城の世璃
秦江湖
第1話 白い箱から、愛の城へ(1)
あの白い箱から出るとき、お医者さまは「よくなったね」と言った。 あたしは口の端をきゅっと上げて、鏡で練習したとおりの角度でわらってみせた。人間は、こうすると安心する生き物だ。
「よくなりました。お兄様が待っていますから」
そう答えると、お医者さまは満足そうに頷いて、あたしの退院許可証にハンコを押した。朱肉のすっぱい匂いがした。 バカなひと。 あたしは何も変わっていない。ただ、少しだけこの身体への「入り方」が上手になっただけなのに。この身体の持ち主だった「前のセリ」の記憶と、あたしの本能を混ぜ合わせるコツを掴んだだけ。 でも、それをお医者さまに教える義理はない。あたしは「那美」との約束通り、お兄様のもとへ帰らなきゃいけないから。
世界は、ひどくまぶしくて、騒がしい。 一年間閉じこめられていた「白い箱(精神病棟)」は、退屈だったけれど静かだった。そこには薬のにおいと、管理された時間の音しかしなかったから。 だから、久しぶりに浴びる外界の空気は、あたしの感覚器には刺激が強すぎる。
タクシーの後部座席で、あたしは深くシートに身を沈めた。 窓の外を、西伊豆の海岸線が流れていく。 どんよりと曇った空。鉛色の海。岩場に打ちつけられる波が、白い泡を吹いている。 その景色を見ていると、身体の奥底でうずくまっていた「記憶」が、喜びの声をあげるのがわかった。
――ああ、この湿気。この腐った海藻のにおい。 ここがあたしの産まれた場所だ。
「……お客さん、窓、閉めてもいいかい?」
運転手が、バックミラー越しに声をかけてきた。 初老の男だ。その目には、隠しきれない「忌避」の色が浮かんでいる。
「潮風が入ると、シートがベタつくんでね」
「ごめんなさい。久しぶりの海だったので」
あたしは素直に従って、パワーウィンドウのスイッチを押した。 ウィーン、というモーター音がして、外界のにおいが遮断される。車内には再び、安っぽい芳香剤と、運転手の加齢臭、そして彼が抱いている「恐怖」のフェロモンが充満した。
彼は怖がっている。 無理もない。行き先を見ればわかる。 西伊豆の崖の上。かつて地元の名士が別荘として建てたものの、いまや「呪われた一家心中屋敷」として有名な洋館なのだから。 そして、そこへ帰ろうとしているのが、事件の唯一の生き残り――狂ってしまった双子の妹・世璃(ヨリ)だということも、彼は知っているのだろう。
あたしは、自分の左手首をそっとさすった。 薄い皮膚の下で、脈打つ血管。 指先でなぞってみる。うん、継ぎ目はもう目立たない。
あの日、雨と泥にまみれた儀式の間で、死んだ「那美(ナミ)」の肉体から情報を読みとって、大急ぎで再構築した身体。 最初は指の長さが不揃いだったり、関節が逆向きに曲がったりしていたけれど、病院という檻の中で「人間のフリ」をする練習を重ねたおかげで、だいぶ馴染んできた。
グパァ。 あたしは膝の上で、指を大きく開いてみた。 五本の指。爪の形も、指紋の渦巻きも、オリジナルと同じ。 完璧な擬態だ。
「……お客さん、気分でも悪いのかい?」
黙りこくっているあたしを不気味に思ったのか、運転手がまた話しかけてきた。 あたしは鏡に向かって、練習したとおりの角度――口角を15度上げ、目尻を3ミリ下げる――で微笑んでみせた。
「いいえ。とてもいい気分です。お兄様が待っていますから」
そう答えると、運転手は気まずそうに目を逸らした。 会話はそこで途切れた。 タイヤがアスファルトを噛む音だけが響く。
トンネルを抜けると、空気が変わった。 重力が少しだけ強くなったような、肌にまとわりつく粘り気。 あたしたちの「城」が近づいている証拠だ。 あの土地には、パパとママが長年かけて「おまねき」してきた、たくさんの「悪いもの」が染みついている。
普通の人間なら、頭痛や吐き気をもよおすレベルの瘴気。 でも、あたしにとっては、最高級の香水よりも芳しい。
車が坂道を登りきると、錆びついた鉄の門が見えてきた。 その向こうにそびえる、蔦(つた)に覆われた三階建ての洋館。 屋根の瓦は剥がれかけ、壁の塗装は潮風で黒ずんでいる。 まるで巨大な怪物の死骸のようだ。
「……着いたよ。これ以上は中に入れないから、ここでいいかい」
運転手は、門の前で車を止めた。 一刻も早くここから立ち去りたい、という焦りが、アクセルを踏む右足の痙攣から伝わってくる。 あたしはお金を払い、車を降りた。
バタン。 ドアを閉めると同時に、タクシーは逃げるように走り去っていった。 残されたのは、波の音と、鳥の鳴き声だけ。 いいえ、違う。 もうひとつ、愛おしい音が聞こえる。
カツ、カツ、カツ……。
門の向こうから、杖が石畳を叩く音が近づいてくる。 不規則なリズム。 左足を引きずるような、重たい足音。 あたしの鼓膜が震える。心臓のコピーが、早鐘を打ち始める。
お兄様だ。 1年ぶりのお兄様。 あたしがこの世に産み落とされた理由そのもの。
門の格子越しに、その姿が見えた。 痩せた身体に、少し大きめの白いシャツ。風に揺れる黒髪。 杖に体重を預けて立っているその姿は、まるで折れそうな百合の花みたいに儚くて、美しい。
「……世璃?」
お兄様が、あたしの名前を呼んだ。 その声は微かに震えていた。 恐怖か、歓喜か、それとも絶望か。
あたしは荷物を放りだして、鉄の門を押し開けた。 錆びた蝶番が、ギイィィィと悲鳴をあげる。 それが、あたしたちの新しい生活の始まりを告げるファンファーレだった。
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