袖の雫
跡部佐知
袖の雫
年末の仙台駅の新幹線ホームは人でごった返していた。お泊りに必要なものを詰め込んだ背中の黒いリュックが重い。電光掲示板を見上げた。あと五分で、新幹線がホームに入って来る。
「雫石ってところで降りればいいんだよね?」
不安な気持ちを悟られないようにお父さんの顔を見る。
「そうだよ。一人で乗れるよね?もうすぐお姉ちゃんになるんだから」
「大丈夫だって」
にっと笑って見せたものの、初めて一人で新幹線に乗るわたしのドキドキはずっと止まらなかった。
「仙台の次は盛岡で、そのあとが雫石だからね。間違えないようにね」
握りしめている水色の切符には、座席番号のほかに仙台→雫石と書かれている。この切符は四千円もするらしく、失くしちゃだめだぞと念を押された。
話しているうちに赤い新幹線がやってきた。
電車に乗り込み、切符に書かれた席を探す。お父さんがとってくれたのは窓際の席だった。座っているわたしを見つけたお父さんが笑顔で手を振った。すかさず手を振り返した。新幹線が発車するとお父さんが緩やかに遠ざかっていった。心細い気持ちが急に襲う。
車内アナウンスに耳をそば立てつつ、そわそわと景色を見ていた。新幹線は高速道路よりずっと速かった。盛岡を過ぎると静かにスピードが落ちて、山や小川が風景に混じった。雪の積もったトタン屋根が立ち並ぶのどかな銀世界は、仙台とはまったく違っていた。
次は、雫石です、とアナウンスが鳴りリュックを背負って電車を降りた。雫石駅に降りたのはわたし一人だけだった。階段を上って窓口にいる駅員さんに切符を渡すと、改札の向こうでおばあちゃんが手を振っていた。
「あら、お久しぶり。大きくなったねえ」
おばあちゃんは朗らかに笑った。
「お久しぶりです。冬休みの間お世話になります」
しおらしくお辞儀をする。
「もう、そんなかしこまらなくていいのに」
「わたしもう小学三年生だから」
「まあ、もうそんなに大きくなったのね」
駅を出て、おばあちゃんと二人並んで歩いた。背伸びをすれば小柄なおばあちゃんの背を抜かせそうだった。
小志戸前と書かれた表札を見て、不思議な名前と呟くと、この町の伝統的な名字なのだと教えてくれた。お母さんの名字も子供のころは小志戸前だったそうだ。おばあちゃんの家は、仙台のマンションよりずっと広い一軒家で、年季が入っているのも昔話みたいでわくわくする。おじいちゃんは、わたしが生まれる前に亡くなったから、おばあちゃんはこの家に一人で住んでいる。
「お邪魔します」
戸を開けると、畳に使われているい草のにおいと、お味噌汁の香りがした。
「久しぶりのお客さんだからねえ、今日はご馳走だよ」
夕刻に仙台を発った不安と緊張で気づいていなかったけれど、お腹が空いていた。
「荷物はこの椅子に置いてね。手を洗ってからご飯にしますよ」
はーいとまっすぐに返事をして、洗面所で手を洗った。食卓に戻って席に着くと、おばあちゃんは何か準備をしているようだった。
「わたしも手伝うよ」
「あら、いいの?」
わたしはコップをランチョンマットの上に置き、箸置きにお箸を揃えた。料理は手伝わせてもらえなかったから、準備が終わると椅子に座り、持ってきた文庫本を読んでいた。
「ほらほら、秋刀魚も焼けたよ」
グリルの中にはきつね色に焼かれた
「ちっちゃいころから秋刀魚好きだったでしょう。それとポテトサラダも」
「なんで知ってるの?」
「昔ねえ、小学校に上がる前のころかしら。ランドセルを買ったの。たしか水色だった」
水色のランドセルは、三年間毎日背負っていたはずなのに、いつもあって当たり前のものだったから、それが誰から手渡されたのかについては気にも留めなかった。
「入学祝いに何食べたい?って聞いたら、秋刀魚って言ってね。お正月に秋刀魚を食べたの。みかんも、小岩井のぶどうジュースもまだ好きかい?」
「大好き! おいしいし、お家の冷蔵庫に必ず小岩井のぶどうジュースあるもん」
そっかそっか、と目を細めた。
ご飯、お味噌汁、ポテトサラダをお椀と小鉢によそい、おばあちゃんは秋刀魚を平皿に盛り付けた。小岩井のぶどうジュースを冷蔵庫から取り出し、テーブルの上に手際よく並べた。
「じゃあそろそろ食べましょう。冷めないうちに」
「いただきます」
二人で声を合わせて、同じご飯を食べた。
ポテトサラダはコショウが効いていて、しょっぱさの中にぴりりと辛い味がする。ハムとニンジン、そしてキュウリが入っているのもお母さんのポテトサラダと同じだった。
「おいしい?」
「おいしい。お母さんのポテトサラダと同じ味だ」
「そりゃあねえ。お母さんもわたしの娘ですから」
