第8話:揺れる灯、消えぬ影
秋の終わり、庭の柿の実が色づき始めていた。
縁側に座ると、風が頬を撫で、季節の移ろいを静かに告げてくる。
私は湯呑を手に、遠くを見つめていた。
心の奥に、まだ消えきらない熱が残っている。
康彦とは、もう会わないと決めた。
それが、娘の美月への償いであり、自分への戒めでもあった。
けれど、彼からの連絡は途切れなかった。
「少しだけ、話したい」
「顔を見るだけでいい」
その言葉の端々に、彼の未練が滲んでいた。
私は何度も断った。
けれど、彼の声が耳に残り、心が揺れる。
あの夜、ホテルで交わした言葉と温もりが、まだ身体に残っていた。
ある日、買い物帰りの道すがら、康彦が待っていた。
「麻衣子さん……ほんの数分だけでも」
彼の瞳は、少年のように揺れていた。
私は足を止め、静かに頷いた。
近くの公園のベンチに並んで座る。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「美月は、もうすぐ出産です。僕は父になる」
康彦の声は、どこか遠くを見ていた。
「それなら、もう私のことは忘れて」
私は言葉を絞り出すように告げた。
彼は首を横に振り、拳を握った。
「忘れられないんです。麻衣子さんのことを、毎日思い出してしまう」
その言葉に、胸が締め付けられる。
私は彼の手に触れそうになり、寸前で止めた。
「私たちは、過ちを犯したの。もう戻れない」
風が吹き、落ち葉が足元を舞う。
その音が、二人の沈黙を埋めていく。
「でも、僕は……あなたに救われたんです」
康彦の声は震えていた。
「美月には言えない孤独を、麻衣子さんが埋めてくれた」
私は目を閉じた。
彼の言葉が、心の奥に静かに染みていく。
それでも、私はもう彼に触れてはいけない。
「康彦さん……あなたは、これから父親になるのよ」
私は立ち上がり、彼を見下ろした。
「私のことは、思い出にして。あなたの未来には、私はいないわ」
彼は何も言わず、ただ私を見つめていた。
その瞳に宿る熱は、まだ消えていなかった。
けれど、私は背を向けて歩き出した。
夕暮れの空が、茜色に染まっていた。
その色が、私の心を静かに包み込む。
禁断の関係は、終わらせなければならない。
それが、私たちに残された唯一の選択だった。
私はあの家を出て一人で生活することを決意した。
――つづく。
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