番外編① 小学生時代





教室に入った瞬間、みんなの視線が僕に向いた。


先生が僕の肩に手を置いて、黒板の前に立たせる。チョークで書かれた文字が、やけに白く見える。窓の外は春の光が差し込んでいて、桜の花びらが風に舞っている。僕は下を向いたまま、みんなの視線に耐えていた。


「今日から転校生が来ました。架見湊かけみみなとくんです」


先生の声が教室に響く。拍手が起こる。ぱらぱらとした、義務的な拍手だ。


「架見くん、自己紹介してください」


顔を上げる。教室には、知らない顔ばかりが並んでいる。みんな僕を見ている。何を言えばいいのか分からない。言葉が出てこない。


「……架見湊です」


やっとそれだけ言う。声が小さくて、後ろの席まで届いたか分からない。


「好きなものとか、趣味とかある?」


先生が優しく聞いてくる。でも答えられない。好きなもの?趣味?そんなこと考えたこともなかった。前の学校では、ただ毎日が過ぎていくだけだった。


「……分かりません」


正直に答える。教室が少しざわつく。変な奴だと思われたかもしれない。でも、嘘をつくよりはましだと思った。


「そっか。じゃあ、これから見つけていこうね」


先生はそう言って、僕を窓際の席に案内した。一番後ろの、端っこの席。僕はランドセルを置いて、椅子に座る。隣の席には、女の子が座っていた。


彼女は僕を見ていた。他の子とは違う目で。好奇心とか、興味とか、そういうものではない。ただ、じっと見ている。


「よろしくね」


彼女が小さく言う。声は優しかった。僕は頷いただけで、何も言えなかった。



休み時間になると、何人かが僕の席に来た。


「架見くんって、どこから来たの?」


「前の学校はどんなだった?」


「サッカーとか好き?」


質問が次々と飛んでくる。でも、僕は答えられない。どう答えればいいのか分からない。みんなが期待している答えが、分からない。


「……隣の市」


「……普通」


同じような答えばかり返す。質問してきた子たちは、だんだん興味を失って、他の友達のところに行ってしまった。


教室の隅で、一人で座っている。窓の外を見ていると、桜の花びらがまた舞った。きれいだと思う。でも、それを誰かに言う勇気はない。


「一人でいるの、好き?」


隣の席の女の子が話しかけてきた。彼女はまだ僕に興味があるらしい。


「……分からない」


また同じ答えを返す。彼女は少し首を傾げて、それから笑った。


「分からないこと、多いんだね」


否定できなかった。本当に、分からないことばかりだった。好きなものも、嫌いなものも、やりたいことも、やりたくないことも。全部が曖昧で、全部がどうでもよくて、全部が等しく意味がなかった。


「私は羽白灯はじろあかり。あかりって呼んでね」


彼女は自己紹介してくれた。灯。その名前を聞いた瞬間、何か暖かいものを感じた気がした。


「……よろしく」


やっとそれだけ言えた。灯は嬉しそうに笑って、それから自分の席に戻った。



給食の時間、僕は困っていた。


配膳台の前で立ち尽くして、トレイを持ったまま動けない。カレーとサラダと牛乳。それだけなのに、どれから取ればいいのか分からない。順番があるのか、ないのか。みんなはどうしているのか。


「カレーから取るといいよ」


灯が後ろから声をかけてきた。彼女は僕の横に並んで、自分のトレイにカレーを乗せる。


「こうやって」


見本を見せてくれる。僕はそれを真似して、カレーを取る。それからサラダ、牛乳。灯が全部教えてくれた。


「ありがとう」


小さく言う。灯は笑って、自分の席に戻っていった。


席に着いて、カレーを食べる。美味しいのか、美味しくないのか、よく分からない。ただ、お腹を満たすために食べている。周りの子たちは、楽しそうに話しながら食べている。僕はその輪に入れない。入り方が分からない。


