第2話 生徒会長の切実な嘘
その日の放課後。二年B組の教室に、モーゼが海を割るような静寂が訪れた。
ガヤガヤと騒がしかった教室の空気が、ピシリと凍りつく。入口の引き戸が開き、一人の女子生徒が足を踏み入れたからだ。一歩、また一歩。彼女が歩くたびに、男子たちは息を呑み、女子たちは道を空ける。艶やかな黒髪、少しの乱れもない制服の着こなし、そして周囲を圧倒する冷ややかな美貌。生徒会長、天童かれん。学園の頂点に君臨する『氷の女王』が、なぜかごく普通の一般教室に降臨したのである。
(……うわあ、来たよ)
教室の隅、自分の席で帰り支度をしていた僕は、心の中で盛大に頭を抱えた。 周囲の生徒たちが「何の用だ?」「誰か生徒会に睨まれたのか?」とヒソヒソ噂する中、彼女の視線は一直線に僕の方へ向いていた。正確には、僕の存在そのものではなく、「依頼した相手」を確認するような事務的な眼差しだ。
彼女は僕の机の前で立ち止まると、氷のような声で言った。
「仁科悠くん、ですね」
「ひ、ひいっ……!?」
僕は反射的に喉から情けない悲鳴を漏らした。もちろん演技だ。椅子から転げ落ちそうになるほどオーバーに怯えて見せると、彼女はわずかに眉をひそめた。その瞳には、「やっぱりこの程度か」という侮蔑と、「これなら安心だ」という安堵が入り混じっていた。
「あ、あの……な、何か……?」
「少し、お話があります。生徒会室までご同行願えますか?」
「ボ、ボクがですか……?何かの間違いじゃ……」
「間違いではありません。……『アプリ』の件です」
最後の一言は、周囲には聞こえないほどの小声だった。だが、その威力は絶大だ。 僕はコクコクと首を縦に振るしかなかった。
「わ、分かりました……行きますぅ……」
僕が彼女の後ろをついて歩き出すと、背後からクラスメイトたちのざわめきが聞こえてきた。
『おい、あのニシナが生徒会に連行されたぞ』
『何やったんだ?』
『どうせ補導とかじゃね?』
よし、反応は上々だ。あくまで「怒られて連行される哀れな陰キャ」という構図。これなら、僕と生徒会長の間に色恋沙汰の噂が立つことはない。僕は猫背をさらに丸め、トボトボと女王の背中を追った。
♢
放課後の生徒会室は静まり返っていた。高級感のある革張りのソファ。淹れたての紅茶の香り。対面に座った天童かれんは優雅にティーカップを傾けている。一方、僕はソファの端っこに縮こまり、出された紅茶にも手を付けられずにいた。
「……単刀直入に言います」
カップをソーサーに置くカチャリという音が、部屋に響く。彼女は凛とした瞳で僕を射抜いた。
「今度の日曜日、私の『恋人』のフリをしていただきたいのです」
分かっていたことだが改めて本人から聞くと破壊力がすごい。僕はビクッと肩を震わせ、眼鏡の位置を直すフリをして表情を隠した。
「え、えええ……ッ!?こ、恋人……ですか?ボ、ボクなんかが……?」
「ええ。あなた『なんか』だからこそ、選んだのです」
彼女は悪びれもせず、残酷な事実を告げた。言葉のナイフが鋭すぎる。素の僕なら「言い方」とツッコミを入れているところだが、今の僕は気弱な仁科くんだ。
「ど、どういう……こと、でしょうか……?」
「事情を説明します」
彼女は深いため息をつくと、憂いを帯びた表情で語り始めた。話の内容は冴島から聞いていた通りだった。親同士が決めた政略結婚のような婚約話。相手は西園寺家の御曹司。だが、その男はとんでもなくキザで、自己中心的で、彼女の意志など尊重しないタイプらしい。
「私は何度も断りました。でも、父も向こうも聞く耳を持ってくれません。だから……つい、言ってしまったのです。『私には心から愛し合っている、大切な人がいます』と」
「は、はあ……」
「そうしたら、向こうが『ならばその男を連れて来い。俺が見定めてやる』と言い出して……今度の日曜日、駅前の広場で会うことになってしまいました」
なるほど、典型的な自爆だ。嘘をつくならもっとバレない嘘をつけばいいのに。彼女は勉強はできても、こういう駆け引きには不慣れらしい。彼女はジッと僕を見た。品定めをするような、それでいて縋るような目だ。
「私は、困っていました。演劇部の男子に頼もうかとも思いましたが、彼らは目立ちすぎます。変な噂が立つのも困りますし、何より……勘違いされるのが嫌なのです」
「勘違い……?」
「『恋人のフリ』をしているうちに、本気になられたりしたら面倒でしょう?私は恋愛という不確定な要素に時間を割きたくないのです」
彼女はきっぱりと言い切った。つまり、こういうことだ。そこそこ顔の良い男子に頼むと、「もしかして俺のこと好きなのか?」と勘違いされ、後々面倒なことになる。
