番外編① 小学生時代
教室に入った瞬間、みんなの視線が僕に向いた。
先生が僕の肩に手を置いて、黒板の前に立たせる。チョークで書かれた文字が、やけに白く見える。窓の外は春の光が差し込んでいて、桜の花びらが風に舞っている。僕は下を向いたまま、みんなの視線に耐えていた。
「今日から転校生が来ました。
先生の声が教室に響く。拍手が起こる。ぱらぱらとした、義務的な拍手だ。
「架見くん、自己紹介してください」
顔を上げる。教室には、知らない顔ばかりが並んでいる。みんな僕を見ている。何を言えばいいのか分からない。言葉が出てこない。
「……架見湊です」
やっとそれだけ言う。声が小さくて、後ろの席まで届いたか分からない。
「好きなものとか、趣味とかある?」
先生が優しく聞いてくる。でも答えられない。好きなもの?趣味?そんなこと考えたこともなかった。前の学校では、ただ毎日が過ぎていくだけだった。
「……分かりません」
正直に答える。教室が少しざわつく。変な奴だと思われたかもしれない。でも、嘘をつくよりはましだと思った。
「そっか。じゃあ、これから見つけていこうね」
先生はそう言って、僕を窓際の席に案内した。一番後ろの、端っこの席。僕はランドセルを置いて、椅子に座る。隣の席には、女の子が座っていた。
彼女は僕を見ていた。他の子とは違う目で。好奇心とか、興味とか、そういうものではない。ただ、じっと見ている。
「よろしくね」
彼女が小さく言う。声は優しかった。僕は頷いただけで、何も言えなかった。
◇
休み時間になると、何人かが僕の席に来た。
「架見くんって、どこから来たの?」
「前の学校はどんなだった?」
「サッカーとか好き?」
質問が次々と飛んでくる。でも、僕は答えられない。どう答えればいいのか分からない。みんなが期待している答えが、分からない。
「……隣の市」
「……普通」
同じような答えばかり返す。質問してきた子たちは、だんだん興味を失って、他の友達のところに行ってしまった。
教室の隅で、一人で座っている。窓の外を見ていると、桜の花びらがまた舞った。きれいだと思う。でも、それを誰かに言う勇気はない。
「一人でいるの、好き?」
隣の席の女の子が話しかけてきた。彼女はまだ僕に興味があるらしい。
「……分からない」
また同じ答えを返す。彼女は少し首を傾げて、それから笑った。
「分からないこと、多いんだね」
否定できなかった。本当に、分からないことばかりだった。好きなものも、嫌いなものも、やりたいことも、やりたくないことも。全部が曖昧で、全部がどうでもよくて、全部が等しく意味がなかった。
「私は
彼女は自己紹介してくれた。灯。その名前を聞いた瞬間、何か暖かいものを感じた気がした。
「……よろしく」
やっとそれだけ言えた。灯は嬉しそうに笑って、それから自分の席に戻った。
◇
給食の時間、僕は困っていた。
配膳台の前で立ち尽くして、トレイを持ったまま動けない。カレーとサラダと牛乳。それだけなのに、どれから取ればいいのか分からない。順番があるのか、ないのか。みんなはどうしているのか。
「カレーから取るといいよ」
灯が後ろから声をかけてきた。彼女は僕の横に並んで、自分のトレイにカレーを乗せる。
「こうやって」
見本を見せてくれる。僕はそれを真似して、カレーを取る。それからサラダ、牛乳。灯が全部教えてくれた。
「ありがとう」
小さく言う。灯は笑って、自分の席に戻っていった。
席に着いて、カレーを食べる。美味しいのか、美味しくないのか、よく分からない。ただ、お腹を満たすために食べている。周りの子たちは、楽しそうに話しながら食べている。僕はその輪に入れない。入り方が分からない。
「架見くん、カレー好き?」
灯がまた話しかけてきた。彼女の席は少し離れているのに、わざわざこっちを向いて話しかけてくれる。
「……分からない」
また同じ答え。でも、灯は笑っている。
「じゃあ、明日はシチューだから、それが好きか確かめてみたら?」
そういう考え方があるのか、と思った。好きか嫌いか分からないなら、確かめればいい。当たり前のことなのに、僕は思いつかなかった。
「……うん」
頷く。灯は満足そうに笑って、自分のカレーを食べ始めた。
◇
放課後、僕は一人で下校していた。
他の子たちは、グループで帰っている。笑いながら、走りながら、楽しそうに。僕はその後ろを、一人で歩いている。誰からも話しかけられず、誰にも話しかけず。
