水面に浮かぶ鱗

有理

水面に浮かぶ鱗

「水面に浮かぶ鱗」


戸瀬 知代子(とせ ちよこ)

中村 昌(なかむら しょう)


先生。どうか死なないで下さい。


中村N「先生は言う」

戸瀬「この世の水が全部アルコールなら世界はもっと愉快だったと思わない?」

中村N「ケラケラ、乾いた笑い声と共に」

戸瀬「次はそんな世界がいいな。」


中村(たいとるこーる)「水面(みなも)に浮かぶ鱗」


______


戸瀬「昌くん、早いよ。」

中村「…いえ。約束のお日にちです。」

戸瀬「私の中ではまだお日にち来てません。」

中村「…いいえ。本日〆切で間違いありません。」

戸瀬「何だ、歯切れ悪いな。」

中村「いえ、そんなつもりはなかったのですが。」

戸瀬「…お前手土産はどうした。差し入れの手提げ袋がないじゃないか。どこに忘れてきた?」

中村「今日は、ありません」

戸瀬「いつもあるじゃないか!酒は?!どうしたんだ?熱でもあるんじゃないのか?!具合が悪いのか?どうしたんだ!この季節に熱中症か?!それとも今流行りのインフルエンザか!」

中村「違います。いたって、健康、です」

戸瀬「…健康そうには見えない顔色だが?」

中村「…健康です。」

戸瀬「ほら、入ってお茶でも淹れ…てやるよ私が。」

中村「あ、いや、僕が」

戸瀬「この戸瀬知代子がお茶を淹れてやると!言ってるんだ!黙って座れ!」

中村「…はい」

戸瀬「…」


戸瀬「ほら。飲め。ありがたく、本当にありがたく飲め。一滴残さずありがたく頂戴しろ。」

中村「はあ、」

戸瀬「熱は?」

中村「ないですよ」

戸瀬「なんだ。本当に具合が悪いわけではないんだな。」

中村「違います。」

戸瀬「どうしたんだ。こっちが調子狂うだろ。やめろそんな子犬みたいな顔でこっちを見るな」

中村「こ、子犬?!」

戸瀬「子犬みたいだったぞお前、雨の中で拾えってこっちを見てくるあの暴力的な目だ。なんだよ、嫌なことでもあったのか?」

中村「…」

戸瀬「ほらまたその顔だ」

中村「あ、いや、あの」

戸瀬「何」

中村「あの、対談以来だったので…」

戸瀬「何が」

中村「ここに来るのが」

戸瀬「だから?」

中村「ど、どんな顔して先生と話したらいいか僕分からなくて…」

戸瀬「…」

中村「僕のせいで先生が、その、あんなことになったというか、だから、その、」

戸瀬「ああ、今理解したよ。」

中村「え」

戸瀬「君がどうして前の作家に喰われたのか。いや喰われかけたのかを。」

中村「え、あ。何」

戸瀬「お前、女は意外に獰猛な生き物なんだ。喰われたくなかったら少しは考えるんだな。そんな濡れそぼった子犬みたいな顔いつまでもしてるとそりゃあがぶっといかれるよ。」

中村「せんせ、」

戸瀬「昌くん。私は君のせいになんかしちゃあいない。ましてや、君に頼まれたからってだけで、あの場に酒を飲まないで行ったわけじゃない。私の意思でもあったんだから。でないとなんだ?私は君に今死ねと頼まれたら死ぬのかい?違うだろ。」

中村「…」

戸瀬「合わせる顔がない?なんて言ったらいいか分からない?そのままそれを言えばよかったんだ。…少し痩せたね。進捗も聞きに来なかっただろ。その間どこで仕事をしていた?行きたくもない、居場所もないデスクで仕事をしていたのか?可哀想に。」

