第3話:揺れる命、揺れる心

春に向かう冬の夜風が、庭の沈丁花の香りを運んでくる。

私は縁側に腰を下ろし、静かに目を閉じた。

この香りが漂う季節になると、決まって胸がざわめく。

それは、命の芽吹きに対する喜びと、私の中に芽生えてしまった背徳の感情が交錯するからだ。


康彦の妻で娘の美月が妊娠したと聞いたのは、ほんの数日前だった。

彼女は穏やかな笑顔で「お母さん、赤ちゃんができました」と告げた。

その瞬間、私は心から祝福の言葉を口にした。

けれど、胸の奥では、何かが静かに崩れ落ちていた。


その夜、康彦は私の部屋を訪れた。

「美月が眠った後、少しだけ……」

彼の声は、いつもより低く、どこか切なげだった。

私は戸惑いながらも、彼を部屋に招き入れた。


「赤ちゃんができたのに、こんなこと……」

私は布団の端に座り、視線を落とした。

康彦は私の隣に腰を下ろし、そっと手を重ねてきた。


「だからこそ、今だけなんです。美月には言えない想いが、僕の中にある」

彼の言葉は、私の心を揺らした。

今だけ——その言葉が、私を許す鍵のように響いた。


彼の手が私の頬に触れ、唇がそっと重なる。

その瞬間、私はすべてを忘れた。

母としての理性も、アラフィフの女としての羞恥も、すべてが夜の闇に溶けていった。


布団の中で、彼の腕に抱かれながら、私は静かに涙を流した。

それは、喜びでもあり、罪でもあった。

彼の手が私の肌を愛撫するたび、身体は熱を帯び、心は冷たく沈んでいく。


「麻衣子さん……あなたが必要なんです」

その言葉に、私は応えるように彼の胸に顔を埋めた。

彼の鼓動が、私の耳に心地よく響く。

それは、命の音であり、罪の証でもあった。


夜が更けるにつれ、二人の身体はひとつになった。

康彦の指先が私の肌をなぞり、唇が首筋に触れる。

私は目を閉じ、彼の熱に身を委ねた。

それは、母としてではなく、女としての私の選択だった。


「美月には……申し訳ないと思ってる」

彼がそう呟いたとき、私は彼の頬に手を添えた。

「わかってるわ。だから、これは……今だけのこと」

その言葉が、二人の関係に境界線を引いた。


朝が来れば、彼は夫として、父としての顔に戻る。

私は義母として、何事もなかったように振る舞う。

けれど、この夜だけは——私たちだけのものだった。


月が沈み、空が白み始める頃、私は彼の背中を見送った。

その姿に、愛しさと哀しさが入り混じる。

命が芽吹く春に、私はひとつの罪を抱えてしまった。

それでも、彼の温もりは、私の心を確かに満たしていた。


――つづく。

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