【SF】楽園アポカリプス
くるくるパスタ
第一期 2180年
第1話 ユウ(高校生)
教室の窓から見える空は、いつもと同じ青だった。ユウは頬杖をついて、先生の声を聞くともなく聞いていた。十七歳。高校二年生。今日の午後の授業は「社会原理」で、人類方程式の復習をやっている。
「——というわけで、幸福度の維持には、適度な不確実性が必要です。完全に予測できる人生は、人間の脳にとって退屈すぎる。だから人間が生きるための最適解を示す方程式には『揺らぎ』の項があります。これは小学校で習いましたね」
先生がホログラムを操作すると、見慣れた図式が宙に浮かんだ。グラフには曲線と、いくつかの定数。ユウは五歳のときからこの図を見ている。最初は絵本で、次に歴史で、今はこうして数学で。
隣の席のマコトが小声で言った。
「なあ、今日の放課後、川行かない?」
「いいよ」
ユウは小さく頷いた。川というのは、このブロックの東端を流れる人工河川のことだ。泳げるし、魚もいる。人類方程式が示された後に起こった「大混乱の時代」の前に作られたものだ。人工の川だけど、130年も経てば自然と区別がつかない。
先生が続ける。
「次回のテストでは、方程式の基本形と、定数の意味を答えてもらいます。難しくありません。理解していれば、誰でも解けます」
誰でも解ける。その通りだ、とユウは思った。人類方程式は、難しくない。むしろ拍子抜けするほど単純だ。人口、資源、労働、余暇、生殖、死。それらの最適なバランスは、すでに分かっている。正解は出ている。あとはそれを維持するだけ。
チャイムが鳴った。
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川沿いの土手に寝転がって、ユウは雲を見ていた。マコトは少し離れたところで石を投げている。水切りだ。五回、六回、七回。石が水面を跳ねるたびに、小さな波紋が広がっていく。
「なあ、ユウ」
「なに」
「おまえ、将来なにやんの」
ユウは答えなかった。将来。その言葉には、いつも奇妙な空虚さがつきまとう。
「俺、たぶん保育士になると思う」マコトが言った。「子供と遊ぶの好きだし、人間がやったほうがいい仕事だって言うじゃん」
「いいんじゃない」
「おまえは?」
「わかんない」
マコトは石を投げる手を止めて、ユウのほうを見た。
「わかんないって、なんも?」
「なんも」
沈黙が降りた。川のせせらぎと、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
マコトは肩をすくめて、また石を投げ始めた。六回、七回、八回。今日の最高記録だ。
「まあ、べつにいいけどさ」マコトが言った。「焦ることないし。どうせ俺らが何選んでも、人類シミュレーションの予測の範疇なんだろ」
その通りだ。
人類方程式は、個人の選択を制限しない。保育士になってもいいし、ならなくてもいい。子供を産んでもいいし、産まなくてもいい。結婚してもいいし、しなくてもいい。どの選択をしても、社会全体としては安定するように設計されている。個人のばらつきは、マクロでは吸収される。だから、焦る必要はない。正解も不正解もない。どれを選んでも、だいたい同じだ。
ユウは目を閉じた。
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夕方、家に帰ると、母親が夕食を作っていた。
「おかえり。今日どうだった?」
「べつに」
「そう」
母親はそれ以上聞かなかった。ユウは自分の部屋に入って、ベッドに横になった。天井を見る。白い天井。何の模様もない。
夕食までまだ時間がある。端末を開いて、何となく今日の人類方程式係数調整会議の発表を見た。定数の微調整。太陽活動がわずかに上昇したから、森林面積の係数を0.01下げる判断について、保留した、とある。グラフが示されている。仮に係数を変えた場合、グラフの頂点が、ほんの少しだけ右に動く。
ふうん、とユウは思った。それで何が変わるのか、正直よく分からない。でも大人たちが議論して、シミュレーターが検証して、これが最適だと言っているのだから、そうなのだろう。
端末を閉じて、また天井を見た。
何かが引っかかっている。
でも、何が引っかかっているのか分からない。
不満があるわけじゃない。苦しいわけでもない。飢えてもいないし、虐げられてもいない。友達もいる。家族もいる。将来の不安も、考えてみれば、ない。どの道を選んでも人類にとって何の影響もないことは分かっている。
それなのに、何かが引っかかっている。
胸の奥に、小さな石ころみたいなものがある。飲み込めないし、吐き出せない。ただそこにある。
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夕食は、母親と二人だった。父親は今月から別のブロックに出張している。人類方程式係数調整会議の出席者に選ばれたのだ。
「お父さん、どう?」ユウは聞いた。
「忙しそうよ。でも楽しそう」
「へえ」
「来月には戻ってくるって」
「そう」
人類方程式係数調整会議。出席者がランダムに選ばれて、方程式の係数を監視し、必要なら改訂する仕事。裁判員みたいなものだ。拒否もできる。父親は拒否しなかった。
「お父さん、なんで引き受けたの」
母親は少し考えてから言った。
「さあ。聞いてみたら? 本人に」
「べつにいいけど」
食事を続けた。今日のメニューは魚の煮付けと、野菜の炒め物と、味噌汁。どれも美味しい。この地域で取れた食材だ。大混乱期のあと、80年かけて、自然は徐々に回復し、生態系は豊かさを取り戻しつつある。
美味しい。何も問題ない。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「……なんでもない」
母親は不思議そうな顔をしたが、それ以上聞かなかった。
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夜、ベッドの中で、ユウは暗い天井を見ていた。
明日も学校がある。明後日も。その次も。そして卒業して、何かの仕事を選んで、一日に二、三時間働いて、残りの時間は好きなことをして、いつか誰かと暮らすかもしれないし、暮らさないかもしれない。子供を持つかもしれないし、持たないかもしれない。そしていつか死ぬ。自然に死ぬか、自分で選んで死ぬか、どちらでもいい。どちらも許されている。
何も問題ない。すべては予測の範囲内だ。
ユウは寝返りを打った。胸の奥の石ころは、まだそこにあった。
なんでこんなものがあるんだろう、とユウは思った。方程式では、この年頃の人間が「何となく引っかかる」ことも織り込み済みのはずだ。思春期の反発。モヤモヤ。そういうものがあることは、社会原理の授業で習った。
だから、このモヤモヤにも意味がある。あるいは、意味がないことに意味がある。どちらにしても、予測の範囲内だ。
そう思うと、少しだけ楽になる。でも同時に、少しだけ息苦しくもなる。
ユウは目を閉じた。明日も、たぶん同じような一日だ。明後日も。その次も。
それでいい。それでいいはずだ。
(第一話 了)
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