第39話:キスの味は煤の味

 歓声の奔流が、遠い波音のように聞こえた。


 黄金色に染まり始めた空の下、橋の中央に鎮座する黒鉄の怪物――機関車『夜明け号』の屋根の上。

 私たちは並んでへたり込み、朝日が昇る地平線をただぼんやりと眺めていた。


 全身の力が抜け、指一本動かせないほどの虚脱感が体を支配していた。

 でも、それは決して不快な重みではなかった。

 背中を預け合うクロードの体温が、足元のボイラーの余熱よりも温かく、凍りついていた私の芯までじんわりと染み込んでくる。

 生きている。

 その実感が、遅れてやってきた震えと共に、指先から全身へと広がっていく。


 風が吹いた。

 煤と油、そして火薬の残り香を含んだ峡谷の風が、私の火照った頬を撫でていく。

 それは、死の匂いではなく、泥臭くも力強い、生きている人間の匂いだった。


「……生きてるか? エリザベート」


 クロードが、独り言のようにポツリと呟いた。

 彼の声はひどく掠れていた。あの演説で声を張り上げたせいか、それとも感情の波に飲まれているせいか。

 その震える声色が、普段の彼からは想像もつかないほど弱々しく、そして愛おしく響く。


「ええ。……なんとかね」


 私は深く息を吐き、自分の手を見た。

 真っ黒だ。爪の間まで石炭の粉が入り込み、あちこちに擦り傷がある。掌はスコップを握りしめたせいで皮が剥け、血が滲んでいる。

 ドレスは見る影もなくボロボロで、焦げ跡だらけ。スカートの裾は引き裂かれ、かつて社交界で「氷の華」と呼ばれた公爵令嬢の面影など微塵もない。

 きっと、今の私は路地裏の孤児よりも薄汚れているだろう。


「……貴方のせいよ。あんな無茶苦茶な運転をするから、寿命が十年縮んだわ」

「俺もだ。……お前が石炭をくべすぎるから、ボイラーが破裂するかと思った」


 彼はクスリと笑った。力が抜けたような、子供のような笑い声。

 私もつられて笑った。

 互いの顔を見合わせると、ひどいありさまだ。煤で真っ黒になった顔に、流れた涙と汗が白い筋を作っている。まるでサーカスの道化師だ。

 でも、こんなに美しく、愛おしい道化師は、世界のどこを探してもいないだろう。


 クロードがゆっくりと体を起こし、私の方を向いた。

 朝日が彼の背後から差し込み、乱れた黒髪と逞しい肩の輪郭を光で縁取っている。

 その逆光の中で、琥珀色の瞳だけが、揺るぎない熱を持って私を射抜いていた。


「……なぁ」

「何?」

「俺は、技術屋だ。……形のないものは信じねえ。鉄と、数字と、実績だけが真実だと思って生きてきた」


 彼は不器用な手つきで、私の汚れた髪を耳にかけた。

 その指先が、微かに震えているのがわかった。

 かつて私の背中から破片を抜いた時と同じ震え。けれど今は、恐怖ではなく、溢れ出す感情を抑えきれない震えだ。


「だが……今日、初めてわかったことがある」

「……」

「奇跡ってのは、あるんだな」


 彼は橋の下、歓喜に沸く人々を見下ろした。

 ハンズが、ガストンが、そしてかつてはいがみ合っていた帝国と共和国の兵士たちさえもが、武器を下ろして空を見上げている。

 不可能と言われた橋。止められないと思われた戦争。

 それらが今、私たちの足元で一つに繋がっている。


「俺一人の計算じゃ、絶対に届かなかった。……お前がいたからだ。お前が俺の背中を叩き、俺の理屈を超えた場所へ引っ張り上げてくれたから……俺たちは空を飛べたんだ」


 彼の言葉が、私の胸を熱く満たしていく。

 喉が詰まって、声が出ない。

 私も同じだ。

 公爵令嬢としての意地と、計算高い悪女の仮面。それだけで自分を鎧い、誰にも心を開かずに生きてきた私が、こんなにも熱く、無防備になれたのは、彼がいたからだ。

 彼が私の「計算」を「信頼」に変えてくれたからだ。


「……私こそ、お礼を言うわ」


 私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。

 ザラついた掌の感触。油の匂い。

 それが何よりも落ち着く。


「私を『共犯者』にしてくれてありがとう。

 貴方と出会わなければ、私はただの綺麗な人形のまま、誰かに操られ、退屈な人生を終えていたでしょうね」


 私は微笑んだ。きっと、今までで一番、素直な笑顔で。


「今の私は、世界で一番汚くて……世界で一番、幸せな女よ」


 クロードの目が揺れた。

 琥珀色の瞳の奥で、何かが決壊したのがわかった。

