第8話:月夜の握手
その日のグレンデルは、いつにも増して熱気に包まれていた。
クロードによる設計変更の指示が飛び、現場は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
しかし、それは混乱ではなく、目的を持った躍動だった。
今まで「やらされていた」作業員たちが、今は「何を作るべきか」を理解して動いている。その違いは歴然だった。
私は仮設オフィスで、膨大な発注リストと格闘していた。
クロードが要求してきた『特級鋼』。リベール共和国の最新技術の結晶。
これを正規ルートで帝国側に輸入するなど、外交官でも匙を投げる難題だ。
「……でも、不可能ではないわ」
私はペンを回しながら、頭の中で人脈図を描く。
帝国の通商条約の抜け穴。共和国側の商人の心理。そして何より、「金」という万国共通の言語。
使える手札は全て使う。それが悪女のやり方だ。
ふと時計を見ると、針は深夜一時を回っていた。
また没頭してしまったようだ。
私は凝り固まった首を回し、オフィスを出た。
夜風に当たりたかったのだ。
***
外に出ると、満月が峡谷を照らしていた。
昼間の喧騒が嘘のように、現場は静まり返っている。
月光を浴びた巨大な橋脚は、まるで古代の神殿の遺跡のように荘厳で、そしてどこか寂しげに見えた。
私は泥のない場所を選んで歩き、現場が見渡せる高台へと向かった。
すると、先客がいた。
クロードだ。
彼は積み上げられた資材の上に腰掛け、紫煙をくゆらせながら、じっと対岸を見つめていた。
その横顔は、図面に向かっている時の鬼気迫る表情とは違い、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……こんな時間に徘徊なんて、関心しないわね」
私が声をかけると、彼は驚く様子もなく、煙を吐き出した。
「お前こそ。美容に悪いぜ、お姫様」
「失礼ね。私は明日の戦略を練っていたのよ。貴方が無理難題を押し付けるから」
私は彼の隣――少し距離を空けた場所に立った。
風が強く、髪が乱れる。峡谷の底から響く激流の音が、地鳴りのように聞こえる。
「……なぁ、エリザベート」
クロードが唐突に口を開いた。
私の名前を呼ぶその声は、珍しく真面目な響きを帯びていた。
「どうして、そこまでする?」
「はい?」
「お前は帝国の公爵令嬢だ。ここで泥にまみれなくたって、金も名誉もあるだろう。……なんで、こんな掃き溜めみたいな現場で、必死になってるんだ」
彼は視線を対岸に向けたまま続けた。
「国のため、なんて綺麗事は言うなよ。帝国がお前をどう扱ったか、俺だって噂くらいは知ってる」
痛いところを突く男だ。
確かに、私は国に捨てられた。父にも、継母にも、そして社交界の友人たちにも。
復讐心がないと言えば嘘になる。
けれど、それだけではない。もっと根本的な、譲れない何かが私の中にはある。
私は扇子を取り出し、閉じたまま手の中で弄んだ。
「……プライドよ」
「プライド?」
「ええ。アルニム家は代々、帝国の宰相を輩出してきた家系よ。私は幼い頃から、この国を背負って立つ人間としての教育を受けてきたわ」
私は夜空を見上げた。
「帝国は腐っているわ。古い慣習に縛られ、既得権益にしがみつき、新しい技術を恐れている。……このままでは、遠からず滅びるでしょうね」
それは、誰にも言えなかった本音だ。
口に出せば反逆罪に問われかねない、冷徹な分析。
「でも、私が生まれ育った国よ。私の知る美しい景色や、善良な民がいる国よ。……それを、無能な男たちのせいで沈ませるなんて、私の美学が許さないの」
私はクロードを見た。
「私は国を救いたい。いいえ、もっと正確に言えば、『私が正しかった』と証明してやりたいの。私を捨てたことを、彼らに後悔させてやりたい。そのために、この国を強引にでも未来へ引きずっていく。……この橋は、そのための最初のレールよ」
傲慢かもしれない。
独善的かもしれない。
でも、それが私の原動力だ。
「誰かのため」なんて弱々しい理由じゃ、この過酷な現場には立てない。