「架見くん、待って」
後ろから灯の声がした。振り返ると、彼女が走ってくる。ランドセルが揺れて、髪が風になびいている。
「一緒に帰ろう」
彼女はそう言って、僕の隣に並んだ。
「……いいの?」
聞いてしまう。友達と帰らなくていいのか、と。
「うん。架見くんと帰りたいから」
灯は笑って答える。理由がそれだけ。友達がいるのに、僕を選んでくれた。その事実が、胸の奥で何かを揺らした。
「……ありがとう」
また小さく言う。灯は「ううん」と首を振って、歩き始めた。
二人で並んで歩く。桜並木の下を、ゆっくりと。灯は時々話しかけてきた。学校のこと、クラスのこと、好きな教科のこと。僕はほとんど答えられなかったけど、灯は気にしていないみたいだった。
「架見くんって、考えてから話すんだね」
灯がそう言った。
「……そうかもしれない」
何を言えばいいのか、いつも迷う。正しい答えが分からない。間違ったことを言って、嫌われたくない。
「別にいいと思うよ。ちゃんと考えてから話すの、大事だもん」
灯の言葉に、少し救われた気がした。間違っていないのかもしれない、と。
家の前まで来ると、灯は手を振った。
「また明日ね」
「……うん」
頷いて、僕は家に入った。玄関で振り返ると、灯はまだ手を振っていた。僕も小さく手を振り返す。
その日、初めて学校が少しだけ楽しいと思った。
◇
次の日も、灯は僕に話しかけてきた。
給食の時も、休み時間も、放課後も。いつも隣にいてくれた。他の子たちが僕を避けるようになっても、灯だけは変わらなかった。
「架見くんって、何が好きなの?」
ある日、灯が聞いてきた。また同じ質問。でも、今度は少し考えてから答えた。
「……静かなところ」
それが、初めて自分で見つけた答えだった。騒がしい場所は疲れる。一人でいる時間が好き。でも、灯といる時間も、嫌いじゃない。
「じゃあ、屋上行ってみる?」
灯が提案してくれた。
「……屋上?入っていいの?」
「いいよ?ボール遊びとかはダメだけど」
「そういう遊びは苦手」
「なら大丈夫!いこうよ」
「屋上、他の子達いない?」
「うん。誰もいないし静かだよ」
灯に連れられて、屋上に行った。扉を開けると、青い空が広がっていた。風が吹いて、髪が揺れる。
「ほら、静かでしょ」
灯が笑う。本当に、静かだった。街の音が遠くに聞こえるだけで、ここには僕たちしかいない。
「……うん」
頷いて、フェンスに寄りかかる。灯も隣に並んだ。
「ここ、好き?」
「……うん」
今度は迷わずに答えられた。ここは好きだ。灯と一緒なら、もっと好きだ。
「よかった。また来ようね」
灯が嬉しそうに言う。僕も少しだけ笑った。笑うことなんて、久しぶりだった気がする。
それから、僕たちは毎日のように屋上に行った。休み時間に、放課後に。二人だけの場所。そこで、僕は少しずつ話せるようになった。好きなもの、嫌いなもの、考えていること。
灯は全部聞いてくれた。否定せず、笑わず、ただ頷いて聞いてくれた。
「架見くんは、ちゃんと自分で決めてるんだね」
ある日、灯がそう言った。
「……決める?」
「うん。何が好きで、何が嫌いで、何をしたいか。ちゃんと自分で決めてる」
その言葉の意味が、よく分からなかった。みんな、そうやって生きているんじゃないのか。
「……みんな、そうじゃないの?」
「そうかもしれないけど」
灯は少し考えてから、続けた。
「でも、架見くんは、ちゃんと考えてから決めてる。それって、すごいことだと思う」
すごいことなのかどうか、僕には分からなかった。ただ、灯がそう言ってくれるのが、嬉しかった。
「……ありがとう」
小さく言う。灯は笑って、空を見上げた。
「私も、架見くんみたいに、ちゃんと考えて決められるようになりたいな」
その言葉が、胸に残った。灯は、いつも笑っている。いつも明るい。でも、本当は、何か悩んでいるのかもしれない。
「……灯は、ちゃんと決めてると思うよ」
僕は初めて、自分から言葉を返した。
「え?」
「……だって、灯は、僕と話してくれるって、決めたでしょ」
灯は少し驚いた顔をして、それから笑った。いつもより、嬉しそうな笑顔だった。
「そうだね。架見くんと話すって、決めた」
風が吹いて、桜の花びらが舞う。春の光が、僕たちを包んでいる。
僕は、初めて思った。
この子と、ずっと一緒にいたい、と。
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