尾頭付きの秋刀魚に箸をつける。秋刀魚の体に沿って箸を入れながら開くと上手に半身を食べられる。半身を食べ終えたら尾びれを掴み、するすると骨を剥がす。そうすると反対側の身も綺麗に食べられる。最後に骨と頭を皿の隅に寄せれば見栄えも良く、片付けもしやすい。
「あら、だいぶ綺麗に食べるのね」
「えへへ。ありがとう」
「お母さんがちゃんと教えている証拠ね」
「わたしが頑張って覚えたの」
はいはい、と受け流されてほんの少しだけ悲しかったけれど、そんなことを忘れるくらいにご飯がおいしかった。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「よかったよかった。おいしいって言われるときが一番幸せね」
「食器片づけるの手伝うよ」
「ありがとねえ」
皿をまとめて持って行き、おばあちゃんの横に立ち、お皿を布巾で拭いていた。
いまにも事切れそうな白い蛍光灯がわたしたちを照らしていて、じゃーっと水道の水が流れる音と、布と陶器とが擦れあう音が聴こえる。雫石の夜はテレビでも点けたくなるほど静まり返っていた。
静寂に耐えかねて、何か話そうと話題を考える。
「おばあちゃんはさ」
喉元まで言葉が出かかっている。
「おばあちゃんは、一人で暮らしてて寂しくないの?」
「
「ううん、楽しいよ。ずっと。でも、おばあちゃんはもう何年も一人で暮らしてるんでしょ? わたしだったら、寂しいなって」
おばあちゃんは神妙な面持ちでお皿を洗っている。
「もう何年も生きているからね。寂しいも何もないの」
「ないの?」
「ちょっとは寂しかったのかしら。でも慣れてしまったの。長い間生きて、出会いと別れを繰り返していくうちにね。平気になってきたのかもしれない」
おばあちゃんが何を言っているのか、あまりよくわからなかった。
その日は慣れない環境にどっと疲れて、おばあちゃんの寝室に敷かれた布団でぐっすり眠った。
翌朝、目を覚ますとおばあちゃんが電話をしていたから、電話越しのお母さんと喋った。
「もしもし、おばあちゃんの家はどう? 寂しくない?」
「寂しくないし、楽しいよ。昨日はね、ポテトサラダ食べたの」
見送りに来られなかったお母さんは、とても離れたところにいるように感じる。
「雫が元気そうで安心した。ポテトサラダ大好きだものね。雫の冬休みが終わるころには赤ちゃんも生まれて退院できそうだって」
「楽しみだね。お母さんも赤ちゃんも頑張ってね」
年明けに赤ちゃんが生まれる予定で、お母さんは入院している。
おばあちゃんに受話器を渡した。本当は喋りたいことがたくさんあったけれど、お姉ちゃんになるためには我慢しようと思った。九年間、ずっと一人っ子だったわたしに念願の妹ができる。妊娠がわかって以来、お姉ちゃんになれるのを心待ちにしていた。
それから、おばあちゃんと二人、雫石で二週間くらい過ごした。大みそかの大掃除、仙台では見ないほどの地吹雪と大吹雪に雪かき。車を持っていないおばあちゃんと歩いてスーパーまで行って、袋に入った食材を抱えて帰るのはそれなりにしんどかった。
でも、静かで過ごしやすかった。何より、大きな家に二人しか住んでいないぶん、お互いについて話す時間がたくさんあった。そのおかげで、わたしはちょっとだけ物知りになって、大人に近づいていった。
おばあちゃんからは料理に洗濯に掃除も教わった。お母さんが退院したらポテトサラダを作ってあげたいと伝えると、おばあちゃんは練習に付き合ってくれた。
でも、一週間くらい経ってから、お母さんとお父さんに会いたくてたまらなくなった。ときどき電話でやりとりはしていたけれど、寂しいとか、会いたいだとかは一言も言えなかった。自分の気持ちをそのまま口にすることが幼いような気がしていた。
年が明けたころ、お父さんから妹が生まれたと電話があった。おめでとう、と伝え、名前を尋ねると、
仙台に帰る日は粉雪が舞っていた。息もくっきり白く染まるほどに寒々としていた。夕方の新幹線に乗って仙台に着けば、明日の始業式から三学期が始まる。
「おばあちゃん、二週間もいっしょにいてくれてありがとう」
「うん。気をつけて帰るのよ」
黄色い線の内側にお下がりくださいとアナウンスが鳴った。
「雫は冬休み楽しかった?」
「うん、とっても楽しかった。わたし、いろんなことができるようになったし、雫石って仙台よりも落ち着きがあって好き」
「おばあちゃんも、久々に誰かといっしょに過ごせてとっても幸せだった」
おばあちゃんはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「ちょっと、新幹線来ちゃうよ」
気恥ずかしい気持ちで胸が詰まった。
「そうね」
おばあちゃんは腕を緩めて、わたしから離れた。
