第5話 出た、パンクババア

 ペダルを踏み込むたびに、夜の空気が肌に張りついてきた。四月とはいえやっぱり夜はまだ寒い。

 遠くで犬が一度だけ吠えたのが聞こえた。

 行き交う人は不思議といない――。


 僕たちはそれぞれ胸の奥をざわつかせながら、チェーンを軋ませて夜の住宅街を進んでいった。


 奥野家を出て右に走るとすぐに下り坂があって、そこを降りきって左に曲がって直進すると今度は坂を登る。――すべて、柘榴塚さんにいわれたとおりの道だ。


 もちろん後ろから夏高くんがついてきているのはちゃんと確認していた。

 言葉はない。黙々と僕の後をついてきてくれている。

 それでいい。僕の仕事は、表面上は彼を塾へ送り届けること。でもその真実は、柘榴塚さんにいわれた通りの路に夏高くんを連れて行くこと、だから。


 大きな児童公園の横を公園に沿って曲がると、不意に道が狭くなった。自転車が一台通るのがギリギリくらいの……車なんか入ることすらできないくらい細い。


 これじゃ道っていうよりも、隣にある工場の裏通路だ。その工場も、もう今日の業務を終えてしまったのか人気がなくて静まりかえっている。

 当然外灯はあるにはあるけど、ちっぽけなやつが遠い間隔で灯っているだけだ。児童公園内から漏れてくる外灯の明かりも心許ないし、その児童公園は当然ながら人がいる気配がない。


 タイヤの回転で点灯するタイプのライトが急激に光量を落とした。あまりの路の狭さにスピードを緩めたからだ。


 ハンドルを握る指先がわなっと震えた。思わず足がすくんで動かせなくなって、ペダルが惰性で転がる。呼吸の音がやけに近くで響くのが耳障りだった。


 出るなら、こういうところで出る。そんな確信があった。

 パンクババアが出るのか。それとも柘榴塚さんが仕掛けたなにかが出るのか――。


 夏高くんはどうだろう?


 後ろを振り向いて確認してみたいけど、自転車を漕ぎながらじゃそんなことはできない。狭い道だし、よそ見運転は危険だ。

 でも夏高くんの自転車のライトが後ろから照らしてきているし、タイヤがアスファルトを踏みつける音も聞こえてくる。ちゃんと着いてきてくれてる。


 彼は、この道のことをどう思っているだろう。不安? 恐い? 帰りたい?


 とにかく、道が狭いからスピードを緩めて慎重に漕いでいかないと。それだけは確かだ。


 ――と。

 行く手の電信柱の影から、ひょこりと人影が現れた。


 このままではぶつかってしまう! 僕は慌ててブレーキを握りしめ――。


 その瞬間、心臓が一際大きな不整脈を一回ドクンと打つ。遅れて息をハッと呑み込んだ。


 それは、手押し車を押した小さな人影だった。背中を丸めていて、白い髪を垂らしている。

 一瞬にして、夜風が冷えた気がした。


 ……パンクババア?


「っ」


 後ろの自転車からも息を呑む声が聞こえてきた。夏高くんだ。


 キキーッと急ブレーキの音が、僕の背中から聞こえた。夏高くんがブレーキを握りしめたんだ。


 ハンドルを押さえつけながら顔を上げる僕の瞳に、意外なほど近くにいる白い髪が映った。でも白い髪が顔面に垂れていて、表情が見えない。


 息が止まる。声を出したいのに、ひゅっとすぼまった喉が貼り付いてしまったかのように動いてくれない。


『あなたと私の仲もここまでだ』


 柘榴塚さんの声が聞こえたような気がした。

 思わず目の端で柘榴塚さんを探す。きっとどこかに潜んでいて「この機会を待ってたんだ」とかいいながら出てきてくれるはずだ。だけど、キョロキョロ動かす視線のどこにも彼女はいない!


 パンクババアだよ。パンクババアが出たんだ。

 なのに、もうっ、柘榴塚さんー!


