憂国忌
夢美瑠瑠
第1話
表題は、今日が三島由紀夫氏の命日ということの謂です。
「憂国」という小説があり、氏の思想の、国粋主義という面、そうして自衛隊の駐屯地で割腹自殺したというドラマチックな最期も含意。してるのだと思います。
7月25日の河童忌の時も書いたように、オレは読書もなんでも中途半端で、文学も生半可。 勉強途上です。
三島由紀夫にも中途半端な理解、イメージがあるのみで、が、大半の人はそうだと思う。
ドナルドキーンや坂本一亀くらいに親炙している人物なら別ですが?
ミシマ、はシンボルとかアイコンみたいな存在で、オレなら代表作も何度か読み返してはいるが、「よくわからない難しい小説」としか思わんくても無理がない…
時代錯誤で?大時代、ギャップはどうしようもない?
で、自分にとって、三島由紀夫はどういう存在か?
ミシマ、ダザイも、Wikipediaは、「自己愛性人格障害」と、斬り捨てている。
そういう意見は多い…一種の”精神を病んでいる”人物。
豪放磊落で、ボディビルに凝ったりしていたという、そこも「異常性の現れ」、で、「三島の首は生きているときから生首の感じがした」と、稲垣足穂さんは言ったとか。
「仮面の告白」に、確かに感動し、魅了されたという感じもあった…「人間失格」の、求心力と同様に、異様なくらいな迫真性があって、独特だからかな?
で、「一刀両断」な極論とかにわりと引っ張られて? 作家のイメージが固定してしまう悪弊があって、ミシマについては岸田秀氏の三島由紀夫論が、固定観念になっている。
岸田氏の評論は、「精神の死」と、三島氏の精神的な特徴を一言で表現して、他のすべてのことに敷衍している…岸田氏の論法にはこういう分析法が多いような気がすりゅ…が、分析自体は鋭い気もするのです。 どこか人工的な文体と人格。 嘘っぽいところだらけに思えてもしかたがない…確かにそういう自覚に本人ももしかしたら悩んでいて?で、ああいう末路になった…死の時まで結局「人工的な演出」という印象をまぬかれなかった、そういう評もわりかし、オレは一部しか読んでいないだろうけど、多い。
しかし、文学的な評価は、人物評とはもとより別であるべきで、だいたいが単なる人格障害でも、
精神がゆがんでいるからこその感覚の鋭敏さ、独特さ、そこがユニークさの秘密。 それは普通にありうるし、そうでない円満な作家のほうがマイノリティかも?
作家として成功し、首相になったゲーテ、知事になった石原慎太郎、人物の器量雅量が卓越しているケースもあって、十把一絡げにはできない。
が、従来は三島由紀夫についても、オレは岸田唯幻論の分析を鵜吞みにして、思考停止していただけで、その先を考えるという自主性すらインヒビッドされていて、?はなはだ幼稚極まりなさ過ぎたと思う。
現代の作家ゆえに、三島にも「不道徳教育講座」やら無数のヴァラエティ、趣向があり、そういうところに理知のひらめき、卓見のかずかず、そこに着目すべきなのは当然と思う。
三島由紀夫でも、スキャンダルは、つまり”オータニ”の試合中のプレーでなくて日常のゴシップを報道しているような、そういう低次元の話で、そこは二の次。
なぜ、彼が世界的なのかは、いまのところオレにはあいまいな、別次元のこととおもいます。
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