中村「先生…」

戸瀬「君は何も悪いことをしていないよ。」

中村「っ、」

戸瀬「だろ?」

中村「…はい、」

戸瀬「…ああ、1つだけ。」

中村「…え?」

戸瀬「私への手土産がないことはどうかと思う。」

中村「…。この感動をどうか返していただきたい」


______


戸瀬「炭がもうすぐなくなるんだ。」

中村「…はあ。」

戸瀬「いつもならネットで買うんだけどさ。ちょうど品切れで。そこでだ、昌くん。頼みがある。珍しく、君にお使いを頼みたい。」

中村「…」

戸瀬「間藤の犬に聞いたらさ、あいつ、毎回花屋で花を頼まれてるだなんていうからさー!じゃあ昌くんにも何かお使いをーと思ってだなー。」

中村「じゃあ花がいいです」

戸瀬「花なんかいらん」

中村「僕、花の方が好きです。炭より断然」

戸瀬「シーシャ屋に行ったら分かるよ。私が電話しといてやる。キューブ状になってるやつ卸してくれるから。」

中村「嫌ですよ、シーシャなんか僕行ったことないのに」

戸瀬「いや別に店舗で受け取ってきてくれって言ってるだけだろ」

中村「…」

戸瀬「…じゃあもう今回書かない。落とす」

中村「行きます」

戸瀬「あとー」

中村「まだあるんですか」

戸瀬「これ。」

中村「…なんですか?これ住所?」

戸瀬「ここ行って荷物貰ってきて。」

中村「…何のですか?」

戸瀬「ん?いいから。」

中村「…」

戸瀬「知代子ですって言ったら出してくれるから。」

中村「…はあ。」

戸瀬「頼んだよー。」


______


中村N「先生に頼まれた炭を受け取り、渡されたメモの住所へ向かった。」


中村N「古びた建物。一部だけシャッターの開いたそこは不思議な音がかすかに聞こえる。水の音だ。水滴の落ちる音ではない。さらさらと、流れるような水の。そして、コポコポ鳴る泡の音。」


中村「ごめんください、知代子と申しますが…」


店主「ああ、知代子さん。ようやく迎えにきたの?」

中村「え、」

店主「あれ。お使いかな」

中村「…はい」

店主「久しぶりのお迎えが、お使いとはね。やっぱりあの子は愛がないね」

中村「…はあ」

店主「でも。忘れなかったのか。」

中村「…」

店主「ちょっと待っててね」


中村N「赤、白、黒、金。様々な形の金魚が優雅に泳いで回る。さらさらと涼しげに音の中で。四角い世界をこれ見よがしに生きていた。生きるために突っ込まれたエアレーション。コポコポ浮かぶ泡(あぶく)を気にするわけもなく彼らは生きていた。」


店主「ほら。これが彼女の子だよ。」

中村「…でか」

店主「うん。ここで育ててやってるんだから。彼女1番いいご飯をやれって毎月結構なお金振り込んでくれるんだ。そんなに要らないって言ってるんだけど。」

中村「ここって…」

店主「金魚屋だよ。見たらわかるだろ。」

中村「金魚屋…」

店主「そう。あんまり聞かないって?」

中村「はい」

店主「アクアリウム展とか、お兄さん見に行ったりしない?そういう展示会とか、ネット販売とか、売れなくもないんだよ。可哀想だけどね。生き物をそうやって人のエゴで売り買いするなんて。」

中村「…でも、」

店主「何」

中村「綺麗、ですね。」

店主「はは。そうだろう。お兄さんもどう?」

中村「え?」

店主「家に、飼ってみたら?可愛いよ」

中村「…」


中村N「途端、先生の大きな赤い金魚がばしゃん、と水面を揺らした。」


店主「はは、話が長いってさ。さっさと連れて帰ってやりなよ。」

中村「はい。」

店主「知代子さんに伝言頼めるかな」

中村「あ、はい。もちろん」

店主「…この子はまだ死なないよって。そう伝えて。」

中村「…え?」

店主「じゃあ、気をつけて。」


中村N「金魚屋さんは、厳重に金魚の入ったビニール袋を大きめの発泡スチロールに入れタクシーまで積んでくれた。そして、ドアを閉めると早々に店の中へ入って行った。」


中村N「金魚。先生のアパートに着くまで、先生が前に書いた原稿を読み返していた。」


______


中村N「“金魚” 作:戸瀬知代子。」


中村N「この世の水が全部アルコールなら世界はもっと愉快だっただろう。ぷかぷか浮かぶ金魚を見て女は言った。そんな世界なら狭い金魚鉢でもきっと楽園だったに違いない。女はそう羨ましそうに死んだそいつを海に捨てた。」


中村N「人の体はアルコールを毒として処理することを知っているだろうか。我々を生かす為に休まず働いている内臓たちは休む暇などないのだ。胃は消化し肝臓は解毒する。我々を生かす為には酔っている暇などないのだ。」


中村N「なのに、なぜ人は酒を飲むのだろう。酔っている暇などない内臓をさらに多忙にさせる為になぜ毒を飲むのだろうか。」


戸瀬N「鮮明に、今生きていることを忘れたいからだと私は思う。全身を巡るアルコールという毒物は夢か現か世界を鈍らせる。解毒を懸命に行う内臓とは裏腹に我々は酔い続けていたいのだ。全てを朧げに、輪郭を暈して、生を誤魔化していたい。」


