第7話 ネイトエール城

「それにしても、広いですね」


 蓮の声が高い天井に反射して、ほんの少しだけ遅れて返ってくる。

 まるで都会に初めて来た田舎者のように、彼はきょろきょろと周囲を見回していた。

 ネイトエール城は縦にも横にも広く、複雑に入り組んだ造りをしている。


 廊下の壁には、意味の分からない文字で描かれたポスターや、音楽室に飾られていそうな肖像画がいくつも並んでいた。蓮はそれらを眺め、足を止めることなく歩き続ける。


「何か面白いものでも見つけたの?」


 静かな廊下にスミレの声が響く。蓮は少し考え込み、貼られたポスターを指さした。


「不思議だなと思って。俺とスミレさんは言語が同じなのに……文字にすると全然違うんですね」


 指先が示す異国の文字列は、まるで暗号のようだ。


「あら、蓮はこの文字、読めないの?」


 スミレが軽く笑う。蓮は肩をすくめた。


「さっぱりです」


 言葉にした途端、少し不安がこみ上げる。まだこの世界に馴染めていないのではないか、そんな気がした。


 スミレは、くすりと笑って言う。


「じゃあ勉強しないとね」


 その言葉に冗談めいた響きがあって、蓮の肩の力が少し抜けた。


「スミレさんが教えてくれるんですか?」


「うーん、どうしましょ」


 からかうように笑うスミレに、蓮もつられて笑ってしまう。

 そんな何気ない会話を交わしながら、二人はゆっくりと階段を降りていった。


 「蓮、ここは城内のダイニングルーム。食事をとるところね」


 広間に足を踏み入れると、その豪華さに蓮は思わず息を呑んだ。

 高い天井から吊り下がる大きなシャンデリア。

 白いテーブルクロスをかけた長い机には、色鮮やかな果物や木の実が飾りのように盛られている。


「へえ……さすが、城に住む貴族様は違いますね」


 ちょうど小腹がすいていた蓮は、果物に目を奪われる。


 蓮が果物に気を取られていると──


「食べますか?」


 ふわりと柔らかい声がした。

 視線を向けると、机を囲む椅子のひとつに座り、優雅に果物をつまむ者──いや、兎がいた。


 白い髪を揺らしながら食べているその姿は、まるで舞踏会に出席する貴族のようだった。

 ティナの服は胸元や袖口に細かなフリルが重ねられた上品なシャツで、淡い色のベストとよく似合っている。

 彼の仕草は柔らかく、どこか“紳士”を思わせる佇まいがあった。


「あ、えっと……」


 蓮がうまく言葉を探せないでいると、スミレが助け舟を出す。


「ティナ、休憩中?」


 ティナはこくりと頷き、蓮に視線を向ける。

 白い耳がぴょこ、と少しだけ動いた。


「シェリー、その人は?」


「蓮よ。今ちょっと訳あって一緒にいるの」


 蓮は慌てて頭を下げる。

 ティナはじっと蓮を見つめ返した。白髪にふわふわの耳と尻尾。そして妖艶な瞳に惹き付けられる。

 もしこれで女性だったなら、蓮は今頃惚れていたかもしれない──そんな感想が胸をよぎる。


「あの……僕の顔に何かついてます?」


 ティナが小首を傾げる。その仕草が無邪気で、蓮はつい目を逸らした。


「あ、す、すみません!」


「いえ、大丈夫ですよ」


 ティナは柔らかく微笑むと、フリルの袖口が揺れる動きで、品のある手つきで手袋の指を整えてから、握手を求めてきた。

 その細やかな仕草一つとっても、育ちの良さと紳士的な性格がうかがえる。


 白い手袋に包まれた五本の指が、静かに蓮へと差し出された。


「僕の名前はティナ=ラビエル。何か分からないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」


「は、はい……峰野蓮です。よろしくお願いします!」


 丁寧すぎるほど丁寧な所作に少し圧倒されながらも、蓮は握手に応じた。

 ティナの手は見た目よりもずっと温かかった。


「ところで、二人はこれからどこへ?」


 ティナは片手に持っていた果物を軽く掲げながら尋ねる。


「ホクト様のところへ話をしに行くのよ」


 その名を聞いた瞬間、ティナの動きがピタリと止まった。

 まるで兎が危険を察して身を固めるような、そんな不自然な静止。


「……どうかご無事で」


 短くそう言うと、ティナは果物をぱくりとかじった。


