第4話 夏祭り、浴衣と金魚と花火の作戦

 時はさらに過ぎ、小学五年生の夏。

 夏の夕方の空はいつもより背伸びをしているみたいに高かった。

 アスファルトの熱気がゆらゆら揺れて、蝉が最後の力を振り絞って鳴く。

 町内会の掲示板には、鮮やかな赤い文字と小学生が書いたであろう可愛らしいイラストの「夏祭り」ポスター。境内では前日から屋台の骨組みが運び込まれていた。


 ――危険信号だ。


 オレはポスターの前で腕を組み、深いため息を吐いた。

 原作『恋咲アンサンブル』でも語られていた“夏祭りイベント”。

 高校に入ってからも起こるイベントだけど、今回の夏祭りは紗月ルートの思い出として語られる、幼馴染みの思い出イベントの一つだ。

 浴衣、屋台、夜風、そして――花火の下で二人きり。

 ギャルゲーの神様が「ここで惚れろ」と言わんばかりの黄金イベントである。

 実際、小学校時代の回想でもこの夏祭りは幼馴染みフラグの加速装置だった。

 悠真が紗月を誘い、金魚掬いで手を添えてやり、最後に花火に紛れて優しく声をかける。

 そこから先は王道一直線……好きなイベントだったけど、今は思い出しただけで胃が痛い。

 だからオレは早々に準備を始めた。

 作戦名:浴衣同盟・推し優先条項!

 紗月と浴衣で夏祭りに行く約束して、当日の行動計画を先に決める。

 すなわち、すべて先に押さえれば、悠真が入る隙はないのだ!

 というわけで――。


「お姉ちゃん!」

「なに、千尋?」

「今年の夏祭り、一緒に行こう。この間お爺ちゃんが買ってくれた浴衣着ていくの!」

「ふふ、可愛い。いいよ行こっか。お母さんに浴衣の着方教えてもらわないとね」


 交渉成立。

 家に帰ったオレは机の引き出しにしまってあるメモ帳を取り出し、当日の予定を書き綴った。


 ――集合:玄関前。

 ――会場到着後:リンゴ飴→かき氷(二人で一つ)→金魚掬い(姉優先)→射的(景品は姉へ)→たこ焼き。

 ――クライマックス前:境内東側のベンチで休憩。

 ――花火:社務所側の石段脇で見る。

 ふっ、完璧だ。あまりに完璧過ぎる計画だ。

 オレはメモを胸ポケットにしまい、拳を握った。

 問題はただ一つ――悠真の先手だ。

 あいつが先に姉を誘ってきた場合、オレが結んだ約束は家族間の口約束に過ぎないものになってしまう。

 外からの正式なお誘いには押し負ける可能性がある。

 だから先手必勝だ。オレは登校前、姉と母の会話に割って入った。


「お母さん、今度の夏祭りお姉ちゃんと一緒に行くね」

「はいはい。千尋、ずいぶん張り切ってるわね」

「うん、だってすごく楽しみだから!」

「わかったわ。紗月もそれでいい?」

「もちろん、千尋と一緒に行きたい」


 よし、お母さんと紗月からのダブル承認。ここまで念推ししとけば悠真が誘ってきてもオレが優先されるはず。

 そう思っていた矢先のことだった。

 学校の昇降口で上履きに履き替えていたとき、背後から聞き覚えのある声がした。


「おはよう二人とも」

「あ、おはよう悠真君」

「おはよー」

「二人とも、もし良かったら今度の夏祭り一緒に行かない?」


 来た! だが残念だったな神谷悠真! もうすでに先手は打ってある!

 オレは振り向くよりも早く紗月の手を取って言った。


「夏祭りはわたしとお姉ちゃんの二人で、家族で行くから!」


 悠真が何か言うよりも早く、明るく笑って畳みかける。


「ね、お姉ちゃん!」

「う、うん。そうだね。でもわたしは――」

「そういうことだから! 悠真君は他の人と行ってね」


 悠真は「そっか」と笑って、少しだけ目を細めた。

 その表情には悔しさはなくて、微笑ましいものを見るような目をしていた。

 ……ここまで露骨に拒否られても怒らないとは。やっぱり根が良い奴だ。だから危険なんだけど。




 ◆




 夏祭り当日の夕方。

 浴衣に着替えた紗月は言葉にならないくらい可愛かった。

 淡い藤色に桔梗の柄。オレは水色地に矢絣。母が結ってくれた帯がきゅっと鳴る。

 玄関の鏡に映る姉妹は、オレの知ってるどのスチルよりも尊い。


「千尋、髪飾り曲がってるよ。じっとして」

「ん、ありがと……お姉ちゃんもすごく似合ってる」

「ありがとう」


 紗月の指先がそっとオレの前髪を直す。胸が少し熱くなる。

 あー、なんて尊い姉妹。こんな尊い姉妹の間に割って入ろうとする男は馬に蹴られて死ねばいい。

 心の中で何度も繰り返しながら、下駄をつま先で鳴らした。




 夕暮れの境内は屋台の提灯が揺れ、甘いソースの匂いが漂っていた。


「わぁ……きれい」


 紗月が嬉しそうに手を合わせる。オレはすかさず工程表を思い出す。


「お姉ちゃん、リンゴ飴! 次はかき氷! 早く行こ!」

「千尋、元気だね」


 推しの笑顔を独占できるなら、いくらでも動ける。

 計画通りに進める。リンゴ飴を半分こし、かき氷を笑い合って食べる。射的もオレが狙いを指示してぬいぐるみをゲット。

 ――完璧だ。ここまで隙はない。

 そう思っていたのだが。


「紗月、千尋!」


 聞き慣れた声が背後からした。振り返れば、浴衣姿ではないが、ラフな格好の神谷悠真の姿。

 やっぱり来やがったか。偶然を装おうたってそうはいかないからな!