「架見くん、カレー好き?」


灯がまた話しかけてきた。彼女の席は少し離れているのに、わざわざこっちを向いて話しかけてくれる。


「……分からない」


また同じ答え。でも、灯は笑っている。


「じゃあ、明日はシチューだから、それが好きか確かめてみたら?」


そういう考え方があるのか、と思った。好きか嫌いか分からないなら、確かめればいい。当たり前のことなのに、僕は思いつかなかった。


「……うん」


頷く。灯は満足そうに笑って、自分のカレーを食べ始めた。



放課後、僕は一人で下校していた。

他の子たちは、グループで帰っている。笑いながら、走りながら、楽しそうに。僕はその後ろを、一人で歩いている。誰からも話しかけられず、誰にも話しかけず。


「架見くん、待って」


後ろから灯の声がした。振り返ると、彼女が走ってくる。ランドセルが揺れて、髪が風になびいている。


「一緒に帰ろう」


彼女はそう言って、僕の隣に並んだ。


「……いいの?」


聞いてしまう。友達と帰らなくていいのか、と。


「うん。架見くんと帰りたいから」


灯は笑って答える。理由がそれだけ。友達がいるのに、僕を選んでくれた。その事実が、胸の奥で何かを揺らした。


「……ありがとう」


また小さく言う。灯は「ううん」と首を振って、歩き始めた。


二人で並んで歩く。桜並木の下を、ゆっくりと。灯は時々話しかけてきた。学校のこと、クラスのこと、好きな教科のこと。僕はほとんど答えられなかったけど、灯は気にしていないみたいだった。


「架見くんって、考えてから話すんだね」


灯がそう言った。


「……そうかもしれない」


何を言えばいいのか、いつも迷う。正しい答えが分からない。間違ったことを言って、嫌われたくない。


「別にいいと思うよ。ちゃんと考えてから話すの、大事だもん」


灯の言葉に、少し救われた気がした。間違っていないのかもしれない、と。


家の前まで来ると、灯は手を振った。


「また明日ね」


「……うん」


頷いて、僕は家に入った。玄関で振り返ると、灯はまだ手を振っていた。僕も小さく手を振り返す。


その日、初めて学校が少しだけ楽しいと思った。



次の日も、灯は僕に話しかけてきた。

給食の時も、休み時間も、放課後も。いつも隣にいてくれた。他の子たちが僕を避けるようになっても、灯だけは変わらなかった。


「架見くんって、何が好きなの?」


ある日、灯が聞いてきた。また同じ質問。でも、今度は少し考えてから答えた。


「……静かなところ」


それが、初めて自分で見つけた答えだった。騒がしい場所は疲れる。一人でいる時間が好き。でも、灯といる時間も、嫌いじゃない。


「じゃあ、屋上行ってみる?」


灯が提案してくれた。


「……屋上?入っていいの?」


「いいよ?ボール遊びとかはダメだけど」


「そういう遊びは苦手」


「なら大丈夫!いこうよ」


「屋上、他の子達いない?」


「うん。誰もいないし静かだよ」


灯に連れられて、屋上に行った。扉を開けると、青い空が広がっていた。風が吹いて、髪が揺れる。


「ほら、静かでしょ」


灯が笑う。本当に、静かだった。街の音が遠くに聞こえるだけで、ここには僕たちしかいない。


「……うん」


頷いて、フェンスに寄りかかる。灯も隣に並んだ。


「ここ、好き?」


「……うん」


今度は迷わずに答えられた。ここは好きだ。灯と一緒なら、もっと好きだ。


「よかった。また来ようね」


灯が嬉しそうに言う。僕も少しだけ笑った。笑うことなんて、久しぶりだった気がする。


それから、僕たちは毎日のように屋上に行った。休み時間に、放課後に。二人だけの場所。そこで、僕は少しずつ話せるようになった。好きなもの、嫌いなもの、考えていること。


灯は全部聞いてくれた。否定せず、笑わず、ただ頷いて聞いてくれた。


「架見くんは、ちゃんと自分で決めてるんだね」


ある日、灯がそう言った。


「……決める?」


「うん。何が好きで、何が嫌いで、何をしたいか。ちゃんと自分で決めてる」


その言葉の意味が、よく分からなかった。みんな、そうやって生きているんじゃないのか。


「……みんな、そうじゃないの?」


「そうかもしれないけど」


灯は少し考えてから、続けた。


「でも、架見くんは、ちゃんと考えてから決めてる。それって、すごいことだと思う」


すごいことなのかどうか、僕には分からなかった。ただ、灯がそう言ってくれるのが、嬉しかった。


「……ありがとう」


小さく言う。灯は笑って、空を見上げた。


「私も、架見くんみたいに、ちゃんと考えて決められるようになりたいな」


その言葉が、胸に残った。灯は、いつも笑っている。いつも明るい。でも、本当は、何か悩んでいるのかもしれない。


「……灯は、ちゃんと決めてると思うよ」


僕は初めて、自分から言葉を返した。


「え?」


「……だって、灯は、僕と話してくれるって、決めたでしょ」


灯は少し驚いた顔をして、それから笑った。いつもより、嬉しそうな笑顔だった。


「そうだね。架見くんと話すって、決めた」


風が吹いて、桜の花びらが舞う。春の光が、僕たちを包んでいる。


僕は、初めて思った。


この子と、ずっと一緒にいたい、と。

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