第14話:海の向こうへ

夜が明ける頃、康彦はまだ私の部屋にいた。

言葉を交わさずとも、互いの心が揺れているのがわかった。

窓の外では、海が静かに波を寄せていた。

その音が、まるで決断を促すように、胸の奥に響いていた。


「麻衣子さん」

康彦が静かに口を開いた。

「僕は、帰ります。美月のそばに——父としての自分に戻ります」


私はゆっくりと頷いた。

その瞳には、寂しさと安堵が入り混じっていた。

「それが、あなたの選んだ道なら……私は何も言わないわ」


「でも、麻衣子さんのことは……忘れません」

康彦の声は、かすかに震えていた。

「あなたがいたから、僕は自分を見つめ直せた。だから……ありがとうございました」


私は微笑んだ。

「私も、あなたに出会えてよかった。たとえ、それが許されない関係だったとしても」


その言葉が、二人の間に最後の灯をともした。

康彦は立ち上がり、玄関へ向かった。

振り返ることなく、扉を開けて出て行った。

それが、彼の覚悟だった。


数日後、美月が無事に男の子を出産したという知らせが届いた。

康彦の声は明るく、どこか吹っ切れたようだった。

「名前は陽翔はるとにしました。太陽のように、まっすぐ育ってほしいから」


私は電話越しに祝福の言葉を伝えた。

「おめでとう。あなたたちなら、きっと素敵な家族になれるわ」


電話を切ったあと、私は海辺の道を歩いた。

潮風が髪を揺らし、遠くに漁船の灯が瞬いていた。

この島での暮らしは、まだ始まったばかりだった。


私は大学を卒業して以来、ホテルオオクラの管理栄養士兼調理師として長く勤めていた。

娘たちと同居するため、彼女たちの暮らす地方へと移り住み、退職を決めた。

その後は介護施設で三年間働き、介護福祉士の資格を取った。


ある日、村役場で目にしたのは、村営の山村留学寮の寮母募集の張り紙だった。

私は迷わず応募した。


面接には、村長、総合政策室の室長、教育委員会の事務局長、そして参与が同席していた。

最初の三年間は地域おこし協力隊としての雇用、その後は村の嘱託職員として採用されると説明を受けた。

今の家は村が借り上げ、家賃は地域おこし協力隊から支払うとの事だった。

採用は四月一日の辞令が出てからだが、子どもたちの笑顔に触れるたび、心が少しずつほどけていくのではと期待した。

過去は消えない。けれど、未来は自分で選べる——そう思えた。


ある日、私は海辺のベンチに腰を下ろし、ノートを開いた。

そこには、康彦への手紙が綴られていた。

送るつもりはなかった。ただ、自分の心を整理するためだった。


「あなたが選んだ道を、私は遠くから見守っています。

私も、私の人生を歩いていきます。ありがとう。さようなら」


風がページをめくり、空は茜色に染まり始めていた。

私は立ち上がり、海に向かって深く息を吸い込んだ。

その吐息は、過去を手放すためのものだった。


私はもう、誰かの母でも、誰かの女でもない。

ただ、自分自身として生きていく。

それが、彼との関係が教えてくれた——最後の贈り物だと思っていた。


夜の浜辺を、私はひとり歩いた。

月影が波間に揺れていた。

海の向こうには、まだ見ぬ明日が広がっている。

私は、ゆっくりと歩き出した。

風が、そっと背中を押してくれるようだった。


――第2章へつづく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る