第4話
朝のホームルームが始まっても、俺の頭の中はまだ昨日のままだった。
「堀越くん」
あの声が、湖面に落ちた小石の波紋みたいに、何度も何度も耳の奥で反響している。
教科書を開いても文字が意味を持たず、黒板を見ても数式が記号の羅列にしか見えない。その音だけが頭から離れない。名前を呼ばれただけだ。たったそれだけのことなのに、こんなにも引きずるものなのか。人の名を呼ぶという行為が、こんなにも重力を持つものだったとは。
ふと視線を横に流すと、彼女――結さんが、いつも通り静かに席に座っていた。
窓際の席で、午前の光に照らされながら、文庫本のページをめくっている。いつもの光景。いつもの彼女。まるで何も変わっていないかのような、穏やかな佇まい。
……でも、何かが違う気がする。
ページをめくる指の動きが、ほんの少しだけ早い。まるで焦りを隠すように。視線が文字を追っているようで、実は文字の向こう側の何かを見つめているような、そんな虚ろさがある。俺と同じように、何かを引きずっているんじゃないか。
そう思った瞬間、彼女がふとこちらを見た。
目が合う。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ。時間が薄く引き伸ばされたような錯覚。
彼女は慌てて視線を逸らし、再び本に目を落とした。耳が、ほんの少し赤くなっていた気がする。いや、確かに赤くなっていた。
俺も慌てて前を向く。
心臓がうるさい。まるで走ったあとみたいに、不規則に打っている。授業の内容が、まるで遠くのラジオみたいに聞こえて、全然頭に入ってこない。
▼
放課後。
いつものように鞄を肩に掛けて、廊下へ出る。蛍光灯の光が薄まり始めた時間帯。空気が一段階沈んでいくような、放課後特有の静けさが廊下を満たしている。
後ろから、足音がついてくる。
だが――今日は違う。
いつもより、距離が遠い。
ほんの数メートル、いや、もっと少ないかもしれない。でも確実に、昨日までとは違う距離感がそこにある。音の響き方で分かる。空気の厚みで分かる。
俺は振り返らない。振り返ったら、この微妙なバランスが崩れる気がする。何かが壊れてしまう気がする。
でも、違和感だけは消えない。胸の奥に小さな棘のように刺さったまま、歩くたびにちくちくと痛む。
「名前を交換したせいで……むしろ、距離を置かれたのか?」
その考えが頭をよぎり、胸がざわつく。冷たい水が背中を流れていくような不安。
いや、考えすぎだろ。そんなわけない。昨日あんなに柔らかく笑ってくれたじゃないか。
でも、もしそうだったら?
もし昨日のあれが、彼女にとって"重すぎた"んだとしたら?
歩きながら、俺はそんなことばかり考えていた。足音だけが規則正しく廊下に響き、その音さえもが不安を煽るように聞こえた。
▼
校舎裏のベンチに着く。
古い木製のベンチ。ささくれが年輪のように刻まれ、座面は長年の風雨で色が褪せている。でも、ここが俺たちの場所だ。約束したわけでもないのに、毎日ここで会う場所。
俺は先に座った。
数秒後、いつもなら彼女も静かに隣に座るはずだ。その気配、その足音、その存在の重みを、俺はもう知っている。
……でも、今日は来ない。
五秒、十秒、十五秒。時間だけが妙に長く感じられる。
彼女の気配がない。
「……まさか」
不安が喉の奥を這い上がってくる。冷たい塊のように、じわじわと。
そのとき――
「……っ、はぁ……!」
息を切らした声が、校舎の角から聞こえた。
振り返ると、彼女が小走りでこちらに向かってくる。
「……ごめんなさい。友達に捕まってしまって……」
息を切らす彼女。乱れた呼吸。揺れる髪。
その姿だけで、不安がゆっくり溶けてゆく。
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