戸瀬N「作家という暈した世界を書き続ける私は、毒に侵され生を必死に誤魔化して生きている。ぷかぷか浮かぶのは赤いそいつではなく、私の暈した女なのかもしれない。そう、酔った勢いで誰かに吐露する日を今日も酒の海でただ待っている。」


______


中村「先生」

戸瀬「おー。お疲れ様」

中村「…」

戸瀬「なんだ、はじめてのお使いはうまくいったか?お!ちゃんと炭をとって来られてるじゃないか。ありがとう。ちょっと待ってろ今ベランダの方へ運ぶから」

中村「…」

戸瀬「お前、少しは手伝おうとか思わないのか。」

中村「先生」

戸瀬「…ああもういい。」

中村「…」

戸瀬「こんな、ひょろひょろで骨と脂肪しかない私の腕がこんなに重たいものを持っているのを見て、お前はお前という奴は何も思わないんだなクソ」

中村「手伝います」

戸瀬「私は中ジョッキですら重いなーって思いながら飲んでんだぞ」

中村「知りませんよ。」

戸瀬「ふん!」

中村「筋トレしたらどうですか」

戸瀬「分かってないなー昌くん。筋トレをする、筋肉がないんだよ私には!君は本当に何も分かってない!何一つ分っちゃいない!どれほど体力がないか!!その重要さを分ってないね!」

中村「威張っていうことでは…」


戸瀬「…あれは?」

中村「え?」

戸瀬「私のもう一つの頼まれものだよ。」

中村「あ、ああ、金魚ですか。ここに…」

戸瀬「…」

中村「先生?」

戸瀬「…おかえり」


中村N「初めて入った浴室。先に用意していたのか、少し大きめの水槽に張られた水とサーキュレーター。そこにビニール袋ごと先生は金魚を浮かべてやる。」


中村「…出してやらないんですか?」

戸瀬「慣らしてやるんだと。水温に驚かないように」

中村「…へえ」

戸瀬「昌くん、そっち持って。」

中村「え?」

戸瀬「そこ、段差なんだよ。一応キャスターついた台に乗ってんだけどさ、そこだけ揺れるから。」

中村「あ、ああ。はい。」

戸瀬「…」

中村「…どこに置くつもりなんですか?」

戸瀬「ソファーの横」

中村「え…」

戸瀬「そこしかコンセント届かないんだから」

中村「水替えのたびにこの段差…」

戸瀬「そうそう水替えしないだろ」

中村「…」

戸瀬「なあ。お前。」

中村「…名前つけてるんですか」

戸瀬「これに?」

中村「はい。…金魚屋さんに大事にしてると伺ったので。」

戸瀬「…知代(ちよ)」

中村「チヨ?」

戸瀬「そう。」

中村「…ああ、だから先生のペンネームは知代子なんですか?」

戸瀬「…そうだね。」

中村「金魚からとっただなんて、意外に可愛らしいところあったんですね。」

戸瀬「意外にとはなんだ。生意気だな」

中村「…先生?」

戸瀬「何?」

中村「今日はお酒、どのくらい飲まれました?」

戸瀬「…何で」

中村「…今お持ちします」

戸瀬「…なんだ、素面の私がそんなに怖いのか。」

中村「そういうわけでは」

戸瀬「会いたくないか。」

中村「…」

戸瀬「冷蔵庫にスパークリング清酒が入ってる。“鈴音(すずね)”っていう。持ってきて」

中村「…はい」


戸瀬「…これはね、甘くてジュースみたいな酒なんだ。」

中村「…」

戸瀬「全く酔わない。」

中村「…先生」


戸瀬「でも、好きなんだ。バーで出された。昔ね。まだ作家になる前、君にも前話したことがあるだろう?商社で受付なんかしてた頃。入り浸っていたバー。酒なんか飲めない下戸の私が唯一飲めた酒だよ。これは。“鈴音”濁った日本酒。甘くて度数の低い、唯一あいつと飲めた酒だ。」


中村N「先生はゲーミングチェアに座り、濁った酒を透明なマグカップに半分ほど注いだ。翡翠色の瓶がデスクにゴンっと置かれ、それを愛おしそうに眺めている。」


戸瀬「好きだったんだよ。夢を語るその声も、口も、指も、全部が愛おしかった。だから、何でもしてやった。叶えてやりたかった。夢も、私が全部見ていてやりたかった。…なのに、あいつは…私を、」


