第5話 対決、キザな婚約者
「裸の王様、だと……?」
西園寺の顔が怒りでどす黒く染まっていく。それはそうだろう。彼のような人間は、生まれてから一度たりとも「NO」と言われたことがない。周囲は常にイエスマンで固められ、自分の言葉は法律、自分の感情は天候のように絶対的なものとして扱われてきたはずだ。そんな温室育ちの彼にとって、僕のような「どこの馬の骨とも知れない若造」に見下されることは、死よりも耐え難い屈辱に違いない。
「ふざけるな……!俺に向かってその口の利き方はなんだ!俺が誰だか分かっているのか!?」
西園寺が怒鳴り声を上げ、テーブルの上のカトラリーがカチャリと震えた。ラウンジ内の視線が一斉に僕たちのテーブルに集まる。品の良い老夫婦が眉をひそめ、ビジネスマンたちが訝しげにこちらを見ている。完全に「迷惑客」だ。
「……西園寺さん」
僕は眉一つ動かさず静かに言った。あくまで穏やかに、諭すようなトーンで。
「声が大きすぎます。ここは一流ホテルのラウンジだ。あなたのその大声は、この場の調和(ハーモニー)を乱す雑音でしかありませんよ」
「なっ……」
「周囲を見てください。皆さんが不快そうにしています。西園寺グループの次期総帥ともあろうお方が公衆の面前で自身の品格を下げるような真似をして、よろしいのですか?」
僕の指摘に、西園寺はハッとして周囲を見回した。冷ややかな視線に気づき、彼はバツが悪そうに唇を歪めた。プライドが高い人間は世間体を気にする。そこを突けば、ひとまずは落ち着かせることができる。
「……チッ。口の減らないガキだ」
西園寺は忌々しげに舌打ちをして、ドサリとソファに座り直した。とりあえず、物理的な暴力を振るわれる心配はなくなったようだ。僕は心の中で小さく安堵のため息をつきながら、隣に座るかれんに視線を送った。彼女は顔面蒼白で、小刻みに震えている。
「大丈夫だよ、かれん」
「……悠、くん……」
「安心して。僕がついている」
僕はテーブルの下で、彼女の手を優しく握った。冷え切った指先を温めるように、親指で手の甲を撫でる。彼女が潤んだ瞳で僕を見上げる。吊り橋効果も相まって、その表情は守ってあげたくなる「ヒロイン」そのものだ。……まあ、これは演技(仕事)なのだが、悪い気はしない。
「フン、茶番だな」
西園寺が鼻で笑った。彼は腕を組み、ふんぞり返った姿勢で僕たちを見下ろす。
「おい、学生。名前はなんて言ったか」
「仁科です」
「そうか、仁科。お前、かれんの何を知っている?」
西園寺の目が、爬虫類のように細められた。値踏みするような、嫌な質問だ。
「彼女の優しさ、誠実さ、そして誰よりも責任感が強いところです」
「ハッ!中身のない答えだ。俺が聞いているのは『価値』の話だよ」
西園寺は嘲るように口角を吊り上げた。
「天童家は名門だが今は斜陽だ。父親の事業は失敗続き、資産も目減りしている。このままじゃ一家離散も時間の問題だ。それを救ってやれるのは、我が西園寺グループの資本力だけなんだよ」
「……っ!」
かれんが悔しそうに俯く。やはり家の事情が弱みになっているのか。
「つまりだな、かれんは俺にとって『高価な買い物』なんだよ。西園寺家の嫁というブランドを与え、借金を肩代わりしてやる。その対価として彼女は俺に一生尽くす義務がある。それがビジネスだ」
西園寺はタバコを取り出そうとして、ここが禁煙席であることに気づき、苛立たしげにテーブルに叩きつけた。
「それを、お前のような貧乏学生が横から掠め取ろうなんざ、万引きと同じなんだよ。分かったらさっさと消えろ。それとも、お前に天童家の借金を背負える甲斐性があるのか?」
勝ち誇ったような顔。彼は確信しているのだ。金と権力という「現実」を突きつければ、僕のような若造は尻尾を巻いて逃げ出すと。確かに普通の高校生ならここで言葉に詰まるだろう。だが、僕は「S級レンタル彼氏」だ。この程度の修羅場、マダムたちの愛憎劇に比べれば児戯に等しい。
「……なるほど。あなたの言い分はよく分かりました」
僕は一度頷き、ゆっくりと口を開いた。
「つまりあなたは、彼女を『愛している』から結婚するのではなく、ご自身の『支配欲』と『所有欲』を満たすために、彼女の弱みにつけこんで買収しようとしている……と。そう仰りたいわけですね?」
「言葉を選べよ、若造。俺は慈悲をかけてやってるんだ」
「慈悲、ですか。面白い表現ですね」
僕はあえてクスリと笑った。相手の神経を逆撫でする、洗練された嘲笑。
「僕にはそれが、自信のなさの裏返しにしか見えません」
「あぁ?」
「自分自身の魅力で女性を振り向かせる自信がないから、家の力や金の力といった『付属品』で相手を縛り付けるしかない。……違いますか?」
図星だったのだろう。西園寺の目が見開かれ、額に青筋が浮かぶ。
「き、貴様……!」
「本当に価値のある男なら借金の肩代わりなどという恩着せがましい取引を持ち出さずとも、彼女の方から『あなたについていきたい』と思わせるはずです。それができないのは、あなた自身の『人間としての魅力(スペック)』が低いからでは?」
挑発。明確な挑発だ。隣でかれんが息を呑むのが分かった。西園寺は今にも掴みかかってきそうな形相だが、僕は畳み掛ける。
