第16話 置き去りの記憶
森の集落・キャッツリー。その中心部──さらに高所にある最上階に、ミーニャとクロネの家があった。木の葉が風に揺れる音が心地よく、家はまるで大樹の一部であるかのように自然へ溶け込んでいる。
木のドアを二度ノックすると、ミーニャが待ちきれないといった様子で顔を出した。
「遅いにゃー! 冷めちゃうから早く入るにゃ!」
どこか呆れたようで、でも愛嬌のある声。中からふわりと香ばしい匂いが流れ込み、蓮の腹がきゅるりと反応する。そういえば、もう昼時だ。
「おじゃまします」
中へ入ると、木の温もりに満ちた空間が広がっていた。壁も床も家具もすべて木製で、どこか森の延長のように感じられる。
テーブルには湯気を立てた料理が並べられており、クロネがすでに席に着いて手招きしていた。その仕草はまるで本物の招き猫のようで、蓮は思わず頬を緩める。
「鞄を盗んだこと、見逃してくれたお礼だにゃ。ゆっくりしていくにゃ」
「シロとクロ、ありがとう。いただきます」
スミレがにこやかに言って席に着く。蓮も続いたが──思わず目を見開いた。並べられた料理は見たことのないものばかりで、その中でもひときわ存在感を放つ“物”があった。
「あ、あの……シロ。これは一体……?」
蓮の声は震え気味だ。ミーニャは胸を張って、黒く焦げた小動物の丸焼きを指さした。
「見てわからない? ネズミの丸焼きにゃ!」
勢いそのままに、尻尾をつまんで蓮へ渡してくる。蓮は思わずのけぞった。
「ち、ちょっと……ほかの料理から食べてみます!」
逃げるように団子をつかんで口に放り込む。魚の香りが広がり──そのあと一拍おいて、生臭さが鼻の奥から突き上げた。蓮は顔を引きつらせながら、なんとか噛みしめて飲み込む。
「それ、魚のすり身団子にゃ」
クロネは平然と団子を食べている。その様子に、スミレは口元を押さえてクスクス笑った。
「ごめんなさい、蓮。だって……あまりにも反応が素直なんだもの。食文化が違うんだから、口に合わないのは当然よ」
言いながらスミレも団子を一口つまみ、少し驚いたように眉を上げる。
「うん、たしかに強烈。猫ちゃんが喜びそうな味ね」
「猫はみーんな大好きにゃ! 魚とネズミはごちそうなんだにゃ!」
ミーニャは嬉しそうに胸を張るが、その声にはわずかに怒りの混じった色もあった。するとクロネが、静かに口を開く。
「種族の食文化は覚えておくにゃ。肉食獣は、あんたら草食や弱い獣人のことも平気で食う。特に“家を持たない”野生の肉食獣は本当に危険にゃ」
クロネは話しながら、自分の耳にそっと触れた。
「あたいの片耳は……昔、肉食獣に食いちぎられたにゃ。フードを被ってたから正体はわからなかったけど、あの牙の鋭さ……あれは肉食獣に間違いないにゃ。
あたい……あいつらのこと、今でも許せないにゃ」
黒い瞳が怒りに揺らぎ、その憎しみが部屋の空気を少しだけ重くする。
「あんたらが“魔族”を恐れてるみたいに……あたいらにとっては、それ以上に肉食獣が怖い存在にゃ」
続いて、ミーニャが少し寂しげに目を伏せた。
「あなたたちの言う通り、肉食獣の中には乱暴で傲慢な性格の者もいるかもしれないわ。でも──私の知っている肉食獣は、無愛想で不器用だけど、根はとても優しい子よ」
その一言で、蓮はすぐに理解した。スミレが言っているのはタオのことだ。
「確かに、みんながみんなそうじゃないにゃ……言い方が悪かった、ごめんにゃ」
クロネは耳をしゅんと下げ、スミレに頭を下げた。
「そんな、いいのよ。その……あなたたちに酷いことをしたっていう肉食獣のことは、私も許さないわ。いつか会ったら、懲らしめてあげるんだから」
頬をぷくりと膨らませて怒るスミレ。その表情はどこか愛嬌があり、普段の穏やかさとのギャップに蓮は思わず微笑んでしまう。
「ありがとにゃ。あ、そういえば──」
クロネがぴくりと尻尾を動かし、何かを思い出したように声を上げた。
「あたいら、いろんな場所で商売してるんだけどにゃ。こんな噂を聞いたにゃ……ネイトエールから北にあるマアト村で、毎晩畑を荒らす魔物が出て村人が困ってるって。まあ噂だけどにゃ」
「スミレ、何か知ってる?」
蓮の問いに、スミレは少し考えこむ。
「マアト村には何度か行ったことがあるけれど……そんな話は聞いていないわ。ホクト様に報告しておいたほうがいいかもしれないわね」
