竜骨ラーメン
時刻はちょうど昼時。
試験を終えた受験生たちで、カーボの街は活気に満ちていた。
「私は今、なにが食べたい?」
空腹は最高の調味料だと言うが、この解放感が味わえるのは今だけ。
飯選びは慎重にいきたい。
街の広場まで戻り、顎に手を当てながら考える。
いつもなら空腹に任せて適当な店に入り、適当に食べ、そして適当に寝ていた。
だが今日は違う。
試験勉強を終えたという、人生でも数少ない偉業を成し遂げた日。
この晴れやかで特別な気持ちにふさわしい料理とは……
「だめだ、まとまらない。助けて、ドカグーイ卿……」
ついには広場の銅像へ祈りを捧げてしまう。
その時だった。私の背後、ベンチに座っていた男がぼそりと言った。
「今日、試験日か。どうりで人が多いわけだ……最悪だな」
赤い炎のような髪を後ろへ流し、傷だらけの顔を隠そうともしない男。
横には二本の剣。彼は空を見上げ、ため息をつく。
「おい、そこをどけ。目に福……毒だ」
どうやら私に向けた言葉らしい。
彼もまた、銅像との対話の中にいたのだろう。
「すまなかった」
私は軽く頭を下げ、その場を離れようとする。
「あんた、飯を探してんだろ?」
「なぜ分かった」
「声に出てたが……まあ、いい。情報をやる。東門近くの路地裏に行け。今日は珍しいラーメンがある」
「ラーメン? なんだそれは?」
「そこからか……それはな、細く伸ばした生地をスープに入れる料理だとかなんとか」
「味は?」
「味? まあ……こってり系だと思う。知らんけど」
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
これは勘だ。
何かをやり切った人間が本能的に求める味がそこにある。
「感謝する!」
私は深く頭を下げ、勢いよく東門へ駆けていく。
「ゆ、揺れ……」
横目に映った男は、傷だらけの顔を妙に赤く染めていた。
東門まで来ると、人通りは一気に減る。
ここは街の中心から少し離れていて、物流のための大きな倉庫が立ち並ぶ地帯だ。
だからこそ、そこで働いているのは屈強な男たちが多く、飯屋に関しても、いい意味で雑な店が多い。
私は男の言葉を思い返しながら、裏路地へ足を踏み入れる。
路地裏特有の湿った空気と油の匂いが鼻を刺す。だが、私は迷わない。いや、迷っているのだが、心だけは迷わず目的のラーメンを探している。
路地を抜け、さらに細い道へ入る。
すると、
気づけば私の足は香りの方向へ吸い寄せられていた。
煙がもくもくと立ち上る小さな店。
看板には消えかけた赤い文字でこう書かれている。
『ラァメン』
雑すぎる。
だが、こういう雑さこそ、男たちに愛される証拠だ。
私は息を呑む。
「……ここだ」
その瞬間、腹がぐぅ、と吠えた。
私は
「らっしゃい……」
額に布を巻いた強面の店主が、低い声で歓迎してくれた。
店内の視線は、あまり感じない。
肉体労働で作られた筋骨隆々の漢たちは、目の前の飯と戦っているからだ。
素早く腹を満たし、次の仕事へ進むのだろう。彼らは戦士だ。
私は空いていたカウンター席に座る。
ここでは無駄な動きをしてはならない。張り詰めた空気は、歴戦の武芸者だった私でも、緊張させる。
「注文は?」
店主が短く問いかける。
「赤髪の男から、特別なラーメンがあると聞いてきた」
「ああ、あいつか……固さは?」
か、かたさ?
私は冷や汗をかいた。
まずい、場の流れを乱してしまう。これは有罪だ。
「か、かためで……」
しどろもどろになりながらも、言葉を返す。
そんな私を見て、店主は、ほんのわずか、口元を緩めた気がした。
多分、気のせいだ。
「緊張するな。麺の固さ、味の濃さ、油の量を選んでくれ」
なるほど、そういった儀式があるのか。
ならば迷う余地はない。
「固め、濃いめ、多めで頼む」
「そうこなくちゃな。水とライスは、あそこから勝手に取ってくれ」
店主が指した先には、大きな桶に入った白色の穀物――ライスがあった。
珍しい。はるか東の国々で主食とされるものだ。白く、ねっとりとして、わずかに甘い。
私は桶の前に立ち、お椀を取り、大きな木の匙でライスを盛る。
樽から水を注ぎ、席に戻った頃には──
調理場では、店主が何かの儀式でも始めたかのように動いていた。
穴の開いた小さな桶に、細く伸ばした生地を入れ、それを地面へと叩きつけるように振る。
生地はまるで生き物のように弾み、その度に水滴が飛び、蒸気とともに香りが立ち上る。
そして店主は、湯気を立てるスープが満たされた大きな椀へ、伸ばした生地を滑らせるように入れた。
さらに、分厚い肉片と刻まれた野菜を惜しみなく盛りつける。
最後に、雪のように細かく砕かれた脂をふわりと降らせ、儀式めいた動作を終えた。
これは、ただの料理ではない。
戦いだ。
魂を燃やし、生きる者の腹と心に刻むための一杯。
「……竜骨ラーメンだ」
店主は短く告げると、私の目の前に椀を置いた。
竜の骨を使うとは驚きだ。
私はまるで壊れ物を扱うように、それをそっとテーブルに引き寄せる。
湯気が立ちのぼり、そこから立ち上る香りが感覚を刺激する。
「素晴らしい」
思わず声が漏れた。
これは、食欲ではなく、敬意の声だった。
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【今日のメニュー】
・竜骨ラーメン
・ライス
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「感謝を」
私は箸を構えた。
まるで未踏の大陸に挑む探検家のように慎重に、しかし迷いなく細い生地を掴む。
食べ方はすでに観察済みだ。
私は空気を吸うように麺を啜った。
少々下品な音が鳴るが、この場所では許される文化らしい。
次の瞬間、世界が爆ぜた。
竜が……舌の上で暴れている……!