「ありがとう、きっと大丈夫よ。さあ、蓮、行くわよ」


 蓮は深く頭を下げ、スミレのあとに続いた。

 スミレの足取りは迷いがなく、それに合わせて歩くうちに蓮の胸の奥では、得体の知れない不安がじわりと広がっていく。


「スミレさん……これから会うホクトさんって、そんなに怖い方なんですか? 最初に会ったときは、そこまでとは……」


 蓮の問いに、スミレは一瞬だけ苦笑し、すぐに表情を引き締めた。


「ホクト様は王都ネイトエールの騎士団長で、王にも認められた方よ。――なんせ、王の息子だもの。彼に逆らうということは、王に逆らうのと同じ。それで追放された者も少なくないわ」


 言葉は厳しいが、その背中からは不思議な安心感も伝わってくる。


「まあ、話してみれば分かるわよ。蓮のことだって、きっと――」


 スミレの声が廊下に静かに響くたび、緊張は増すのに、それでも蓮の心は少しだけ軽くなる。

 だが歩を進めるごとに、周囲の空気がひどく重くなっていくのを感じた。


「蓮? ホクト様は、蓮のことを受け入れてくれるはずよ。私はそう信じてる」


 その言葉を聞いた瞬間だった。

 蓮の足が、理由もなくピタリと止まった。

 まるで何かに引き留められたかのように。


 ――そして。


「待ちくたびれたぞ。早く中に入れ」


 奥から低い声が響いた瞬間、蓮の心臓が跳ね上がった。


 そこに、いつの間にかホクトが立っていた。

 気配すら感じなかった。

 冷たい瞳が蓮を見下ろしている。


 ――あの時の“魔物”に似ている。


 名前の理由も分からない。ただ、その瞳を見た瞬間、蓮は本能的にそう思った。

 背筋を凍らされながらも、スミレに促され、蓮はホクトの部屋へと足を踏み入れる。


 ガチャリ、と扉の閉まる音がやけに重く響く。

 タバコの煙と染み付いた香りが部屋いっぱいに充満しており、空気はひどく重かった。


「それで……どうやって、こっちの世界に来た?」


 ホクトの声は低く、感情の欠片もない。

 それはまるで冷たい刃物を突きつけられたようで、蓮の胸がひやりとこわばる。


「気づいた時にはもう……ここにいたんです。まだ、何も分からなくて」


 蓮は喉を震わせながら答えた。

 隣にスミレがいなければ、きっと膝が崩れていた。


 ホクトは返事もせず、タバコを口にくわえ、火をつける。

 白い煙が静かに流れ出し、部屋の空気に紛れていく。


「お前、創分説を知っているか?」


 煙越しの声は淡々としており、まるで儀式のようだった。


 ──世界創分説。

 人間界でも昔から語られる、二つの世界が分かれたというあの伝承。


「はい……なんとなく、ですが。

 異界と人間界が分かれた。二つの世界の間には、稀に狭間が生まれる──そんな話だったと思います」


 タバコの灰が、ぱら、ぱらと灰皿に落ちる。


「狭間……それは突然生まれ、突然消える。

 おそらくお前がここに来れたのも、その狭間のせいだろう」


 蓮の脳裏に、あの日の光景が一気に蘇る。

 歪む空間。異様な光。

 そしてスミレと出会った、あの非現実的な瞬間。


「でも……戻ろうとした時には、道が消えていました。

 それも、狭間が消えたってことなんですか……?」


 ホクトは答えず、タバコを灰皿に押しつけた。

 吸殻が崩れる音が、不自然なほど大きく聞こえた。


「俺に分かるなら苦労はしないな」


「……そう、ですよね」


 その瞬間、ホクトの視線が蓮を射抜いた。

 先ほどより少しだけ温度のある目だった。


「蓮、と言ったな。

 今日からお前は俺の管理下に置く。返事は“はい”だ。分かったな?」


 威圧ではなく、命令。

 拒否権を許さない声。


 蓮は唾を飲み、震える声で答える。


「……はい」


 ホクトは静かに蓮の頭をくしゃ、と撫でた。

 その手は優しさとは程遠く、荒く、傷だらけで、しかし奇妙な安心を含んでいた。


 そしてホクトは手を差し出し、低く言う。


「──ようこそ、騎士団=ネイトへ」


 その言葉は契約のように響いた。

 蓮はまだ、この一言が自分の未来を大きく狂わせることを知らない。

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