第8話 月曜日の違和感
月曜日。それは学生にとって最も憂鬱な響きを持つ言葉だ。重たい瞼をこすりながら登校し、けだるい朝のホームルームをやり過ごす。僕、仁科悠(にしな ゆう)にとってもそれは同じ――いや、むしろ平穏を取り戻すための「聖なる儀式」のようなものだった。
「……ふわぁ」
二年B組の教室。いつもの指定席で、僕は大げさに欠伸をした。背中は丸め、前髪はボサボサ。分厚い黒縁眼鏡の位置を中指でクイッと押し上げる。完璧だ。どこからどう見ても、クラスカースト最下層の「背景(モブ)」である。
(昨日のことは、夢……いや、仕事だ。終わったことだ)
自分に言い聞かせる。昨日の日曜日。駅前の広場で、S級レンタル彼氏として天童かれんをエスコートし、西園寺という名のモンスターを論破した記憶。最後には彼女に泣かれ、あろうことか頭を撫でてしまった記憶。それらは確かに鮮烈だったが、あくまで「業務」の一環に過ぎない。
彼女とは契約を交わしている。『学校内では互いに干渉せず、赤の他人として振る舞うこと』。これは僕の平穏な日常を守るための、絶対的な防衛ラインだ。彼女は生徒会長であり、僕はただの陰キャ。住む世界が違うのだから、接点が生まれるはずもない。
「おいニシナ、ちょっと教科書貸せよー」
「あ、は、はいぃ……どうぞぉ……」
前の席の陽キャ男子に声をかけられ、僕は卑屈な笑みを浮かべて教科書を差し出した。相手は礼も言わずにひったくる。これだ。この扱いこそが僕の日常であり、安息の地なのだ。昨日のように「悠くん、すごいです!」とキラキラした瞳で見つめられるなんて、心臓に悪すぎる。
(さて、今日は寝たふりをしてやり過ごそう……)
僕は机に突っ伏し、外界との通信を遮断しようとした。――その時だった。
ガラララッ!!
教室の引き戸が、勢いよく開いた。朝のHR(ホームルーム)直前の、ざわついていた教室が一瞬で静まり返る。入ってきた人物の放つオーラがあまりにも異質だったからだ。
「……し、失礼します」
凛とした声。流れるような黒髪。制服を完璧に着こなした、学園の絶対女王――天童かれんだった。
(……は?)
僕は腕の中に顔を埋めたまま心の中で絶叫した。なんで!?彼女の教室は特進クラスのA組だ。ここB組に来る用事なんて、生徒会の公式な巡回以外にはありえない。しかも、今日の彼女はどこか様子がおかしい。いつもの氷のような無表情ではなく、頬をほんのりと紅潮させ、視線をキョロキョロと泳がせているのだ。
「お、おい……生徒会長だぞ」
「なんの用だ?誰か服装違反でもしたか?」
クラスメイトたちがざわつく中、彼女は教室の中を見渡し――そして、窓際の最後列にいる「黒い塊(僕)」を見つけた。
ビクッ!
彼女の肩が跳ねるのが見えた。そして、彼女は迷うことなく、一直線に僕の席へと歩き出した。
カツ、カツ、カツ。
ローファーの足音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。
(来るな、来るな、来るな……!契約を思い出せ!他人だろ!無視しろよ!)
僕の祈りも虚しく、足音は僕の机の前でピタリと止まった。
「……仁科、さん」
頭上から降ってきた声。僕は覚悟を決めて、ゆっくりと顔を上げた。そこには、少し息を切らせて僕を見下ろす、天童かれんの姿があった。
「ひ、ひいっ!?は、はいぃ!?」
僕は椅子から転げ落ちそうな勢いで仰け反り、全力の「キョドり演技」を発動した。眼鏡をズレさせ、視線を泳がせ、両手で頭を守るようなポーズを取る。周囲には「怒られる陰キャ」に見えるように。そして彼女にも「今は仕事中じゃないぞ、空気を読め」というメッセージを送るために。
「な、ななな、何かボクに用で……しょうか……?生徒会費なら払いましたけどぉ……」
我ながら完璧な小物ムーブだ。これなら彼女も我に返って事務的な態度をとってくれるはず――
「あ……」
しかし、彼女の反応は違った。彼女は僕の顔を穴が開くほどジッと見つめたのだ。ボサボサの前髪の隙間から覗く、分厚い眼鏡の奥の瞳を、愛おしそうに。その瞳には、いつもの冷徹さは微塵もない。あるのは隠しきれない親愛と――昨日見せた熱っぽい光だ。
「……髪、寝癖がついてますよ」
彼女はポツリと言った。そしてあろうことか自然な動作で僕の前髪に手を伸ばそうとしたのだ。昨日のデートの最後、僕が彼女の頭を撫でたことへの意趣返し(?)のように、あまりにも自然な距離感で。
「へっ!?」
「あ……っ!」
寸前で、彼女はハッとして手を止めた。教室中の視線が突き刺さっていることに、ようやく気づいたらしい。彼女の手が空中で迷子のように彷徨う。顔がみるみる赤くなっていく。
「ち、違います!その……服装検査です!そう、服装の乱れは心の乱れ!仁科さん、少し髪が長すぎるのではありませんか!?」
苦しすぎる言い訳だった。声が裏返っているし、目が泳ぎまくっている。クラスメイトたちはポカンとしている。「え、会長ってあんなキャラだっけ?」という困惑の空気が流れる。
「す、すいませんん……き、切りますぅ……」
「い、いいえ!切らなくていいです!」
彼女は食い気味に否定した。え、どっちなの。
「その……今のままでも、十分に……個性的で、素敵だと……思いますから……」
最後の方は、ほとんど独り言のような小声だった。彼女は僕を見つめ、はにかむように微笑んだ。その笑顔は、昨日の帰り際に見せたあの「可憐な笑顔」そのものだった。
(……おい、待て待て待て!)
僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。契約違反だ。「学校内では目立たないようにする」「他人として振る舞う」という約束だったはずだ。なのに今の彼女の態度はなんだ。「私、この人のこと知ってます」「むしろ好意を持ってます」というオーラが全身からダダ漏れじゃないか!
バレる。僕の正体云々以前に、このままだと「生徒会長と陰キャの仁科が裏で繋がっている」という事実が全校生徒にバレてしまう。そうなれば詮索好きな連中に嗅ぎ回られ、「レンタル彼氏」の事実に行き着くのも時間の問題だ。それは僕の「モブ生活」の死を意味する。
(頼むから演技をしてくれ!昨日の完璧な仮面はどこに行ったんだ!?)
僕の心の叫びも知らず、彼女はモジモジと指を絡ませている。……ダメだ。昨日のデート(と最後のハプニング)のせいで、彼女の中の「対・仁科悠」の認識がバグってしまっている。完全に「恋する乙女」モードが抜けきっていない。
「会長。ここで何をしているんですか」
その時、氷点下の声が教室の空気を切り裂いた。入口に立っていたのは、もう一人の訪問者。ショートカットに銀縁眼鏡、手にはバインダー。生徒会副会長、真壁梓(まかべ あずさ)。僕にとって最も警戒すべき「天敵」の登場だ。
「あ、梓……」
「もうすぐ朝礼の時間ですよ。特進クラスの会長がこんなところで油を売っていては示しがつきません」
梓はコツコツと近づいてくるとかれんの背後に立った。そして、その冷ややかな視線を、僕に向けた。まるで害虫を見るような、あるいは不審物をスキャンするような目だ。
「……仁科悠、でしたっけ」
「ひ、はいぃ……」
「会長が、あなたのような生徒に個人的な用件があるとは思えませんが……何かしましたか?」
「い、いいえぇ!何もしてませんっ!ただ怒られてただけでぇ……!」
僕は必死に首を振った。梓の目は笑っていない。眼鏡の奥の瞳が、僕の挙動の一つ一つを分析しているようだ。彼女は「男嫌い」で有名だ。特にかれんに近づく男には容赦がないと聞く。
「梓、違うの。私が勝手に……その、昨日の……」
「昨日?」
梓が眉をひそめる。
「昨日の日曜、会長は私用があると言って連絡がつきませんでしたが……まさか、この男と会っていたのですか?」
ギクリ。鋭い。鋭すぎる。ここで「はい」と言えば、僕の学校生活は終わる。生徒会室で尋問のフルコースだ。
「ち、違います!昨日、街で……偶然見かけたような気がして!それで確認を……!」
かれんが慌てて取り繕う。ナイスフォロー……と言いたいところだが、その顔は「嘘をついています」と看板を掲げているように真っ赤だ。梓は不審そうに目を細めたが、チャイムが鳴ったことで追求を諦めたようだ。
「……そうですか。話は後で聞きます。行きますよ、会長」
梓にかれんが促され、教室を出て行く。去り際、かれんはもう一度だけ振り返り、僕を見た。そして、梓に隠れて、胸の前で小さく手を振ったのだ。口パクで、『またね』と動かして。
(……勘弁してくれ)
二人が去った後の教室で、僕は机に突っ伏した。周りの男子たちが「お前、会長に何したんだよ?」「すげえ睨まれてたじゃん」と野次馬根性で集まってくる。適当に「分かんない、怖かった……」と震えて誤魔化しながら、僕はポケットの中でスマホを取り出した。悪友・冴島からのメッセージが届いている。
『おやおや、朝から熱烈なアプローチだねぇ。評価★5の威力は絶大だ』
『黙れ。お前のせいで寿命が縮んだ』
『気をつけることだね。副会長の真壁梓は、僕でもハッキングしきれないくらいガードが堅い。彼女に目をつけられたら、君の「変身」も時間の問題でバレるよ』
分かっている。かれんは感情で動くタイプだからまだ御しやすいが、梓は論理で詰めてくるタイプだ。もし梓に「仁科悠=レンタル彼氏」だとバレれば、間違いなく排除されるか、あるいはもっと恐ろしい取引を持ちかけられるだろう。僕は窓の外を見上げた。秋の空は高く澄み渡っているが、僕の心中は土砂降りだ。平穏な「モブ生活」を守るための戦いは、まだ始まったばかり――いや、むしろ激化の一途を辿っている。
そして、この時の僕はまだ知らなかった。脅威は生徒会だけではないことを。クラスの中に潜む、もう一人の「爆弾」が、すぐそこまで迫っていることを。
「――ねえ、ニシナくん」
甘く、少しハスキーな声が、僕の頭上から降ってきた。ビクリとして顔を上げると、そこにはミルクティー色の髪を揺らす、クラスの中心人物(カーストトップ)が立っていた。派手なメイク、短いスカート、耳元の無数のピアス。久我莉々(くが りり)。学園一のギャルがなぜか僕の机に手をついて、上目遣いで覗き込んでいた。
「え、あ、はい……?」
「あんたさぁ……」
彼女は誰にも聞こえないような小声で、意味深に囁いた。
「『いい匂い』、するね?」
彼女の鼻が、クンと鳴る。その瞬間、僕は思い出した。昨日、姉さんにセットされた時に使った、高級ヘアオイルの残り香。シャワーで流したつもりだったが、完全には消えていなかったのか。そして、彼女の視線は、僕が「陰キャ」を演じていることを見透かすように、楽しげに歪んでいた。
――前門の生徒会長、後門のギャル。僕の逃げ場は、どこにもない。
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