ミーニャはすり身団子を口いっぱいに頬張り、ごくんと飲み込むと続けた。
「あんたらなら力になってくれると思ったにゃ。実はマアト村に、あたいの師匠が住んでてにゃ。もう歳の爺さんだけど、もし会ったらよろしく伝えてほしいにゃ」
そのとき、クロネが椅子を引き、奥の棚をガサゴソと探りはじめた。
「そういえば、シロとクロネはここで二人で暮らしているの?」
スミレの問いに、ミーニャは少し肩をすくめる。
「そうにゃ。猫の親離れは早いにゃ。あたいらがまだ子どもの頃に、両親はどっかに行っちゃったにゃ」
「そう……確かに獣人族は親離れが早いって聞いたことがあるわ。シロ、あなたは立派ね」
「そ、そんなことないにゃ……」
ミーニャは頬を赤らめる。白い毛並みのおかげで、頬がほんのり色づく様子がよく分かった。
しばらくして、棚の方からクロネの声が上がった。
「あったにゃ、これこれ!」
クロネは小さなノートを手に戻ってきて、蓮に差し出す。
「これは?」
「師匠に頼まれてた秘伝のレシピにゃ。もしマアト村に行くなら、これを届けてほしいんにゃ」
蓮はノートを受け取り、首を傾げる。
「その師匠って……どんな見た目の人なの? 爺さんってだけじゃ探しにくそうだし」
「まあ、その点は大丈夫にゃ。ヌト爺は村の村長だからにゃ」
ミーニャはにっこりと笑い、「よろしくにゃ」と歯を見せて微笑んだ。
***
食事を終えた蓮とスミレは、窓の外が淡いオレンジ色に染まり始めるのを眺めながら、猫たちと穏やかな時間を過ごしていた。
高所が苦手な蓮は何度かハシゴを登る際に手が震え、腰が抜けそうになる場面もあったが──それでも、キャッツリーでのひとときは心から楽しく、胸が軽くなるような時間だった。
「今日はありがとう。そろそろネイトエールに戻らないと」
蓮が名残惜しそうに告げると、ミーニャは大げさに手を振った。
「礼はいらないにゃ。そのかわり、また遊びに来るにゃ。その時は、あんたらの口に合う料理を作っておくからにゃ」
そう言った瞬間、ミーニャが蓮に向かって勢いよく飛びついてきた。
突然の抱擁に蓮は一瞬固まったが、すぐに苦笑しつつ腕を回し、そっと抱き返す。
ミーニャの喉から聞こえるゴロゴロという音が、確かな信頼と親しみの証のように胸に響いた。
「健闘を祈るにゃ」
ミーニャは名残惜しそうに蓮から離れると、次にスミレへと抱きついた。
スミレは優しく微笑み、まるで本物の猫をなでるようにミーニャの頭を撫でる。
「あなたもね」
そう言って、ミーニャのおでこにそっとキスを落とした。
その温かく柔らかい光景に、蓮は胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
すると、不意に蓮の前へ黒い肉球がすっと差し出される。クロネだ。
蓮はその小さく柔らかそうな手を見つめ、しっかりと握り返した。
「クロ、ありがとう。盗みは……まあ、ほどほどにな」
「お前は早く彼女とくっつけばいいにゃ」
にやりと笑いながら手を放すクロネ。
その悪戯めいた表情に、蓮は思わず言い返せず、少し赤くなって視線を逸らした。
クロネはそのあとスミレとも握手を交わし、ミーニャとともに二人を丁寧に見送った。
***
キャッツリーからの帰路、ふと気づくと精霊・シルフたちが帰り道を照らすように舞っていた。街灯のない森の中でも、彼らが漂わせる淡い光が道を示してくれる。柔らかな光が木々の影を揺らし、蓮とスミレはその光の帯をたどるように歩いていった。
「異世界に来てから、なんだか一日があっという間だな」
蓮の独り言めいた声に、スミレはくすりと笑って返す。
「まだまだこれからよ。──蓮、ついてきて!」
そう言うや否や、スミレは子どものように駆け出した。軽快な足音が草を揺らし、森に明るい気配が広がる。
「ちょ、待てよスミレ!」
蓮も慌てて追いかける。草の上を踏む音がワシャワシャと響き、心臓が跳ねる。息は上がるはずなのに、どこか身体が軽い。まるで少年の頃に戻ったようだった。
快人や華美と鬼ごっこをしていた記憶がよみがえる。皆同じくらいの速さで、鬼を押し付け合って笑い合った日々。もし今ここに快人がいれば、きっとスミレに追いついて「あぶねぇな」と文句を言って笑っているだろう。華美はその光景を見て呆れながらも微笑んでいるかもしれない。
