チーズ編:腐敗と耽溺の快美を食す

第25話 『腐敗と発酵、あるいは蜜月(ハネムーン)の刺し傷』

=======筆者前書き=======

近況ノートにメニューのイメージ映像最後の4ページ目をご用意しました♪

https://kakuyomu.jp/users/malka/news/822139841905537660

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 私の目の前に差し出された小皿の上で、黄金色の蜂蜜が、とろりと糸を引いて滴り落ちる。

 その下にあるのは、青黒い黴(カビ)に覆われ、原型を留めないほどに熟したチーズの塊。


 美しい。


 そう思ってしまった自分に、私は微かな目眩を覚えた。普通なら、目を背けたくなるような腐敗の光景だ。

 鼻をつくアンモニア臭、湿った土の匂い、そして濃厚すぎる獣の乳の気配。


 それらは、生物としての本能が危険と判断するシグナルのはずだ。

 けれど、今の私には、それがたまらなく魅力的な誘惑に見える。

 腐りかけているからこそ、甘い。

 壊れかけているからこそ、愛おしい。


 そんな倒錯した価値観が、先ほどの肉料理(神堕とし)を経て、私の魂に深く根を張ってしまっていた。


「『双子聖女』、一欠片目……痛みは蜜の味。傷は愛の証。狂った聖女たちの、夜毎の遊びを、召し上がれ」


 綾霞の声が、どこか遠く、水底から響くように聞こえる。

 彼女の背後にある闇の中で、赤い彼岸花が幻覚のように揺らめき、その花弁から血のような露を滴らせている。


「舌が痺れるほどの『痛み』を、甘い蜜で誤魔化しながら。……それが、この料理の作法でございます」


 私は震える指先で、銀のフォークを握りしめた。

 突き刺す。

 ズブッ、と湿った音がして、フォークの先がチーズの柔らかい肉に沈んでいく。


 抵抗はない。まるで、抵抗することを諦め、全てを受け入れた肉体のように、それは容易く私の侵入を許した。

 掬い上げると、ねっとりとした糸が引く。

 青い黴の脈が、黄金の蜜に濡れて、妖しく光る。

 隣にたっぷりと用意された蜂蜜を絡めとり、私は意を決し、それを口の中へと放り込んだ。


 ――ジュワァ!


