第11話:架け橋ドッグ
私がニューポートから帰還した翌日。
現場事務所の机の上には、山のような契約書と小切手の写しが積み上げられていた。
「こ、これは……本物ですか!? 桁が間違っていませんか!?」
ハンズが目を飛び出さんばかりに見開いて叫んだ。
その横で、ガストンも口をあんぐりと開けている。
「おいおい……こいつは小国の国家予算並みじゃねえか。ボス、あんた一体何をしたんだ? まさか銀行強盗でもしてきたんじゃあるめぇな」
「失礼ね。正当な商談の成果よ」
私は優雅に紅茶を啜った(今日からは、少し上等な茶葉だ)。
「これで当面の資金繰りは解決したわ。資材も、人員も、必要なだけ投入できる。……さあ、言い訳はできないわよ? 最高速度で橋を架けなさい」
私の檄に、現場からは割れんばかりの歓声が上がった。
「ボス万歳!」「悪女様万歳!」などという微妙な掛け声も混じっていたが、まあ良しとしよう。
***
資金の問題が片付いたことで、現場の空気は一気に明るくなった。
しかし、私は新たな懸念を抱いていた。
昼食の時間。
私は作業員たちの食事風景を視察していた。
巨大な天幕の下、数百人の男たちが長机に並んで座っているのだが……その皿の上に乗っているものが、あまりに貧相なのだ。
帝国側の列を見る。
彼らが食べているのは、カチカチに乾燥した黒パンと、塩漬け肉の塊。そして薄い塩スープ。
保存性は高いが、味気ないことこの上ない。皆、義務のように無言で咀嚼している。
一方、共和国側の列。
こちらはこちらで、豆を煮込んだだけのドロドロしたスープと、柔らかすぎて腹持ちの悪そうな白パン。
「精がつかねえなぁ……」とぼやきながらスプーンを動かしている。
「……ひどいわね」
私は扇子で口元を覆った。
これではいけない。
食事は単なる栄養補給ではない。過酷な労働で擦り減った精神を回復させる、唯一の娯楽であり癒やしなのだ。
こんな餌のような食事では、士気も上がらないし、何より私の美学に反する。
「おい、どうした? 飯に毒でも入ってるかのような顔をして」
背後から声がかかった。クロードだ。
彼は手にした皿に、適当に盛られた豆スープと黒パンを乗せていた。現場監督も同じものを食べているらしい。
「毒のほうがマシかもしれないわね。……クロード、貴方、毎日こんなものを食べていて、よくあの複雑な計算ができるわね?」
「腹に入れば同じだ。カロリー計算上は足りている」
「カロリー? そんな数字の話をしているんじゃないの。……『心』の栄養の話よ」
私は彼の皿から黒パンを摘み上げ、コツコツと机を叩いた。
「石のように硬いパンと、泥のようなスープ。これじゃあ、できる橋も無骨で愛想のないものになりそうだわ」
「……余計なお世話だ」
彼は不機嫌そうにパンを奪い返して齧り付いたが、その表情は明らかに「美味しくない」と言っていた。
私は決めた。
次の改革は「食」だ。
資金はある。コネもある。
ならば、この国境の街ならではの、最高の現場メシを作ってやろうじゃないの。
***
その日の午後、私は厨房スタッフを招集した。
集まったのは、帝国軍の元調理兵と、共和国の食堂から引き抜いてきた料理人たちだ。彼らもまた、お互いの流儀が合わずに対立していた。
「いい? 本日からメニューを一新するわ」
私が宣言すると、帝国側の料理長が難色を示した。
「しかしエリザベート様、大量調理に向く食材は限られています。それに、両国の連中は好みがうるさくて……帝国人は『パンが柔らかすぎる』と文句を言うし、共和国人は『肉が塩辛すぎる』と騒ぐんです」
「だからこそよ。両方の不満を同時に解決するメニューを作るの」
私は一枚のスケッチを取り出した。
昨夜、ベッドの中で構想した新メニューの設計図だ。
「帝国の自慢である『ソーセージ』。これは肉の旨味が凝縮されていて、塩気も強い。……これを、共和国の自慢である『コッペパン』に挟むのよ」
料理人たちが顔を見合わせた。
「はさむ……ですか?」
「ええ。共和国のパンは小麦の香りが強くて甘みがあるけれど、単体では物足りない。帝国のソーセージは味が濃すぎて喉が渇く。……でも、この二つが出会ったら?」
私は両手を組んで見せた。
「パンの甘みが肉の塩気を中和し、肉の脂をパンが受け止める。……完璧な結婚(マリアージュ)だわ」
さらに、私は追加の指示を出した。
グレンデル近郊で採れる酸味の強いキャベツを酢漬け(ザワークラウト)にして添えること。
そして、決め手となるソースだ。
「ケチャップなんて甘ったるいものは使わないわ。……特製のマスタードソースを作るのよ」
私は市場で買い集めた香辛料を並べた。
帝国の粒マスタードに、共和国産の蜂蜜を混ぜ、隠し味に少しだけブランデーを垂らす。
ピリッとした辛味の中に、奥深い甘みと香りが広がる、大人のソース。
「名付けて『架け橋ドッグ(ブリッジ・ドッグ)』よ。さあ、今すぐ試作にかかって!」
私の号令で、厨房が戦場と化した。
ジュウジュウとソーセージが焼ける音。パンが香ばしく温められる匂い。
空腹を刺激する暴力的な香りが、現場中に漂い始めた。
***
夕食時。
食堂テントには、かつてないほどの熱気が渦巻いていた。
入り口には長蛇の列ができている。
「なんだこの匂いは!」
「肉か!? 焼いた肉の匂いだ!」
配膳台の前で、私は自らトングを握り、次々と「架け橋ドッグ」を完成させていた。
ふっくらとしたコッペパンに切れ目を入れ、熱々のザワークラウトを敷き詰める。その上に、パリッと焼けた極太のソーセージを鎮座させ、最後に特製ハニーマスタードソースをたっぷりと回しかける。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけて」
手渡された作業員――ハンズだった――は、そのボリュームに目を丸くした。
「す、すげぇ……! これ、本当にかぶりついていいんですか!?」
「ええ。上品にナイフで切ったりしたら承知しないわよ。大口を開けて、豪快にいきなさい」
ハンズは震える手でドッグを持ち上げ、ガブリと齧り付いた。
パリッ!