クロードは私の言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
やがて、短く笑った。
「……くくっ。やっぱりお前は悪女だな」
「あら、今さら気づいたの?」
「いや。……安心したんだよ。お前がもし『世界平和のために』なんて聖女みたいなことを言い出したら、ここから突き落としてやろうかと思ってた」
彼は吸殻を携帯灰皿に押し込み、立ち上がった。
そして、峡谷の闇を指差した。
「俺はな、この峡谷が憎いんだ」
その声には、静かな、しかし強烈な熱が籠もっていた。
「俺の故郷は、この谷の近くだった。……昔、親父が病気になった時、対岸の街へ医者を呼びに行こうとした。だが、嵐で渡し船が出せなかった。迂回するには山を越えるしかない。……結局、間に合わなかった」
淡々とした語り口。
けれど、その奥にある喪失の深さに、私は息を呑んだ。
「自然ってやつは、残酷だ。俺たちの都合なんてお構いなしに、命を奪っていく。……だから俺は、技術を学んだ。鉄と蒸気の力があれば、風も、距離も、時間さえもねじ伏せることができる」
彼は拳を握りしめ、虚空を睨みつけた。
「俺は、この『竜の顎』を征服したい。自然という理不尽な神様を、人間の知恵で屈服させてやりたいんだ。……その象徴が、あの橋だ」
彼の動機もまた、エゴイズムだった。
復讐であり、挑戦であり、技術者としての傲慢なまでの自負。
私たちは似ている。
捨てられた過去を持ち、世界に対して牙を剥き、自分の力を証明しようとしている。
「国を救う」と「峡谷を征服する」。
目的は違えど、見ている方向は同じだ。
「……ふふっ。私たち、本当に可愛げがないわね」
「違いない。性格の悪い貴族と、ひねくれた平民。最高の組み合わせだろ?」
クロードがニヤリと笑い、私に向き直った。
そして、右手を差し出した。
初めての出会いを思い出す。
あの時、彼は「手が汚れる」と言って握手を拒んだ。私は無理やり油拭き越しに握った。
昨夜の乾杯も、陶器のカップ越しだった。
でも、今は違う。
私は少し躊躇ってから、自分の手を見た。
白く、清潔なレースの手袋。
貴族の証。守られていることの象徴。
私は左手で、右手の手袋の縁をつまんだ。
シュルリ。
絹が肌を滑る微かな音と共に、手袋が外れる。
夜風に晒された素肌が、少し心細い。
爪の先には、まだ微かに昨夜のインクの痕が残っている。
私はその手を、彼に差し出した。
クロードの目が、少しだけ見開かれる。
彼もまた、自分の手のひらを見た。油と、細かい傷だらけの、職人の手。
「……汚れるぞ」
「構わないわ。どうせもう、共犯者だもの」
私が微笑むと、彼は観念したように息を吐き、私の手を握った。
熱い。
そして、硬い。
素肌と素肌が触れ合う感触。
ザラついた指の腹や、掌の豆の感触が、直接私の中に流れ込んでくるようだった。
それはどんなキスよりも、雄弁に「彼」という存在を伝えてきた。
「よろしく頼む、パートナー」
「ええ。……必ず架けましょう、私たちの橋を」
月光の下、私たちはしばらく手を離さなかった。
ただの握手だ。
契約の儀式だ。
それなのに、心臓の音がうるさいほど鳴り響いているのは、きっと現場の騒音がないせいだ。そう思うことにした。
その時、不意に風が強く吹き、私の髪がクロードの頬を撫でた。
彼がハッとしたように私を見る。
距離が近い。
彼の手が、握手から少しだけ形を変えて、私の指を優しく包み込むような動きを見せた――気がした。
「……そろそろ戻れ。明日も早い」
彼はパッと手を離し、背を向けた。
耳が少し赤いように見えたのは、月明かりのせいだろうか。
「ええ。おやすみなさい、クロード」
私は熱くなった右手を左手で包み込みながら、宿舎へと歩き出した。
振り返ると、彼はまだそこに立っていた。
その背中は、以前よりもずっと大きく、そして頼もしく見えた。
私たちは、もう孤独ではない。
その事実が、これからの過酷な戦いに向かう私にとって、何よりの武器になる気がした。
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