中村N「カタカタと、ガラスが鳴る。濁った酒がゆらゆら蠢く(うごめく)。怒りが彼女を包んで離さなかった。」


戸瀬「…殺してやるんだ。」


中村「…え」


戸瀬「なあ、トシ。生きてて楽しいか。」


中村N「じとり、と笑う。先生は濁った酒を一気に煽った。」


戸瀬「…。」

中村「…先生」

戸瀬「…君は、」

中村「…」

戸瀬「踏み外してはいけないよ。」

中村「…前も、聞きました。」

戸瀬「…そう、だったかな。」

中村「先生。」

戸瀬「ああ、これだからいけない。君が手土産を忘れたからだ。だから、だ。この部屋に酒が尽きたからだ。君が駄々をこねて来なかったからだ。」

中村「え」

戸瀬「もう暫く、もう暫くでいい。」

中村「先生?」

戸瀬「ここは君の居場所にしなさい」

中村「あの、暫くって」

戸瀬「金魚の寿命は5年から10年らしい。」

中村「…は?」

戸瀬「こいつを飼って、もうすぐ10年」

中村「…」

戸瀬「よく死ななかった。だから最後くらい私が見届けてやろうと思って連れて帰ってきてやったんだ。」

中村「…あの」

戸瀬「ん?」

中村「…それと、先生の暫くとどう関係が…」

戸瀬「…さあ」

中村「先生。先生はまだ辞めませんよね」

戸瀬「ん、」

中村「え?」

戸瀬「ここ、声が響くんだ。耳すませてみて。」

中村「は?」

戸瀬「隣の隣。殴る音。ああ、殴ってるのは腹だがね。女の呻き声、聞こえる?」

中村「…なんですか、今僕真剣に」

戸瀬「はは。」

中村「…」

戸瀬「…」

中村「先生。」

戸瀬「んー?」

中村「…僕は、先生が好きです。」

戸瀬「気持ち悪いこと言うな。」

中村「先生のその無駄に綺麗な顔が好きです。」

戸瀬「煩い」

中村「ゴミも捨てられない怠惰で堕落した性格も、空き缶踏んで転ぶ馬鹿馬鹿しい間抜けなところも、細くて長い腕も指も爪も何もかも好きです。」

戸瀬「…」

中村「でもそれは、あなたが生きているからです」

戸瀬「…」

中村「生きて、そこで、その椅子に座って、ふんぞり返って、横着に僕を呼ぶからです。」

戸瀬「昌くん、」


中村「先生。どうか死なないで下さい。」


戸瀬「…」

中村「…ちなみに僕の好きは、結婚してくださいの好きではありません。」

戸瀬「…は」

中村「僕は先生みたいな人と一緒に生活したくはないです。」

戸瀬「泣きながら何てこと言うんだ君は。」

中村「誤解されても困りますので」

戸瀬「…そうか。」

中村「はい」

戸瀬「ほら、ティッシュ。」

中村「ありがとうございます。」

戸瀬「…」

中村「…死なないでください。」

戸瀬「うるさいな。人はいつかは死ぬんだよ。」

中村「あなたは人じゃない」

戸瀬「いや、人だろ」

中村「人でなしだ」

戸瀬「何言ってんの。」

中村「そういえば、金魚屋さんが…」

戸瀬「ん?」

中村「“この子はまだ死なないよ”って伝えてと」

戸瀬「あのババア…」

中村「え?」

戸瀬「何」

中村「ババアという歳ではなかったかと…」

戸瀬「ああ見えていい歳なんだよ!若作りっていうんだ!」

中村「なるほど…」

戸瀬「…ん?」

中村「…何か?」

戸瀬「なんか、君…変じゃないか?」

中村「…何が…」

戸瀬「ちょっとそこ、座れ」

中村「な、」

戸瀬「…」


中村N「手を引かれ、カウチソファーに無理矢理座らされると、先生の綺麗な顔が目の前に迫ってきた。」


中村「なっ!なん、で!す!か」

戸瀬「熱を測るんだよ、動くな」

中村「ありません!!」

戸瀬「いいから」

中村「にしても手で!!手でいいでしょうが!!」

戸瀬「私の手は冷たいんだ。これじゃまともに分からないだろ。ほら、動くな」


中村N「心臓が煩い。眼球の奥が痛い。涙の膜がゆらゆら揺れる。」


戸瀬「やっぱり、具合悪かったんじゃないか。」

中村「え、」

戸瀬「言えよ。だったら使いなんか頼まなかったのに」

中村「いや、僕は」

戸瀬「帰れるかな…あー、いや君一人暮らしだったな。心細いだろ。だからって泊めてやるのもトラウマ刺激することになるか?あー、間藤の犬に連絡…いやこの前散々嫌味言ったばっかりだし、あーでも…いやその前に病院…」


