第28話 『Transition – 幕間 #7 “深海の水圧、あるいは甘い呼吸”』
「……はぁ、ぁ……」口から漏れる息が、熱い。
体内ではまだ、腐敗したチーズの熱が燻り続けている。
血管の裏側に、青黒いカビが根を張り、ドロリとした粘液が全身を循環しているような、重く、気だるい感覚。
満腹だ。
胃袋は、もうこれ以上何も入らないと悲鳴を上げている。
けれど、魂は乾いている。熱すぎて、爛れすぎて、潤いを求めて叫んでいる。
喉が張り付く。舌が痺れている。視界が、腐敗の黒と、情熱の赤でチカチカと明滅し、平衡感覚が定まらない。
私は椅子の上で身体を折り曲げ、自身の熱に焼かれながら、救済を待っていた。
「……お待たせいたしました」
綾霞の声が、どこか遠く、分厚いガラス越しのように響いた。
次の瞬間。
ゴボッ。
という、巨大な気泡が弾ける音がして、世界が反転した。
ツンと鼻をつく腐臭が、一瞬にして消し飛ぶ。
代わりに押し寄せてきたのは、圧倒的な質量を持った冷気と圧力。
肌に、空気が張り付く。
目には見えないけれど、とてつもなく重く、冷たい空気が、ダイニングルーム全体を満たし始めていた。
「っ、ぐ……!?」
私は息を吸おうとして、喉を詰まらせる。酸素がない。
肺が圧迫され、肋骨がミシミシと音を立てて軋む。
苦しい。
まるで、千年分の時間を濃縮して、頭上から注ぎ込まれたかのような圧。
物理的な重さではない。
『物語』という情報の質量が何倍にも膨れ上がり、私を椅子の底へと縫い止める。指一本動かせない。
まばたき一つすることさえ、億劫なほどの重圧。
空気が、青黒く色づいていく、まるで深い水の底に沈められたように。
「……静かに。……暴れてはいけませんわ」
紗雪が、ゆらりと私の視界に入り込む。
彼女の姿を見て、私は息を呑んだ――いや、息を呑むことさえできなかった。
彼女の灰銀色の髪が、重力に逆らってふわりと浮き上がり、ゆらゆらと漂っている。
海藻のように。あるいは、水槽の中に囚われた人魚の尾ひれのように。
彼女のメイド服のスカートもまた、水流に揺れるイソギンチャクのように広がり、その下から覗く白い脚は。球体関節を失い、人の形をとるそれが、どこか人間離れした艶めかしい光沢を帯びていた。
「力を抜いて。……肺の中の空気を、すべて吐き出してしまいなさい」
紗雪が、私の顔を両手で挟み込む。
その手は、氷のように冷たく、そして濡れていた。
「地上の呼吸など、ここでは不要です。……あなた様はもう、灰色の、ただの何物でもない人、などではないのですから」
彼女の顔が近づく。翡翠色の瞳が、深海の暗闇の中で、怪しく発光している。
「いえ、だからこそ、溺れかけているのかもしれませんね」
綾霞がじっと、薄赤色の瞳で見つめながら、冷徹に告げる。
私の唇に、自身の唇を重ねる紗雪。
冷えきった冷たさから、甘い水が流れ込んでくる。
んッ……!?
私は反射的に飲み込む。
それは酸素を含んだ液体が喉を通った瞬間、焼き付くようだった肺の渇きが癒え、代わりにエラ呼吸をする魚のように、身体の奥底から静かな活力が湧いてくる。
「……ふふ。お上手ですわ」
紗雪が唇を離し、満足げに微笑む。
口元から、銀色の気泡がポコポコと漏れ出し、天井へと昇っていく。
私は、恐る恐る呼吸をしてみる。
吸い込める。
空気と入れ替わった、この重く冷たい『水』を、直接体内に取り込んでいる。
肺が満たされるたびに、身体の中の熱が冷まされ、透明になっていく感覚。
獣の血が薄まり、腐敗の毒が浄化され、限りなく純粋な『何か』へと還元されていく。
「……ここは?」
私の声は、水中特有のくぐもった響きを持って伝わる。
見回せば、ダイニングルームの壁はまたも、消失していた。
あるのは、どこまでも続く濃紺の闇。
天井からは、遥か彼方の水面から届く微かな光が、ゆらゆらとカーテンのように差し込んでいる。
床には、白い砂が敷き詰められ、珊瑚のような奇妙な装飾が施された家具が鎮座している。
「世界の底。……あるいは、すべての物語が流れ着き、沈殿する場所」
綾霞が、音もなく私のそばに現れる。
彼女の姿もまた、深い海の住人のそれだった。
和装メイドの袖がヒレのように長く伸び、揺らめいている。
彼女が歩くたびに、足元の砂が舞い上がり、キラキラと燐光を放つ。
「チーズの腐敗は、魂を熟成させました。……ですが、熟成の果てには、『結晶化』が待っています」
彼女は、厨房――今は巨大な岩窟のように見える場所――を指し示す。
「永い時を経て、不純物をすべて削ぎ落とされ、ただ純粋な『想い』だけが宝石のように残る場所。……それが、この深海図書館です」
私は、自分の身体を見る。
私が纏っているのは、薄い皮膜のような、半透明の衣。
肌の色は青白く透き通り、血管の代わりに、青い光の筋が脈打っているのが見える。
綺麗……さっき食べた、あのドロドロのチーズや肉、綾霞によって調理された物語が、この水圧で濾過されて純粋な光の燃料に変わっているのだ。