──そんな懐かしい時間が、異世界でも続いていくのかもしれない。
蓮は必死に走った。距離がみるみる縮まり、もう少しで腕が届く。
「つかまえた!」
ついにスミレの腕を掴んだその瞬間、視界がぱっと開けた。森を抜けたのだ。
「ふふっ、捕まっちゃった! ねえ、蓮。見て、すごいでしょう?」
振り返ったスミレの笑顔が、夕闇の中でふわりと浮かび上がる。そしてその背後には──
蓮は息を呑んだ。
そこには、見たこともないほど輝く景色が広がっていた。
ああ、これが異世界の夜景だ。
眼下に広がる街は、一面に星が散りばめられたかのように輝いていた。無数の光がゆらめき、夜の風に溶けるように瞬いている。
「すごい……こんな綺麗な場所があったなんて」
蓮は自然と声を漏らした。
「ここ、お気に入りなの」
スミレは嬉しそうに笑い、指で景色を示した。
「あれが王都ネイトエール。私たちが暮らしている場所よ。それから──あの緑の畑が広がっているところが、ミーニャたちの師匠がいるって言っていたマアト村。マアト村で育つ食物は本当に美味しいの」
「へえ。本当に、王都のすぐ近くなんだな」
蓮は夜景を見下ろしながら呟いた。改めて、ここが自分の知る世界とは違う場所なのだと実感する。
「ほら、村の奥に山があるでしょう? あの山を越えた先には、妖精族の王都イシュタルや、巨人族の王都ヘカトンがあるんですって」
「そんなに王都があるなんて……すごいな。スミレは、生まれも育ちもネイトエールなの?」
蓮の何気ない問い。
だがスミレは、さっきまでの明るい表情のまま動きを止め、遠くの景色を見つめたまま沈黙した。
「スミレ……?」
蓮がもう一度呼ぶと、風の音だけが返ってくる。普段ならすぐ振り向く彼女が、どうしてかこちらを見ない。
ようやく、スミレが静かに口を開いた。
「……覚えてないの。自分がどこから来たのか、どうしてここにいるのか──。気がついたときにはもう、ホクト様のところにいたの。記憶もない私を、ホクト様は優しく育ててくれたわ」
伏せられたまつ毛が震え、その横顔がどこか小さく見える。
その手もほんのわずかに震えていた。
蓮の胸がきゅっと締め付けられる。
彼女の抱えている痛みに触れたいのに、どう手を伸ばせばいいのか分からなかった。
自分には、彼女の過去を知る力も、癒す手段もない──。
その無力さが、悔しいほど胸を占めた。
「ああ、悔しいな」
蓮は唇をぎゅっと噛みしめ、こみ上げる感情を正直に言葉にする。
「スミレのことを……もっと知りたい」
思わず口をついた言葉だった。
スミレはまだ、景色から目を離さない。彼女がどんな表情で夜景を見つめているのか、蓮には分からなかった。
「ねえ、蓮……?」
静かに呼ばれた名前に振り向くと、スミレの髪が風に揺れ、耳元のピアスが小さく音を立てる。
「お願い。私のことを知ってほしい。……ほんとうの私を、探してほしいの」
ゆっくりと振り向いたスミレの瞳には、これまで見せなかった影が宿っていた。
その声は細く、風に消えそうで──けれど確かに蓮の胸に届いた。
蓮はその思いがこぼれ落ちないように、しっかりと受け止める。
「俺がスミレを探すよ。スミレより先に、スミレのことを知ってみせる。……だから、そんな寂しい顔しないで」
スミレは驚いたように目を見開き、そして、少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとう」
その一言だけで、スミレがどれほどの時間を“記憶のないまま”笑顔で過ごしてきたのかが分かる気がした。
苦しい時も、寂しい時も、泣きたい時も──それでも彼女は笑ってきたのだ。
「スミレ、もう少しだけ……一緒にいてもいい? まだ帰りたくない」
蓮がそう言うと、スミレは困ったような顔で肩をすくめる。
「あとでホクト様に叱られても知らないわよ?」
白い髪が夜風に揺れ、淡い光を帯びて見える。
記憶を失くした妖精族の少女──スミレ。
その謎を、これから必ず自分が解き明かすのだと蓮は心に誓う。
夜が明けるまで、二人は肩を並べ、何でもない話をしては笑い合った。
そのひとときは蓮にとって、これから先も忘れられない大切な時間となった。
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