中村N「先生はぶつぶつ言いながら僕に薄い膝掛けを掛けてくれた。具合が悪い…のか。そういえば昨日の夜から食欲がなかった。意識し始めてから段々と重くなっていく体。情けなさに深くため息をついた。」


戸瀬「ん、何だ。また泣くのか?昌くんは具合が悪くなるとメンタルも貧弱になるタイプなんだな。」

中村「…そんな、わけでは…」

戸瀬「ほら、病院連れて行ってやるから。」

中村「1人で行けます」

戸瀬「…そんな泣きそうな顔で言うな。」

中村「…」

戸瀬「病院までは一緒に行ってやるから。何だ病院嫌いなのか?」

中村「…」

戸瀬「また子犬に逆戻りだよ。やめろって言ってんだろそれ。ほら行くぞ。」


______


中村N「ぽちゃん、と。水面を揺らすたび高らかに響く音がする。清らかな世界。暗くて暗くて、自分の姿すら見えない。世の中は色を失った。」


中村N「手の感触は確かにある。目は開けているはずだ。ただ、何も見えはしない。世界は色を失った。光もないこの世界。僕にできることは手を握ることだけだった。腕や足を動かすことも体を動かすこともできはしない。」


中村N「遠くから聞こえる、水滴の音。これだけがこの世界の全てだった。」


______


戸瀬「ん?」

中村「せ、んせ」

戸瀬「ああ、」

中村「さむ、くて」

戸瀬「寒い?解熱剤切れたか。この部屋毛布どこにあるんだ?」

中村「…ここ、僕の部屋ですか?」

戸瀬「そう。」

中村「…え。先生…どうして」

戸瀬「いいから毛布は?」

中村「あ、あの、クローゼットの、」

戸瀬「ここ?」

中村「あ、はい」

戸瀬「あ。あった。…はい。」

中村「…すみません。」

戸瀬「ん。」

中村「あの、僕、病院からよく覚えてなくて…」

戸瀬「ああ。インフルエンザ」

中村「…え。」

戸瀬「熱が高かったから点滴で解熱剤だけ入れてもらって帰ったんだ。」

中村「…え、先生ダメですよ、うつっちゃうじゃないですか」

戸瀬「君が帰らないでって言ったんだろ。」

中村「な、」

戸瀬「今回の分は倒れてもいいように先に書き上げておいた。ありがたく思いなさい。」

中村「…」

戸瀬「ほら、お礼が聞こえません」

中村「…あ、りがとう、ございます」

戸瀬「だからほら。安心して寝なさい。」

中村「…なんか。」

戸瀬「ん?」

中村「酒クズに寝かしつけられるのは不服ですね」

戸瀬「…君は」

中村「はい」

戸瀬「心と口が乖離するようにできているのか?」

中村「え?」

戸瀬「…いや。君の親御さんは大変だったろうなと思ってね。いいから寝なさい。辛いだろう。」

中村「…」

戸瀬「…ん?」

中村「…先生。」

戸瀬「なに。」

中村「…いかないでください。」

戸瀬「…はは。私は君の親ではないよ。」


戸瀬「そうだろ?戸瀬知代子。」


______


中村N「ぽちゃん、と。水面を揺らすたび高らかに響く音がする。清らかな世界。暗くて暗くて、自分の姿すら見えない。世の中は色を失った。」


中村N「そんな折、ふと、一筋の光が注いだ」


中村N「ぽちゃん、と。清らかな世界。僕はいきたくなった。そちら側を見たくなった。動かない腕を無理矢理引きちぎって伸ばした。」


中村N「ぽちゃん、と。清らかな世界は僕を歓迎した。呼んだ。足の枷も体も首も自由になった。その水面の側、一筋の光。その清らかな世界は」


中村N「血に染まった、赤いハイヒール。水面に浮かぶ死んだ戸瀬知代子。」


______


中村N「飛び起きると目の前が大きく揺れた。見慣れたベッドの上で、額には冷却シートが貼ってあった。カーテンからは光が漏れていないことから夜であることが分かった。先生の姿はない。帰ってしまったのかもしれない。ベッド横のサイドテーブルにあらかた飲み物などが置いてあったが何となく、先生を探しにリビングへ向かった。」


