第25話:病室の誓い

 冷たい刃物が、皮膚を切り裂く。

 その感触は、痛みというよりも先に「熱」として脳に届いた。


「んぐぅぅぅぅっ……!!」


 私はタオルを限界まで噛み締めた。

 悲鳴を押し殺す。

 声を出せば、手が震えているクロードをさらに動揺させてしまう。それだけは避けたかった。


 背中が焼けるようだ。

 肉を抉られ、異物を探られる感覚。

 それは、これまで経験したどんな拷問――コルセットの締め付けや、社交界での冷ややかな視線――とも次元の違う、生の暴力だった。


「……すまん。もう少しだ」


 背後でクロードの声がする。

 その声は、糸のように張り詰めていた。

 彼も戦っているのだ。私の背中という、小さな戦場で。


 カラン。

 金属音がトレイに響く。一つ目の破片だ。


「……息を吸え。次は深いぞ」


 彼の指示に従い、浅く、荒い呼吸を整える。

 汗が目に入り、視界が滲む。

 私はシーツを握りしめた。爪が布を突き破るほど強く。


 ジュッ、という音が聞こえるような激痛が走った。

 神経が直接ヤスリで削られるような感覚。

 目の前が真っ白になり、意識が飛びそうになる。


(耐えなさい……エリザベート!)