 突然の悠真の登場に紗月が少し驚いた顔をする。オレは即座に紗月の腕を掴んだ。


「お姉ちゃん、金魚掬い行こ! 先に!」

「え、ちょっと千尋!」


 屋台に駆け込み、ポイを受け取る。

 原作ならここで悠真が紗月の手にそっと重ねて「ゆっくりやるんだよ」と導く。

 ――致命傷級のスチルだ。

 だからオレは先に宣言した。


「お姉ちゃんが先にやって! わたしは次でいいから」

「そう? それじゃあ先にやるね」


 紗月はおっとりした笑顔で金魚掬いに挑む。オレが横でタオルを持ち、全力でサポート。

 悠真の入り込む余地はない。

 破れそうになった瞬間、オレが声をかける。


「今だよ、お姉ちゃん!」


 結果、一匹掬えた。紗月が嬉しそうに見せてくる。


「千尋、ありがとう! 教えてくれたからできたよ!」

「えへへ、お姉ちゃんが上手だったからだよ」


 悠真は後ろで静かに笑って「良かったな」と言うだけだった。

 ――ふ、勝った。ここはオレの勝ちだ。




 やがて夜になり、花火の時間が近づくと人波が境内を埋め尽くす。

 オレは紗月の手を握り、人混みに紛れないように誘導した。気付けば悠真も一緒にいたが、まぁ仕方無い。あんまり邪険にしても紗月に怒られるし。紗月と悠真を二人きりにしない。それが大事なのだ。


「ここなら見やすいよ!」

 

 石段脇の開けたスペース。三人並んで空を見上げる。

 ドン、と地鳴りのような音が響き、夜空に大輪が咲いた。

 橙、青、紫。光の飴が降り注ぎ、紗月の横顔を照らす。


「きれい……」


 その呟きにオレの心臓は跳ねた。

 原作では花火の音に紛れて悠真が顔を近づけ「綺麗だね」と耳元で囁く。

 それが距離を縮めるトリガー。

 案の定、後ろから声。


「紗月、千尋」


 振り向けば悠真がすぐそばに。

 オレは即座に二人の間に挟まるように動いた。

 悠真は少し驚いた顔をしたが、笑って半歩下がった。


「ごめん、ここ見やすいからつい」


 そう言って静かに距離を取る。

 ……そう言う気遣いはできるんだな。だから厄介なんだが。

 花火はやがてフィナーレを迎え、観客の歓声と拍手が広がる。

 オレはようやく肩の力を抜いた。

 そして同時にオレはやり遂げた達成感に満たされていた。

 紗月と二人きりという願いこそ叶わなかったものの、悠真と二人きりの状況を作らなかった。それだけでオレの大勝利だ。



 ◆



 だが、その帰り道で事件は起きた。

 人混みから抜けた石畳の参道で、不意に足元に違和感が走った。


「――あっ」


 下駄の鼻緒がぷつりと切れた。


「千尋!? 大丈夫!?」


 転けそうになった所を紗月に助けられる。

 あぁ、なんて天使。って、今はそれどころじゃないか。

 足は痛くないけど、このままじゃ歩けない。

 そこへ背後から悠真の声。


「大丈夫? って、それじゃ歩けないか」

「だ、大丈夫! わたしは大丈夫だから!」


 無理に足を出そうとした瞬間、痛みが走る。顔が歪むのを隠せなかった。

 悠真は少しだけ苦笑して背を向けた。


「おんぶするよ」

「なっ……!」

「千尋が無理して怪我する方が困るから」


 言い切ると、当然のようにしゃがみこんだ。

 紗月は不安そうにオレを見つめる。


「千尋、お願い。今日は悠真君に甘えて」

「で、でも……」


 花火の余韻でほんのり赤い夜空の下、二人の視線にオレは観念した。

 小さな背をゆっくり預けると、悠真はすっと立ち上がる。

 

「わっ」


 急な浮遊感に思わず声が出る。思ったより安定していて、視界が高くなる。

 背中越しに伝わる温かさと、しっかりした足取り。


「千尋って軽いんだな」


 悠真の声が夏の夜の空気に溶けていった。

 オレは顔を真っ赤にしながら、必死に心の中で唱えた。

 これは作戦の一環じゃない。違う。これはただの事故。おんぶはイベントじゃない。

 違う、違う……!

 ――なのに。

 悠真の背に感じる不思議な安心感に、胸の奥がほんの少しざわついていた。

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