だからこそ――
「そこで、『シーク』のランキング最下位……指名が数回しかなく、校内でも一番影が薄く、女子との関わりが皆無なあなたにお願いすることにしました」
彼女はソファから身を乗り出し、真剣な眼差しで僕に告げた。
「仁科くん。あなたなら絶対に私を好きになったりしませんよね?私と釣り合うはずがないと、自分を客観視できていますよね?」
ぐうの音も出ないほどの正論(罵倒)だった。彼女に悪気はないのだろう。ただ、純粋に「安全パイ」を探していたら僕に行き着いただけだ。僕は内心で苦笑しながら、あくまで卑屈に頷いた。
「は、はいぃ……。もちろんです……。ボクなんかが、会長を好きになるなんて……ありえません……」
「よかった。その『わきまえ』こそが、今回一番必要な才能です」
彼女は安堵の息を漏らし、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、悔しいけれど見惚れるほど美しかった。なるほど、これじゃあ普通の男子なら勘違いもするだろう。僕が「安全」認定されたのも無理はない。
「では、契約成立ということでよろしいですね?」
「あ、あの……でも、ボクなんかで、その……婚約者の方を騙せるんでしょうか……?その、見た目とか……」
僕はあえて、一番の懸念点を口にした。今の僕は、ボサボサ髪に分厚い眼鏡、猫背の陰キャだ。こんなのが「愛し合っている彼氏」として現れたら、相手の御曹司は笑い飛ばすだけではないか?
だが、かれんの考えは違った。
「それでいいのです」
「へ?」
「あなたが頼りない見た目であればあるほど、私が『外見や家柄ではなく、内面で選んだ』という説得力が増します。それに……」
彼女は少しだけ意地悪そうに目を細めた。
「西園寺さんはプライドが高い人です。あなたのような人が相手なら、戦う価値もないと呆れて、私への興味も失くすかもしれません」
なるほど。僕は「当て馬」以下の、「戦意喪失させるためのガラクタ」として選ばれたわけだ。彼女の作戦はこうだ。僕を連れて行き、「こんなパッとしない男のどこがいいんだ?」と呆れさせ、破談に持ち込む。僕がカッコよく振る舞う必要はない。ただそこにいて、彼女に好かれているフリをさせていればいい。
(……甘いな)
僕は心の中で首を横に振った。相手がプライドの高い御曹司なら、そんなナメた真似をすれば逆上するだけだ。「こんなゴミに負けたのか」と執着心を燃やすか、あるいは僕を徹底的に潰しにかかるだろう。彼女を守るためには、ただの「壁」では足りない。相手を黙らせるだけの「格」が必要だ。
けれど、それを今ここで言うわけにはいかない。僕は震える手で、彼女が差し出した契約書(秘密保持誓約書)にサインをした。
「わ、分かりました……。日曜日、頑張ります……」
「ええ、期待していますよ。仁科くん」
彼女は満足げに頷くと事務的に話を切り上げた。「用件は済みましたので、退出して結構です」というオーラが凄い。僕は逃げるように生徒会室を後にした。
♢
パタン、と重い扉が閉まる。廊下に出た瞬間、僕は大きく息を吐き出し、丸めていた背筋を伸ばした。
「……はあ。疲れた」
眼鏡を外し、前髪をかき上げる。いつもの僕に戻る瞬間だ。誰もいない廊下で、僕はスマホを取り出し、冴島にメッセージを送った。
『契約完了。日曜の13時だ』
『お疲れ様。で、どうするんだい?言われた通り、ボロ雑巾のような格好で行くのかい?』
即座に返信が来る。こいつ、絶対どこかで盗聴してやがったな。僕は苦笑しながら、フリック入力で返した。
『まさか。依頼人のオーダーは「婚約者を諦めさせること」だ。ボロ雑巾じゃ逆効果だよ』
『おっ、やる気だねぇ』
『仕事だからな。それに……』
僕は生徒会室の扉を振り返った。あの完璧な『氷の女王』が、必死に考えた策が
「一番ダサい男を連れて行く」だなんて、あまりにも不憫で、少しだけ可愛らしく思えてしまった。
『舐められたまま終わるのは、僕のプライドが許さない』
送信ボタンを押し、僕は歩き出す。今日は金曜日。決戦は明後日だ。姉さんに連絡して、とびきりのコーディネートを用意してもらわなければならない。髪も、肌のコンディションも、立ち振る舞いも。日曜日、駅前の広場に立つのは「陰キャの仁科くん」ではない。プロのレンタル彼氏――『ユウ』だ。
僕は口元をニヤリと歪めた。さて、お手並み拝見といこうか。西園寺とやら。彼女が僕を「無害」だと信じているうちに、せいぜい驚かせてやることにしよう。
これが、波乱の幕開けとも知らずに。
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