私の身体もまた、深海の圧力に耐えられるように、作り替えられてしまったのだ。
きっと、先ほどの……。
重い。
お腹の底に沈む質量が、以前とは比べ物にならないほど増している。
この屋敷に迷い込む前はもちろん、黄金のスープを飲んだ後よりも。
これまで食べてきた物語――ナルシシズム、狂愛、溺愛、情熱、敬愛、共依存……あらゆる全てが私の中で混ざり合い、圧縮され、高密度の『核』となって、お腹の底に沈んでいる。
もう二度と、海面へは浮上できないかもしれない。
けれど、それが悲しいとは思わなかった。
むしろ、この重さこそが、私が私であることの証明のように思えて、心地よい。
「……参りましょうか」
綾霞が、岩窟の奥へと私を誘う。
図書館、彼女は確かにそういっていた。けれど、本が収められているべき棚に、本は一冊も見当たらない。
代わりに収められているのは、色とりどりの『結晶』だ。
宝石のように煌く、カッティングが施された青、赤、金、紫、黒。星の数ほどの結晶が、棚に飾られ、微かな光を放っている。
「これらはすべて、かつて誰かが紡ぎ、そして忘れ去られた物語の残骸」
綾霞が、その一つを、レースの手袋をはめた手に取る。
悲しげな色をした青い宝石……結晶。
「誰にも読まれず、誰にも愛されず、海の底へと沈んできた言葉たち。……わたくしたちは、それもまた、拾い集め、供養し、そして新たな『味』へと昇華させるのです」
彼女は、結晶をそっと戻し、一番奥にある、厳重に封印された祭壇へと向かう。
そこには、一際大きく、そして美しい輝きを放つ、桜色の結晶が祀られていた。
「今回のメインディッシュ(デザート)は、この中でも特級品。……1,000年の時をかけて沈殿し、熟成された、世界を変えるほどの『夢』の塊。たった一人の夢で、この図書館を埋めた。2人の愛の『物語』」
「もちろん、今ここにあるのは、世界中で紡がれた物語の結晶。ここではない、どこかの深海図書館の『物語』ですわ」
綾霞の導きに、紗雪がそっと私の耳元に囁く。
「……1,000年」
私は呟く。気が遠くなるような時間。
その物語の主は、ずっと一人で、この暗い海の底で、夢を見続けていたのだろうか。
胸が締め付けられるような切なさと、同時に、どうしようもないほどの愛おしさがこみ上げてくる。
食べてあげたい。
その孤独を、その夢を、私が食べて、終わらせてあげたい。
私の胃袋が、静かに、けれど力強く脈打った。
それは飢えではない。
「使命感」にも似た、静謐な食欲。
「準備はいいですか? 愛しいあなた様」
紗雪が、私の背中から抱き着いてくる。
彼女の体温は、もう感じない。
私自身が冷たくなりすぎているからか、それとも、二人とも同じ温度(みず)に溶けてしまったからか。
「貴女様の器なら、きっと受け止められますわ。……1,000年分の溺愛も、切なさも、全部」
彼女の手が、私の下腹部を優しく撫でる。
そこには、これまで取り込んできた物語たちが、ずっしりと重く鎮座している。
「大丈夫。……私のお腹、まだ空いてるから」
私は微笑む。嘘じゃない。物理的な満腹感など、この変質した『私の器』の前では些細なこと。
私の魂は、まだまだ貪欲に、新しい色を求めている。
ゴゴゴゴ……。
不意に、地鳴りのような音が響いた。
岩窟の天井に、亀裂が走る。
パラパラと、砂が落ちてくる。
「……おや。少々、水圧が高まりすぎたようですね」
綾霞が、天井を見上げて呟く。
その表情には、焦りはない。むしろ、待ち望んでいた時が来たと言わんばかりの、静かな高揚感。
「館が、悲鳴を上げています。……あなた様の魂の質量に、この空間自体が耐えきれなくなってきているのです」
壊れてしまうの? 私が問うと、紗雪が嬉しそうに頷いた。
「ええ、壊れますわ。……あなた様が『完成』する時、この古びた鳥籠は用済みとなり、水圧に押しつぶされて消滅するでしょう」
彼女は私の頬にキスをする。
「でも、怖がることはありません。……それは『終わり』ではなく、『孵化』なのですから」
パキン。
どこかで、ガラスが割れる音がした。
それは、私の理性の最後の欠片が砕け散る音か、それとも、新しい世界への扉が開く音か。
私は、綾霞が運んでくる銀のトレイを見つめる。
そこには、穏やかな温かな光を放つ、美しい桜色のゼリーが載っていた。
揺らめく光。閉じ込められた夢。
それは、深海そのものを切り取ったような、圧倒的な存在感を放っている。
「さあ、最後の仕上げです」
綾霞が、その皿を私の前に置く。
水圧が、さらに強まる。
私の身体が、椅子にめり込むほどに重くなる。
けれど、私は手を伸ばす。
その重さごと、すべてを飲み干すために。
(To be continued ... 12/29 Grand Dessert)
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