濃厚なしょっぱいスープが口いっぱいに広がり、こってり脂が喉を滑り落ちる。
私の理性が吹き飛ぶ音がした。
気付けば私はライスを持っていた。
これは条件反射だ。身体が知っていた。
麺を啜る。
スープが絡む。
そして、ライスをかきこむ。
「完全体だ……」
口内で祭りが始まった。
脳内では太鼓が鳴り、竜が舞い、たぶん私は今、前世の祖先と会話している。
震える指で、私は再び箸を構えた。
戦いはまだ始まったばかりだ。
ライスの上に肉を乗せ、一緒に食べる。
ああ、幸福の暴力。
ラーメン、ライス。
ラーメン、ライス。
ひたすら繰り返すだけの儀式。だがこれが尊い。
気付けばライスが消えていた。
無言で席を立ち、おかわりに向かう。
そして戻る。
再び、ラーメン。ライス。
麺が尽きた。
ならば、スープだ。
ラーメンスープ、ライス。
もはや単語でしか思考できなかった。
ただ食う。
ただ胃に収める。
気付けば、丼は空になっていた。
満腹なのに、身体の奥から力が湧き上がる。
本来なら眠くなるところだが、今の私は戦士だ。竜の加護を受けた者だ。
水を飲み、口の脂を洗い流す。
世界が初期化される。
「竜の肉は貴重だが、一部の骨はこの街にも
強面の店主が、ほんの少し口角を上げた。
「おいしかった。ラーメンというものは……毎日食べたくなるな」
「次は普通のやつを食っていけ。味は保証する」
「もちろんだ」
私は空の器と代金を置き、颯爽と店を出た。
ここでは、食って、即退く。それが礼儀なのだ。
体の奥が熱い。
力が満ちている。
「……まだいけるな」
胃袋が親指を立てた気がした。
まだ余力はある。
――ここから先は、露店巡りだ。
宿に戻った頃には、両手いっぱいに戦利品が乗っていた。
焼き串、揚げ物、謎の粉がかかった謎の団子、そして謎の汁が染みた包み。
統一感はない。だが、今の私に必要なのは秩序ではない。幸せだ。
部屋へ入り、机に獲物を並べる。
視界いっぱいに食べ物が並ぶ光景は、戦場を前にした将軍のような気分になる。
違うのは、敵軍がすべて食べ物であり、降伏の意思ゼロということだ。
「感謝を」
私は焼き串を手に取り、かぶりついた。
肉汁が溢れ、それを追うように揚げ物を貪り、団子を口に放り込み、謎汁を飲む。
止まらない。
いや、止める気がない。
竜骨ラーメンで刺激された食欲の炎は、消えるどころか勢いを増している。
私の胃袋はすでに常識から独立し、独自の判断基準で動いている気がする。
「ふっ……世界は……うまい物であふれている……」
気付けば、手元の食べ物はほぼ壊滅していた。
そして、私は座ったまま、ゆっくりと後ろに倒れる。
視界が斜めに傾き、天井がゆっくり回転した。
思考も、まぶたも、重力に逆らえない。
「幸せだった、よ……」
その言葉を最後に、私は寝た。
満足しきった、幸福な最後のように。
宿の外では、陽がさよならを言っていた。
温かな暖色の空。
世界は優しく、そして――少しこってりしていた。
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【竜骨ラーメン~ライスを添えて~】
初めてのラーメン! こってりの魅力!
食べた瞬間にまず襲ってくるのは、濃厚な旨味と圧倒的な説得力だ。竜の骨から抽出されたと思われるスープは驚くほど奥行きがあり、香りから余韻まで一切の隙がない。塩気は強めだが、ただ濃いだけではなく、脂の甘みや旨味が層になって押し寄せてくる。その濃密さは、まるで舌に牙を立て逃さない竜のようだ。
細く伸ばした生地──麺は驚くほどしっかりしている。噛みしめた時の反発力は心地よく、スープとの絡みも申し分ない。啜るたび、麺とスープが一体化し、咀嚼と同時に旨味が弾ける。まさに戦う麺だ。
具材として添えられた肉は、厚みこそ控えめながら、脂身と赤身のバランスが見事で、噛むほど旨味と香ばしさが広がる。麺を啜り、肉をかじり、ライスをかきこむ循環は危険なほど中毒性があり、気付けば箸が止まらない。
ライスはこの料理の影武者にして立役者だ。濃厚なスープと絡んだ瞬間、ただの穀物ではなく、ひとつの料理として完成してしまう。ラーメンとライスを交互に味わうことで、まるで祭りのような多幸感が生まれる。“食べる”ではなく“戦う”。そんな感覚に近い。
食べ終えたあとには、まるで竜と真正面から渡り合い、なお立ち続けた戦士のような達成感が残る。
圧倒的で、暴力的で、そして幸福な一杯だ。
本来のラーメンを食べたことがないため、竜骨ラーメンとしての特別さがどれほどなのか、残念ながら判断できなかった。しかしそれは、次の来訪理由として十分すぎる。次は、通常のものを食べ、その差を確かめたい。
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