第10話 眠れない夜

 ネイトエールで迎える初めての夜は、やけに長く感じられた。

 ここ数日、スミレはいつもそばにいて、気づけば朝になっていることも多かった。だが今日は違う。自分だけの部屋を与えられ、当然、一人で眠るしかない。


 ──なのに、どうにも落ち着かない。


 人間界では一人で寝るのが普通だったのに、胸の奥がざわついて眠れなかった。城のどこかにスミレがいる。それだけで、不思議と眠気が吹き飛んでしまう。


「ああ、なんなんだよ……これ」


 布団の中で何度も寝返りを打つが、興奮した頭はまったく鎮まらない。

 カーテンの隙間から覗く外は完全な闇で、人間界の感覚なら深夜二時を過ぎている頃だろう。


 軽く息を吸うたび、胸がつかえるような落ち着かなさがついてくる。小さくあくびが漏れた。


「……ちょっと歩いてくるか」


 小声でつぶやき、蓮はそっと部屋を出た。


 城内の廊下は、昼間とはまるで別世界だった。光も音も消え、ひんやりした空気だけが静かに流れている。誰にも会わないと思っていた──だが、曲がり角の先に人影が立っていた。


「……ホクトさん?」


「蓮か。眠れなかったか?」


 鋭い目がこちらを向いたが、声だけは柔らかい。

 そのささやかな優しさに、蓮の胸が少しだけ温まった。


「まだ緊張してて……慣れなくて」


「初日だ。無理もない」


 ホクトがふっと表情を緩めると、蓮の肩の力もゆるんだ。


「ホクトさんは、どうしてこんなところに?」


「見回りだ。夜は意外と静かではないからな」


「ああ、なるほど……」


 ほんのわずかな沈黙が、やけに長く感じられる。

 気まずさをごまかすように、蓮は口を開いた。


「──あの、聞いてもいいですか」


「ん?」


「異世界には……俺と同じように、狭間を通ってきた人間っているんですか?」


 ホクトは少しだけ視線をそらし、答えを探すように夜空を見上げた。


「言えることは多くない。だが──お前が初めてではない」


「……!」


 蓮は息をのむ。

 ホクトの赤い瞳に、一瞬だけ影が差した。それは蓮には届かない過去を思い出すときのような、静かな痛みを宿していた。


「……じゃあ、俺が帰れる可能性も?」


「あるかどうかは分からん。ただ──」


 ホクトはポケットから小さな金属の方位磁針を取り出し、蓮へ差し出した。


「これを持っていろ」


「……これは?」


「こっちの世界に来た人間はすぐに迷子になる。何かあったときのためだ。これがお前に求める“協力”の一つ目だ。簡単だろう」


 どこか企みを含んだような笑みに、蓮は少し戸惑う。

 たしかに、方向音痴な自覚はあった。これは案外、命を救う道具になるかもしれない。


「分かりました。……持っておきます」


 方位磁針はひんやりしていて、小さいのにやけに重かった。


「それと、今の話は他には言うな」


 蓮が頷こうとした、その時。

 ホクトはタバコを取り出し、カチッと火をつけた。その音が静かな廊下に大きく響く。


「……どうだ? 一本、付き合え」


 差し出されたタバコを、蓮はまじまじと見つめる。

 未成年で、吸ったこともない──断る理由はいくらでもあるのに、言葉が出てこない。


「あの、俺……まだ高三で」


「こっちじゃ関係ない。ほら」


 ホクトは半ば強引に蓮の手へタバコを握らせ、ライターの火を近づける。


「吸ってみろ。それが“二つ目”の協力だ」


 蓮の手が小さく震えた。

 不安と罪悪感、そして得体の知れない高揚が混ざり合い、胸が騒がしくなる。


「……っ」


 吸い込んだ途端、喉が焼けるように痛む。


「っゴホッ! ゲホッ……な、なんだこれ……!」


「初めはそんなもんだ」


 ホクトは涼しい顔で煙を吐いている。

 涙目になった蓮はしばらく咳き込んでから、ようやく息を整えた。


「……最悪ですね、これ」


 そう言いながら、蓮はほんの少し笑った。


「ホクトさんって、優しいのか怖いのか……よく分かんないです」


「どっちでもない。ただの厄介者さ」


 ホクトは吸い殻を潰し、夜空を仰ぐ。

 蓮もつられるように空を見上げる。

 知らない星、懐かしい星──そのどちらとも言えない光が、淡く瞬いていた。


「この世界に来てから、分からないことばっかだけど……少し、面白いかもしれない」


 その言葉に、ホクトは目を細めた。

 蓮はまだ、その表情に込められた意味を知らない。


 静かな夜に、煙と星の匂いだけがゆっくりと溶けていった。


 部屋に戻って小さく欠伸をすると、目を閉じた。

 知らない世界で過ごした一日は、思っていた以上に心を疲れさせていたらしい。


 ──明日から、ちゃんとやっていけるだろうか。


 ぼんやりとした不安が胸をかすめるが、それでもどこかで、ほんのわずかな期待も灯っている。

 聞こえてくる騎士団の遠い鍛錬の音が、眠りに落ちる寸前の蓮の耳をかすかに揺らした。


 そのまま意識はふっと沈み、夜の静けさがそっと蓮を包んだ。

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