「僕は彼女の家がどうであれ関係ありません。もし彼女が困っているなら、僕自身の力で支えます。金ではなく、心でね」
「口だけなら何とでも言えるんだよッ!」
西園寺が吠えた。
「テメェみたいなガキに何ができる!社会の仕組みも知らねえ分際で!俺はK大卒で、MBAも持ってるエリートだぞ!年収だって同世代の平均の十倍はある!お前に俺以上の何があるってんだ!」
出た。学歴、肩書き、年収。自分のスペックを並べ立てるマウント攻撃。僕は心の中で「待ってました」と拍手した。土俵をそこ(スペック勝負)に持ってきてくれるなら、話は早い。
「スペック、ですか」
「そうだ!男の価値は数字だ!お前みたいな無名な学生と違って、俺は選ばれた人間なんだよ!」
西園寺は興奮してまくし立てる。僕はそれをまるで駄々っ子を見るような目で見つめた。
「……西園寺さん。一つお聞きしても?」
「ああん?」
「あなたが注文されたそのワイン。……『シャトー・マルゴー』の2015年ヴィンテージとお見受けしますが」
僕はテーブルの上に置かれた、彼が手付かずのまま放置しているワイングラスを指差した。
「は?ああ、そうだ。一番高い赤を持ってこいと言ったからな。それがどうした」
「今の室温は24度。赤ワイン、特にカベルネ・ソーヴィニヨン主体のボルドーを味わうには少し高すぎます。それに、抜栓してから時間が経っていない。これではタンニンが開ききらず、渋みだけが際立ってしまう」
僕は自分のグラス(アイスティーだが)を軽く揺らしながら、流暢に続けた。
「本当の『エリート』なら、ただ高いものを注文するのではなく、その場の環境や料理に合わせて最高の状態を楽しむ知識(リテラシー)を持っているべきでは?……せっかくの名酒が泣いていますよ」
「な、なに……?」
西園寺が虚を突かれた顔をする。ただの学生がワインの知識、それも提供温度やデキャンタージュのタイミングまで知っているとは思わなかったのだろう。これはジャブだ。姉さんに叩き込まれたテーブルマナーと教養の一部に過ぎない。
「それに、先ほどあなたは『K大卒でMBAを持っている』と仰いましたが……」
僕は彼のネクタイに視線を落とした。
「そのネクタイの結び方。『ウィンザーノット』にしようとして失敗していますね。ノットが大きすぎて、シャツの襟の開きとバランスが取れていない。MBAで経営学は学べても、美学(エステティクス)は学べなかったようですね」
「~~ッ!!」
西園寺が慌てて自分の首元を押さえる。顔色が赤から青、そして再び赤へと変わっていく。小賢しい知識ひけらかしだと思っているだろう。だが、彼のような人間にとって、一番の急所は「自分が知らないマナーや教養で恥をかかされること」だ。
「悠くん……すご……」
かれんが呆然と呟く。彼女も名家の娘だ。僕の指摘が的確であることは理解できているはずだ。
「黙れッ!!」
西園寺が激昂し、テーブルを蹴り飛ばした。ガシャン!とグラスが倒れ、水がテーブルクロスに広がる。
「屁理屈をこねるな!ワインだのネクタイだの、そんな些末なことはどうでもいいんだよ!俺が言ってるのはな、社会的な力(パワー)の話だ!」
彼は立ち上がり、僕を指差した。
「いいだろう。そこまで言うなら、思い知らせてやる。俺とテメェ、どっちが『本物』か。徹底的に論破してやるよ」
「望むところです」
僕は静かに立ち上がり、濡れたテーブルクロスをナプキンで手早く押さえながら、不敵に微笑んだ。
「ただし、僕が勝ったら条件があります」
「条件だと?」
「今後一切、天童かれんに近づかないこと。そして、彼女を『物』扱いしたことを土下座して謝罪していただく」
西園寺の額に青筋が走る。だが、彼はプライドの塊だ。学生風情の挑戦から逃げるという選択肢はない。
「いいだろう。……その代わり、俺が勝ったら、お前には死ぬほど後悔させてやる。社会的に抹殺してやるから覚悟しろよ」
「ええ。構いません」
僕は即答した。隣でかれんが「悠くん、ダメだよ!」と止めようとするが、僕は視線で制する。
(大丈夫。負ける要素がない)
相手が感情的になればなるほど勝率は上がる。西園寺は今、怒りで冷静さを欠いている。自分の得意分野である「社会的地位」や「経済論」で僕を叩き潰そうとしているだろうが、そこは僕にとってもホームグラウンドだ。なぜなら、僕はこの数年間、あらゆるジャンルの本を読み漁り、姉さんの顧客である富裕層たちの会話を分析し、彼らが好む「理論」を完璧にインストールしているからだ。
単なる知識量ではない。相手の矛盾を突き、論理の隙間を抉り、言葉のナイフで急所を刺す。それが、僕が「S級」たる所以。
「さあ、始めましょうか。西園寺さん」
僕は眼鏡のない瞳を細め、冷たく言い放った。
「あなたのその薄っぺらいプライドを、一枚ずつ剥がして差し上げます」
ラウンジの空気が、ピリリと張り詰める。単なる口喧嘩ではない。これは、一人の少女の尊厳と自由を賭けた、知性による決闘(デュエル)だ。
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