小気味よい音が響く。
次の瞬間、肉汁が溢れ出し、パンに染み込む。
「ん、んん~っ!!」
ハンズが天を仰いで悶絶した。
「うめぇ! なんだこれ、パンと肉が……口の中で握手してやがる!」
その反応を見て、後ろに並んでいたガストンたちも我先にと飛びついた。
次々とあがる歓声。
「帝国のソーセージって、こんなに美味かったのかよ!」「共和国のパンも捨てたもんじゃねえな!」
そこにはもう、国境の壁はなかった。あるのは「美味い」という共通の感動だけ。
私はその光景を満足げに眺めながら、エプロンを外した。
ふと視線を感じて振り返ると、テントの入り口で、クロードが腕を組んで立っていた。
「……また妙なものを流行らせたな」
「あら、お腹は空いていないの? 天才技師様には、特別大盛りを用意してあるけれど」
私は彼のために取り分けておいた一本――ソーセージが二本入ったダブル仕様――を差し出した。
彼は呆れたようにため息をついたが、拒否はしなかった。
「……いただくよ。毒見役が必要だろうからな」
私たちはテントを出て、星空の下のベンチに並んで座った。
現場の喧騒が、心地よいBGMのように聞こえる。
クロードが大きく口を開け、ドッグを頬張る。
租借する音が聞こえる。
私は横目で彼の反応を窺った。
ごくり、と飲み込んだ後、彼はポツリと言った。
「……悪くない」
「それだけ?」
「ソースがいい。マスタードの辛味が、疲れた脳に効く。……パンも、いつものスポンジみたいなやつとは別物だ。焼く前に霧吹きで水をかけたな? 表面がパリッとしてる」
さすが技師だ。分析が細かい。
「正解よ。……美味しいでしょう?」
「ああ。……悔しいがな」
彼は二口目を頬張りながら、少しだけ笑った。
その横顔を見て、私も自分の分のドッグを口に運んだ。
酸味と甘味、そして肉の旨味。
疲れた体に染み渡る味だ。
「……ねえ、クロード」
「ん?」
「このパンとソーセージみたいに、私たちも上手く噛み合っているかしら?」
少しキザな台詞だったかもしれない。
クロードは食べる手を止め、私を見た。
口元に少しだけソースがついているのが、なんだか可愛らしい。
「さあな。……少なくとも、俺一人で食うよりは、味がする気がする」
「……何よそれ。遠回しな言い方ね」
「褒めてるんだよ、鈍感だな」
彼はぶっきらぼうに言い捨てると、私の口元を指差した。
「ついてるぞ、ソース」
「えっ、嘘、どこ?」
「貸せ」
彼が懐から自分のハンカチを取り出し、私の口元を無造作に拭った。
ゴシゴシと、少し乱暴に。
「い、痛いわよ! もっと優しく扱いなさい!」
「文句を言うな。……ったく、食う時くらい子供みたいになりやがって」
彼はハンカチを引っ込め、またドッグにかじりついた。
私の頬が、カッと熱くなった。
マスタードのせいだ。きっとそうだ。
心臓が少し早くなっているのも、カロリーを摂取したせいだ。
私は熱をごまかすように、冷たい夜風を浴びながら、残りのドッグを夢中で食べた。
空には満天の星。
隣には、不器用な相棒。
そして、お腹には温かい食事。
これ以上の幸せが、今の私にあるだろうか。
いや、ない。
帝都の豪華なディナーよりも、この不格好な「架け橋ドッグ」の方が、私にとっては世界一のご馳走だった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま」
二人の声が重なり、私たちは顔を見合わせて小さく笑った。
明日からもまた、戦える。
そう確信できる夜だった。
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