 彼は私の手を強く握りしめ、引き寄せた。

 距離が縮まる。

 お互いの荒い吐息がかかる距離。


「……エリザベート」


 彼は私の名前を呼んだ。

 今まで聞いた中で、最も優しく、甘く、そして切実な響きで。


「もう、離さねえ」


 それは、あの夜、病室で交わした契約の更新であり、永遠の誓いだった。

 あの時は「責任」という言葉で誤魔化していた想いが、今は剥き出しの言葉となって溢れ出していた。


「国へ帰れと言われても、将軍が来ても、神様が邪魔しても……絶対にお前を離さない。

 この橋が朽ち果てるまで……いや、朽ち果てても。

 俺の隣には、お前が必要だ」


 涙が溢れた。

 我慢していたものが、決壊したダムのように止めどなく流れ出した。

 悪女失格だ。人前で、しかもこんな汚い顔で泣きじゃくるなんて。

 でも、もう仮面はいらない。

 彼の前では、ただの一人の恋する女でいたい。


「……当たり前でしょう」


 私は泣き笑いのような顔で、彼を見上げた。

 視界が涙で滲むけれど、彼の顔だけははっきりと見える。


「責任を取るって言ったのは貴方よ。……一生かけて、私を楽しませなさい。退屈させたら承知しないわよ」

「ああ。……望むところだ」


 彼の手が、私の背中に回される。

 傷跡の上を、守るように優しく包み込む。

 その温かさに、魂が震える。


 顔が近づく。

 私は目を閉じた。

 世界から音が消えた。

 歓声も、風の音も、川の音も。

 心臓の音だけが、教会の鐘のように大きく鳴り響く。


 唇が重なった。


 熱い。

 火傷しそうなくらい熱いキス。

 甘くなんかない。

 口の中に入り込んだ煤と、切れた唇の血と、そして塩辛い涙の味がした。

 鉄と油の匂いがする。


 でも、それは私が知る限り、世界で一番「美味しい」キスだった。


 生きている味がした。

 私たちが泥沼の中で足掻き、傷つき、戦い、勝ち取った生命の味がした。

 彼が食べてきた苦労も、私が飲み込んできた孤独も、すべてがこのキスの中で溶け合い、昇華されていく。


 彼は何度も角度を変え、貪るように私を求めた。

 私も彼の首に腕を回し、しがみついた。

 もう二度と離れないように。魂ごと溶け合うように。

 機関車の上、世界の中心で、私たちはただお互いの存在だけを確かめ合った。


 下からは、鳴り止まない歓声。

 上からは、祝福のような朝日。

 まぶたの裏に広がるのは、黄金色の光の世界。


 長い、長いキスの後。

 私たちは額を合わせ、荒い息をついた。

 距離はゼロ。瞳の中に、自分自身の顔が映っている。


「……ひどい味だ」


 クロードが苦笑した。その目尻には、光るものが溜まっていた。


「じゃりじゃりする」

「ふふっ……貴方の味よ」


 私も笑った。

 互いの顔を見合わせると、口の周りが煤でさらに汚れて、まるで泥棒猫のようになっている。

 なんて滑稽で、なんて幸せな光景だろう。


「……愛してるぜ、エリザベート」


 彼が言った。

 ぶっきらぼうで、照れくさそうで、でも何よりも真剣な声。

 技術者らしく飾らない、直球の言葉。


「……知ってるわ」


 私は彼の胸に顔を埋めた。

 鼓動が聞こえる。力強い、命の音。


「私もよ。……愛してる、クロード」


 ようやく言えた。

 計算でも、取引でも、駆け引きでもない。

 心からの言葉。

 「予算喰いの魔女」でも「天才技師」でもない、ただのエリザベートとクロードとして。


 プシューッ……。

 機関車『夜明け号』が、まるで私たちを祝福するように、長い蒸気を吐き出した。

 その真っ白な煙は、朝日に照らされて輝きながら空高く昇り、青空へと溶けていく。


 私たちの旅は、ここから始まる。

 国境も、身分も、過去の因縁も超えて。

 この鉄の線路が続く限り、どこまでも。


 私は彼の手を強く握りしめた。

 その手は、これからの人生でどんな困難があっても、決して私を離さないと確信できる強さを持っていた。


 朝日が、二人を黄金色に染め上げていた。

 それは、長い長い夜の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる、美しく、優しい光だった。

 私たちは光の中で、もう一度、深く口づけを交わした。

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