』
その言葉を思い出し、次の日は少し周りを観察してみた。確かに俺は兄姉のように特別な才能はないし、それを求められてもいなかった。その現実は悔しいけれど、兄姉は思いの外俺を認めている上、使用人の中には俺を慕って敬ってくれる人もしっかり存在していることに気がついた。おそらく、自ら勘違いして距離を取っていたのだろう。
…一つ、父は俺を必要としていないことは明らかだった。
それでもいい。無理をしなくても、周りに人がいることがわかったのだから十分な収穫である。
その後、お礼をしようとして何度か西区に行ってはみたもののランジアには会えずじまいであった。
この日の記憶は妙に頭から離れなくて、よく覚えている。
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