 私は必死に自分を叱咤した。

 ここで気絶してはダメだ。

 これは私が選んだ傷。彼を守り、この現場を守るための代償。

 ならば、最後まで誇り高く受け入れなければならない。


「……とれた」


 長い、永遠にも感じる時間の果てに、クロードが安堵の息を吐いた。

 カラン、という軽い音が、勝利の鐘のように聞こえた。


「……消毒する。しみるぞ」


 強いアルコールの匂いと共に、液体が傷口に注がれる。

 最後の激痛。

 私はタオルを吐き出し、ベッドに突っ伏して大きく喘いだ。


「はぁ……はぁ……っ」

「……終わった。よく耐えたな」


 背中に、清潔なガーゼが当てられる。

 そして、包帯が巻かれていく。

 彼の手つきは、手術中の緊張感とは打って変わって、恐ろしいほど優しく、丁寧だった。まるで、壊れかけたガラス細工を扱うかのように。


「……ありがとう、名医さん」


 私が掠れた声で軽口を叩くと、彼は何も答えず、私の汗ばんだ髪を撫でた。


 ***


 処置が終わり、部屋には静寂が戻っていた。

 ランプの灯りが揺れている。

 血の匂いと、消毒用に使ったブランデーの香りが混じり合い、奇妙な陶酔感を醸し出している。


 私はベッドに横たわったまま、部屋の隅で手を洗っているクロードを見ていた。

 水差しから落ちる水が、赤く染まっていく。

 私の血だ。


 彼は手を洗い終えても、ずっとその場に立ち尽くしていた。

 背中が、小刻みに震えている。


「……クロード?」


 私が名を呼ぶと、彼はビクリと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。

 その顔を見て、私は息を呑んだ。


 泣いていたわけではない。

 けれど、その表情は、泣くよりもずっと痛々しかった。

 顔面は蒼白で、唇は血の気がなく、琥珀色の瞳は深い後悔と恐怖に揺れていた。

 そして何より、彼の手だ。

 タオルで拭いているその手が、抑制が効かないほど震えていた。


 あの天才技師の手が。

 1ミリの狂いもなく図面を引き、爆弾の複雑な配線さえ冷静に切断した、神の指先を持つ男の手が。

 私の治療を終えた途端、恐怖で制御不能になっていたのだ。


「……手が」

「……あ? ああ、クソッ、止まらねえな」


 彼は自嘲気味に笑い、震える手をもう片方の手で押さえ込もうとした。だが、震えは止まらない。


「情けねえ。……爆弾の時は平気だったのによ。……お前の背中にメスを入れた途端、これだ」


 彼は壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。


「怖かったんだ」


 独白のように、ポツリと言った。


「自分の計算ミスで橋が落ちるより……何倍も。自分の手が滑って、お前を傷つけるのが怖かった」


 その言葉は、私の胸を締め付けた。

 彼は技術者だ。自分の技術には絶対の自信を持っている。

 その彼が、技術の問題ではなく、「私を失うかもしれない」という感情の問題で、ここまで動揺している。


 それは、愛の告白よりも雄弁だった。


「……こっちへ来て」


 私は痛む体を起こそうとして、すぐに諦め、手だけを伸ばした。

 クロードは躊躇いがちに立ち上がり、ベッドの脇まで歩いてきた。

 そして、私の手を取ることなく、ただ立ち尽くす。

 自分の汚れた手で、私に触れるのを恐れているようだった。


「座って。……命令よ」


 私が少し強い口調で言うと、彼は観念したようにベッドの端に腰を下ろした。

 私は彼の手を――まだ震えている大きな手を、両手で包み込んだ。

 冷たかった。

 ずっと私のために動いてくれていた手。


「……温かいわ」

「嘘をつけ。冷え切ってるだろ」

「ううん。……貴方の命の音がするわ」


 私は彼の手を、自分の頬に寄せた。

 震えが、私の肌に伝わってくる。


「クロード。……顔を上げて」


 彼がゆっくりと顔を上げる。

 目が合った。

 そこにあるのは、いつもの傲慢な自信家ではない。ただ一人の、傷ついた男の顔。


「……貴方のせいじゃないわ」

「俺のせいだ! 俺がもっと早く気づいていれば……!」

「違うわ。これは私が選んだことよ」


 私は彼の掌にキスをした。

 手の甲ではなく、掌に。

 そこにある無数の傷と、洗っても落ちない油の染み。それら全てを肯定するように。


「貴方が無事でよかった。……貴方がいなくなったら、誰が橋を完成させるの? 誰が私と一緒に、あの将軍を見返してくれるの?」

「……エリザベート」

「だから、自分を責めないで。……その手の震えは、貴方が私を大切に思ってくれている証拠だと受け取っておくわ」


 私の言葉に、クロードは大きく目を見開き、そして歪んだように顔をしかめた。

 彼は私の手を握り返した。

 痛いほど強く。


「……ずるい女だ」


 声が震えている。


「こんな時まで、理屈を並べて……俺を慰めるのか」

「当たり前よ。私は貴方のスポンサーだもの。……最高のパフォーマンスを発揮してもらわないと困るわ」


 強がりを言う私の唇を、彼の人差し指が塞いだ。


「……もういい。喋るな」


 彼の瞳から、迷いが消えていく。

 代わりに宿ったのは、暗く、熱い、執着の炎。


「わかった。……責任は取る」

「え?」

「傷のことだ。……嫁入り前の娘に傷をつけたんだ。一生かけて償ってやる」


 さっき、激痛の中で交わした会話の続き。

 でも、今の彼の目は本気だった。冗談や軽口ではない。

 これは「契約」だ。


「この傷が消えるまで……いや、消えても。お前が俺のくたばった顔を見るまで、絶対に離さない」


 それは、あまりにも彼らしい、不器用で重たいプロポーズだった。

 「愛している」なんて甘い言葉は一つもない。

 「責任」「償い」「離さない」。

 束縛と義務感に満ちた言葉。

 けれど、それが私には何よりも心地よかった。私たちは「共犯者」なのだから。


「……言質は取ったわよ」


 私は涙がこぼれないように微笑んだ。


「高くつくわよ? 私の人生、浪費家だから」

「望むところだ。……稼いでやるよ。世界一の橋を作ってな」


 彼が顔を近づけてくる。

 触れるだけの口づけが、額に落とされた。

 そして、そのまま彼の額が私の額に押し付けられる。

 互いの熱を交換し合うように。


 言葉はいらなかった。

 今、この瞬間、私たちは世界で一番不幸な状況にいて、世界で一番強く結びついていた。

 痛みも、恐怖も、外にいる敵の存在も、二人の間にある熱の前では些細なことに思えた。


 ***


 しばらくして、クロードが顔を上げた。

 その表情は、もう震えていなかった。

 いつもの不遜で、自信に満ちた「天才技師」の顔に戻っていた。

 いや、以前よりも凄みを増している。


「……さて」


 彼は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった布包みを取り上げた。

 血のついたトレイの横に、無造作に置かれていたものだ。


「こいつの始末をつけなきゃな」


 彼が包みを開くと、そこにはひしゃげた金属の塊があった。

 爆発した「信管」の残骸と、解除した「時限装置」の基盤だ。

 そして、もう一つ。

 燃え残った、黒いテープの切れ端。


「……証拠?」

「ああ。動かぬ証拠だ」


 クロードの目が冷たく光った。


「この時限装置に使われている歯車。……これはリベール製じゃない。帝国軍が採用している『砲弾信管用』の精密部品だ」

「軍用品……!」

「市販されてない代物だ。つまり、犯人は軍の補給物資にアクセスできる人間……ゲルハルトの息がかかった工兵だ」


 やはり。

 私の予想通りだった。

 これは事故ではない。軍による自作自演の破壊工作。


「これを突きつければ、将軍も言い逃れできないわね」

「いや、それだけじゃ足りねえ」


 クロードは首を振った。


「あいつはシラを切るだろう。『スパイが盗んだものだ』と言い張ればそれまでだ。……奴を完全に追い詰めるには、もっと決定的な『一撃』が必要だ」

「一撃?」

「ああ。……奴が一番恐れていること。そして、俺たちが一番得意なことだ」


 彼はニヤリと笑った。

 悪巧みをする子供の顔。でも、その奥には悪魔的な計算が働いている。


「エリザベート。……お前、まだ動けるか?」

「失礼ね。口と頭は無傷よ」

「上等だ。……なら、夜が明ける前に『反撃』の準備をするぞ」


 彼は机の上に、新しい図面を広げた。

 橋の設計図ではない。

 現場の見取り図と、将軍の執務室周辺の配置図だ。


「爆弾魔には、爆弾でお返しをしてやるのが礼儀だろ?」

「……まさか、将軍を爆破する気?」

「違う。……奴の『社会的地位』を木っ端微塵にする、特大の爆弾だ」


 私は痛む体を起こし、彼の隣で図面を覗き込んだ。

 背中の傷が疼く。

 でも、その痛みが私を奮い立たせる。

 やられたままでは終わらせない。

 私の体に傷をつけ、私の男を泣かせた罪は、万死に値する。


「……いいわね。乗りましょう、その作戦」


 私はクロードの肩に頭を預けた。

 病室のベッドの上、血と消毒液の匂いの中で、私たちは二度目の「共犯者契約」を結んだ。

 一度目は、橋を作るために。

 そして二度目は、敵を葬り去るために。


 窓の外が白み始めている。

 夜明けは近い。

 それは、将軍にとっての悪夢の始まりを告げる光だった。

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