 舌に乗せた瞬間、脳髄を直撃した衝撃。

 舌の表面が無数の針で刺されたかのような、強烈な痛み。

 鼻腔を突き抜ける揮発性のアンモニア臭が、涙腺を刺激し、視界を滲ませる。

 腐っている。

 腐った花のような甘ったるい死臭。

 これは間違いなく、腐敗だ。


 私の喉が、拒絶反応で引き攣る。

 吐き出してしまいたい。こんな汚らわしいもの、飲み込んではいけない。


 かつての『私』――清廉潔白で、推しの幸せだけを願っていた善良なファンとしての理性が、必死に警鐘を鳴らす。


 けれど、その直後。

 圧倒的な甘さが、痛みを塗りつぶすように押し寄せてきた。

 濃厚な花の香りの凝縮された黄金の蜂蜜が、傷ついた舌を優しく撫で、腐敗の刺激を母乳のようなまろやかなコクへと変えていく。


 痛みと、甘み。

 ナイフで裂かれる苦痛と、傷口を舐められる法悦。


 拒絶と、受容。

 相反する二つの感覚が、口の中で激しくせめぎ合い、混ざり合い、やがて渾然一体となった『快楽』へと昇華されていく。


「ん、んぅ……ッ!」

 口から漏れたのは、苦悶とも恍惚ともつかない、甘い喘ぎ声だった。


 美味しい。

 どうしようもなく、美味しい。


 それは、背徳の味だ。

 見てはいけないものを見てしまった時の興奮。

 触れてはいけないものに触れてしまった時の高揚。

 推しの聖域を土足で踏み荒らし、その最も脆く、汚れた部分を暴き出してしまったような、暗い征服感。



 ◇  ◇  ◇


 視界が歪む。

 ダイニングルームの闇が、ねっとりとした質感を持って私に纏わりついてくる。

 気がつけば、私は豪奢な天蓋付きのベッドの上にいた。


 シーツは乱れ、あちこちに赤黒い染みが広がっている。

 ワインの染みかと思ったそれだが、どうにもおかしい。つい先ほど見慣れてしまったような。

 血の跡。


 目の前には、一人の少女がいる。

 透き通るような白い肌、アメジストのような紫の瞳。そして、同じ顔をした、ピンクのモルガナイトの瞳の少女。


 もう、私は『物語』の視点にはたっていないらしい。

 俯瞰視点から見下ろす、淫靡な背徳の儀式。


『痛い? かわいそう。……もっと? もっとする?』

 鈴を転がすような、無邪気で残酷な声。


 銀のナイフが、純白のドレスを貫き、柔らかな太ももに突き立つ。

 ぞぶり。

 肉が裂ける音。


 けれど、悲鳴は上がらない。

 代わりに聞こえるのは、とろけるような甘い吐息。

『っ、ぁ……! ロザリア、あぁ……!』

 刺された少女――ヴィオラが、恍惚の表情で背中をのけぞらせる。


 痛い。痛いはずなのに。その痛みこそが、彼女たちを繋ぐ唯一の絆であるかのように、二人は互いの傷口を貪り合っている。

 血が流れる。赤い血が、白い肌を汚し、ドレスを染めていく。

 それを見る彼女たちの瞳は、潤み、熱を帯び、底知れぬ愛欲に満ちている。


『ごめんね、ヴィオラ。痛かったわよね? 怖かったわよね?』

『いいえ、ロザリア。……もっと、もっと深く……頂戴』

 傷つけることでしか愛せない姉と、傷つけられることでしか愛を感じられない妹。

 二人の魂が、腐敗したチーズのように絡み合い、溶け合っていく。


 そこには、第三者が入り込む余地などない。

 完結した、閉じた世界。

 腐り落ちる寸前の、最も甘く、最も危険な蜜月。



 ◇  ◇  ◇



 現実に戻った私は、あまりの快美の爪痕に、荒い息を吐きながら椅子の背もたれに崩れ落ちた。

 全身が熱い。


 肉料理の時の、燃え上がるようなはしゃいだ熱さとは違う。

 もっと粘度のある、身体の芯からじわじわと蝕んでいくような、毒々しい微熱。


 口の中には、まだチーズの余韻が残っている。

 塩辛く、臭く、そして甘い。

 それはまるで、愛する人の汗や体液を舐めた時のように、生々しく、本能に訴えかけてくる味だった。



「……ふふ。いいお顔」

 隣で、紗雪が熱っぽい声で囁く。

 彼女は私の肩に顎を乗せ、横から私の顔を覗き込んでいた。


 その瞳は、とろんと潤み、焦点が合っていないように見える。

 まるで、彼女自身もまた、この腐敗の毒気に当てられ、陶酔しているかのように。


「感じますわ……。貴方様の中で、何かが壊れて、溶け出していく音が」

 彼女の手が、私の太ももを這う。

 ドレスの上からでも分かる、冷たく、執拗な指の動き。


「ここ……。物語の中のあの子が、刺した場所ですわね」

 彼女の爪が、肉に食い込む。

「痛くないですか? ……それとも、ゾクゾクして、濡れてしまいます?」


 それはもはや愛撫というよりは、獲物の肉質を確かめるような、あるいは傷口を探すような手つき。


「痛かったでしょう? 苦かったでしょう? ……でも、それがいいのです」

 紗雪が、私の耳朶を甘噛みする。

 チクリとした痛みが走る。

 その痛みさえもが、今の私には甘美なスパイスのように感じられる。


「痛みがあるからこそ、その後の甘さが際立つのです。……傷つけ合うことでしか確かめ合えない『絆』も、この世にはあるのですわ」


 私は、彼女の言葉に無言で頷く。


 そうだ。

 綺麗なだけの関係なんて、嘘だ。

 私が推しに向けていた感情も、本当はもっとドロドロとしていて、汚いものだったはずだ。

 崇拝? 感謝? そんな綺麗な言葉でラッピングしていたけれど、その中身は、独占欲や嫉妬、そして『私だけを見てほしい』というエゴの塊だったんじゃないか?

 私は結局、聖人君子にはなれなかったのだろう……社会という枷を、規範という檻を、理性という枷(かせ)を、じっくりと、ねっとりと打ち壊されてしまった今となっては……。


 私の心の中にあった『カビ』が、このチーズを触媒にして、一気に増殖していくのを感じる。

 隠さなくていい。

 否定しなくていい。

 この腐った感情こそが、『私の愛』の正体だったのだから。


 私の心臓には、とっくに『カビ』が生えていたんだ。

 嫉妬、独占欲、加虐心。


「さあ、続きを」

 綾霞が、冷ややかに促す。


 皿の上にはまだ、青い黴(カビ)に塗れたチーズの欠片が残っている。


「腐敗はまだ始まったばかりです。……ここからさらに深く、暗い場所へ。もう二度と、光の当たる場所へは戻れない覚悟で」

 彼女は、新しいワインを私のグラスに注ぐ。


 それは血のように赤く、そして澱のように濁っていた。

 私はグラスを煽る。

 渋みと酸味が、口の中のチーズの脂を洗い流し、そして新たな渇きを呼び覚ます。


 もっと。

 もっと傷つきたい。

 もっと汚れたい。


 私はフォークを突き立てる。

 今度はもっと深く、もっと容赦なく。

 チーズの断面から、蜂蜜と混ざった中身が膿のように溢れ出すのを、私は恍惚とした目で見つめていた。




【本日のメニュー:Fromage】

『双子聖女』 ~熟成された痛みと快楽、ゴシック・ブルーチーズ~

 第1章 『聖女の遊びは、血と蜜の味がする』

https://kakuyomu.jp/works/822139840070289218/episodes/822139840071210209

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