 目の前のパンクババアは微動だにしなかった。なのに、夜の気配ごとこちらへ傾いてくるような存在感がある。


 長い白髪の奥から、こちらをじっと見つめている――。


「タイヤがパンクしてしまったの……」


 その声は、風が隙間をすべるように細く震えていた。声自体に実態があるかのように、縮こまった首筋にざらりとした感触がする。


「タイヤを交換してくれないかしら?」


 解説動画の通りだ。ていうかこれでコメントに書き込めるな、『パンクババアに実際に会いました』って。いやでも、ダメだな。ウソだって煽られるに決まってる。


 そんなことはどうでもいい。どうしよう。

 相手はパンクババアだ、パンクババア。えっと、この場合は……「タイヤを交換してくれない?」って言ってきてるから、それを断ったら命をとられるんだよな。だからやっぱりタイヤの交換には応じないと。死にたくないし。


 まったく、こんなときに肝心の柘榴塚さんがいないなんてどうなってるんだ。おびき寄せるのには成功したのに! あとは柘榴塚さんだけだよ!?


 頭の中でいろいろと駆け巡らせる僕の後ろで、自転車が倒れる派手な音と、ドスンというなにかが地面に落ちる音があった。

 何事かと振り返ると、常時点灯タイプのライトをそのままにして地面に倒れた自転車と、その横で尻餅をつく夏高くんがいた。


「あ……あ……」


 自転車の明かりに浮かび上がる夏高くんの顔は、目を見開いて口をわななかせて……恐怖に凍り付いていた。


 そりゃそうだ、都市伝説の怪異が目の前にいるんだから! しかも夏高くんにとっては何度目かの遭遇になる。僕がいればパンクババアは出なかったのに、それすら突破してしまうくらいに完全に取り憑かれてるんだ。

 

 僕は自転車から飛び降りると、スタンドを立てて急いで夏高くんに駆け寄った。


 怖がってなんかいられない。僕は年上なんだから!


「夏高くん、逃げよう!」


 肩を掴むと、彼は驚くほど激しくガタガタと震えていた。怯えた瞳は大きく見開かれ焦点があっていない。そのくせ、視線は真っ直ぐパンクババアに向いていた。


「どうして……」


 口元から、小さな言葉が泡のように溢れていた。


「夏高くん!」


「どうして、どうして。ごっ、ごめんなさい、僕、こんなことするつもりじゃなくて――」


 喉の奥でつっかえさせながら、押しつぶされた掠れ声で謝罪の言葉を紡ぎ続けている。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 そのとき、ふとある疑問が頭に浮かんだ。


『ごめんなさい』? 『こんなことするつもりじゃなくて』?


 なんで夏高くんは謝ってるんだ? 夏高くんは何も悪くない。ただパンクババアに取り憑かれただけの被害者なのに。


 まさか、生前のパンクババアを跳ねた自転車って夏高くんなの!?


 いや、たとえそうだとしても――。


 パンクババアが出たっていうのに柘榴塚さんはいない。それじゃ、夏高くんのことは僕が守らなくちゃね!


 生前、自転車に跳ねられた先で自動車に轢かれてグチャグチャになったしまったパンクババア。孫の誕生日にケーキを買って帰るところだった優しいお婆さん……。


 僕は決意を込めて夏高くんの前に立ち上がると、パンクババアに敢然と振り返った。


 そして叫んだ。


「パンクババアさん! タイヤが壊れたのなら僕が修理します! だから、どうか危害を加えないでください! そんなことお孫さんも望んでません!」


「……」


 パンクババアは反応しない。

 ただじっと、白い髪の間から見つめられているのを感じた。僕の話に耳は貸してくれてるみたいだ。


 よし。


 僕はさらに言いつのった。


「なんだったらあなたのお孫さんを探して、渡せなかったケーキを代わりにプレゼントします。誕生日のケーキにはならないけど、でも僕にできるのはそれくらいだから。それでどうか許してあげてください。夏高くんを解放してください……!」


 その白い髪の間から見ていたパンクババアは、そこで――曲がっていた背をシャンと伸ばしたのだ。


「……水間くんって、とことん優しいんだね」


 確かに聞いたことのある、呆れたような、でもしっかりとした声。


 満月の光が一際鮮やかに、パンクババアを照らした気がした。


 ……パンクババアが? え? なにを言って――?



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