第12話:灯をともす声
港の待合室で再会してから、数日が過ぎた。
あの夜、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、並んで座り、風の音に耳を澄ませていた。
それだけで、胸の奥に火が灯ったような気がした。
その後、康彦は何も言わずに島を離れた。
私は再び、ひとりの暮らしに戻った。
けれど、心のどこかで、彼の気配を探していた。
潮の香りに混じって、彼の声が聞こえるような気がしてならなかった。
そして、三日後の夕暮れ。
玄関の引き戸を叩く音がした。
私は胸の高鳴りを抑えながら、そっと戸を開けた。
「こんばんは」
康彦が、そこにいた。
少し痩せたように見えたが、瞳の奥には確かな光が宿っていた。
「話がしたくて……少しだけ、いいですか」
私は頷き、彼を部屋に招き入れた。
畳の上に座布団を並べ、湯を沸かす。
急須から立ちのぼる湯気が、二人の間の空気をやわらかく包む。
窓の外では、海が静かに揺れていた。
「ここでの暮らしは、落ち着いていますか?」
康彦が静かに尋ねる。
私は湯呑を手に取り、微笑んだ。
「ええ。朝は波の音で目が覚めて、夜は虫の声に包まれて眠るの。贅沢よね」
彼は小さく頷き、湯呑を見つめたまま言った。
「僕は……麻衣子さんを忘れようとした。でも、できなかった」
その言葉に、私は目を伏せた。
「私も、あなたの声が、風の音に重なって聞こえるの」
そう言った自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
沈黙が流れる。
けれど、それは気まずさではなく、互いの心を確かめ合うための静けさだった。
「美月は、もうすぐ出産です」
康彦の声が、少しだけ震えていた。
「彼女は、強い人だ。僕なんかより、ずっと……」
私は頷いた。
「ええ、あの子は、強い子よ。あなたを信じてる。あなたのそばで、赤ちゃんを迎える準備をしてる」
「それでも、僕は……麻衣子さんに会いたかった。抱きたかった」
彼の声が、私の胸に深く染み込んでいく。
「麻衣子さんと過ごした時間が、僕の中で消えないんです」
私は、湯呑を置き、そっと彼の手に触れた。
「私たちは、もう戻れない。でも……私はあなたのことを心と体が覚えてるわ」
彼はその手を握り返し、目を閉じた。
「麻衣子さんのいない日々は、空っぽだった」
「私もよ。けれど、もう義母としての私には戻れないの」
「僕は、あなたを義母として見ていない」
その言葉に、私は息を呑んだ。
夜が深まるにつれ、部屋の灯りが柔らかく揺れる。
私たちは、過去を語り、未来を想った。
肌と心が重なっていく時間。
それは、かつての関係とは違う、静かな再生の兆しだった。
「麻衣子さん……」
彼が私の名を呼ぶたびに、胸の奥が熱くなる。
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
「今夜は、ここにいてもいいですか?」
その問いに、私は答えなかった。
ただ、彼の手を強く握り返した。
それが、私の答えだった。
――つづく。
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