中村N「廊下へ出ると話し声が聞こえた。まだ帰っていなかったのだと安心した。」


戸瀬「なんだ、まだ書けてないのか?」


戸瀬「書き方なんてないって言ってるだろ。あ、万年筆届いた?かっこよかっただろ。レインボーの」


戸瀬「うそうそ!本当のやつは来週届くはず!…うん。あのさ、茉莉。今度、毒物一覧みたいなやつ作って欲しい。作品で使いたくてさ。」


戸瀬「うん。頼んだー。」


中村「…誰と話してたんですか」

戸瀬「あれ、起きてきたんだ。どう?具合」

中村「はい。大分いいです」

戸瀬「…には見えないけど」

中村「…」

戸瀬「今の電話は、作家の卵」

中村「作家の、卵」

戸瀬「そう」


中村N「悪い夢だと、言って欲しかった。」


戸瀬「資料とか作ってくれるお礼に、作品見てやるって。そういう契約したんだよ。」

中村「先生が、ですか?」

戸瀬「…そう」

中村「嘘ですね」

戸瀬「何で嘘だって」

中村「先生はそんなことしません」

戸瀬「…」

中村「本当のこと言ってください」

戸瀬「いや、本当だって。私だって人に頼られれば手だって貸すさ。現に今だって君を看病してるだろう」

中村「そ、れは」

戸瀬「なー??」

中村「…」

戸瀬「人でなしではありません。戸瀬知代子大先生は大変立派な真人間ですから。」

中村「…」

戸瀬「ほら。ふらついてるから、寝なさい。」

中村「先生、本当に深い理由は、」

戸瀬「ないったらないよ。」

中村「…」


中村N「先生が、誰かを育てるなんてありえない。僕の勘は、正しかったに違いない。」


______


戸瀬「…もしもし。知代です。すみません、夕方は電話に出られませんで。知り合いが、急病で。…ええ、今は眠ってますので大丈夫です。」


戸瀬「…ええ。分かっています。それでも。」


戸瀬「いけませんか。…許せないんです。どうしても。」


戸瀬「ね、私達ただ運良く生き延びてるだけなんですよ。のうのうと生きてるだけ。それなのに世間じゃ成功して良かったですねーだなんて言われてるんです。あいつも、私も。イカれてます、ええ、イカれてますよ。もう、飲んでないと保てないくらいには。出てくるんです。あの頃の私が。早く、早くしてくれないと私…。」


戸瀬「…はは。そうでしょう。知代(ちよ)に会いたかったですか。会えますよ。簡単に。」


戸瀬「死ぬ前に会ってやってくださいよ。本当の私に。」


______


中村「先生、こんにちは。」

戸瀬「お。復活したかー」

中村「この度は大変ご迷惑をおかけして、」

戸瀬「いやいやーいいよいいよ。君の弱みを握れたと思えば軽いもんさ」

中村「…それにしてもうつらなかったんですか。」

戸瀬「うつらなかった。」

中村「…人でなし」

戸瀬「お前な…」

中村「これ、お詫びの品です。」

戸瀬「お!なんだ!その品は!!!」

中村「…」

戸瀬「…いいの?」

中村「頂き物ですが。」

戸瀬「いただいたの?」

中村「はい。」

戸瀬「栄雅(えいが)!今日飲もうかなー!」

中村「どうぞ。」

戸瀬「…あれ、上がらないの?」

中村「先生。」

戸瀬「ん?」

中村「…いえ。」

戸瀬「…あれ、そういえば今日スーツじゃないね」

中村「…今日は編集者としてじゃなくて、中村昌としてここに来ましたから。」

戸瀬「…そう。」

中村「はい。」

戸瀬「飲む?」

中村「いえ。」

戸瀬「まあ、病み上がりにはきついか。」

中村「ですが、今日はゴミの日なので」

戸瀬「何」

中村「片付けしてもいいですか。」

戸瀬「…いいよ。」

中村「はい。」


中村「お邪魔します。」



______



店主「あら。」


中村「こんにちは。」

店主「どうしたの?そんな子犬みたいな顔して。」

中村「あの、僕にも金魚、売ってください。」

店主「…へえ。」

中村「飼い方、教えてください。」



中村「あの金魚が長生きする方法、僕に教えてください」

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水面に浮かぶ鱗 有理 @lily000

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