「少し寂しくなるね」
「え?」
「ううん、なんでもないのよ。ほら、新幹線が来ましたよ」
券売機で買った切符を握る。窓側の席に座り、発車するまでずっと手を振りあっていた。雪道をぐんぐん進む新幹線は雪煙を上げていて、時折、窓の外が幻想的に白くなった。
新幹線の車内で、おばあちゃんと一緒に料理をした日や、わたしのためだけに好物の秋刀魚を焼いてくれた日のことなんかを思い出していた。仙台に着いたら、これまでと同じような日常が続くのか、それともまったく新しい生活が始まるのかがわからなかった。
仙台駅の新幹線ホームで待っていたのはお父さんだった。
「お父さん」
「久しぶりだね。雫」
「お母さんもお家で待ってるから、帰ろうね」
「うん」
駅隣接の駐車場に停めていたお父さんの車に乗った。助手席から、運転しているお父さんの明るい表情を見ていた。
「一人でよく頑張ったね」
「一人じゃないよ。おばあちゃんがいたから」
「寂しくなかったか?」
首を横に振った。
「お父さんは?」
「お父さんは寂しいっていうよりも忙しかったかな。仕事に、家事に、赤ちゃんのこともあったからね」
赤ちゃんのことよりも、自分の気持ちでいっぱいになっていたわたしははっとした。
「赤ちゃん、澪ちゃんは元気なの?」
「元気だよ。雫に似てとてもかわいい」
「会うのが楽しみ」
マンションに着き、駆け足で扉を開けた。
おかえり、と言うお母さんの声がした。受話器越しに聴こえる声とは全然違う生身のお母さんの声。自然と涙目になる。
「ただいま」
「久しぶりね、雫。会いたかった」
「うん、わたしも会いたかった。赤ちゃんはどこ?」
「こっち」
すやすやと寝ている赤ちゃんは、たしかにかわいい。けれど、しわしわでとてもわたしには似ていない。
「これが澪ちゃん?」
「そうよ。雫の妹の澪ちゃん」
「澪ちゃん、お姉ちゃんの雫だよ。これからよろしくね」
小さな掌に指を近づけると、反射的にきゅっと掴んでくれた。幸せな気持ちなのに、緊張もしていた。
「お母さんだよ」
二人で赤ちゃんに話しかけていると、澪ちゃんは微笑んだような気がした。
二週間ぶりに自分の部屋のベッドに入ると、自分の体躯がすっぽり収まるくぼみが心地よかった。
そして一月が終わり、あっという間に二月になった。どうやら赤ちゃんを育てるのは相当大変らしく、お父さんもお母さんもここ最近ずっと忙しそうだった。わたしは、そんな二人のためにポテトサラダとお味噌汁を作ると言うと、二人はとても喜んでくれた。
「お父さん、お母さん、これわたしが作ったの。ポテトサラダとお味噌汁です」
二人は、わたしが初めて一人で作った手料理をおいしそうに食べてくれた。
「すごいね。おいしいよ」
「ほんとね。さすがお姉ちゃん」
わたしはまんざらでもなかった。途端、澪ちゃんが泣きだして、泣き止ませるためにお母さんが席を外した。お母さんが冷めないうちに食べてと言うから、お父さんとわたしは先にご飯を食べ終えた。わたしは椅子に座って、お母さんが戻ってくるのを待っていた。澪ちゃんが泣き止んだころにはポテトサラダとお味噌汁は冷え切っていた。
「お母さん、もう冷めてるよ」
「冷めててもおいしい。雫が作ってくれたんでしょう」
お母さんは幸せそうにも、疲れているようにも見えた。
その晩、ベッドの上で考え事をしていた。両親は、妹ができてから一向にわたしにかまってくれなくなった。忙しいのはわかるけれど、寂しかった。涙が止まらなかった。お姉ちゃんなのに、赤ちゃんみたいに大粒の涙をこぼしていた。必死に声を押し殺そうとしていたはずなのに、嗚咽にも近い声が零れてどうしようもなかった。
「雫、どうしたの?」
暖色の光が部屋に差し込んできたかと思えば、お母さんがわたしの部屋に入ってきていた。
「なんでもない」
「嘘よ。寂しかったんでしょう」
「寂しくないもん、澪ちゃんのお姉ちゃんだもん」
お母さんはベッドに腰掛けて、寝ているわたしの頭を撫でた。
「昔ねえ、まだ小さかったころ、頭を撫でると雫はすぐに泣き止んだの。いまと同じですごくいい子だったのよ。ポテトサラダもおいしかった。おばあちゃんに教わったのね」
何も言えずにただしくしくと泣いていた。
「冬休みも一人でおばあちゃんのところに行って、立派よ。最近は澪ちゃんにばっかりかまっていたし」
お母さんの手の温かみが頭から伝わる。
「ずっと寂しかったのよね。ごめんね」
泣きながら頷いた。ベッドで半身を起こしたわたしを、お母さんはぎゅっと抱きしめてくれた。
「雫のことも大好きよ」
「もうお姉ちゃんだから、寂しいの我慢しなきゃなのに」
「大人でも、寂しいときはあるのよ」
声色は赤子をあやすときのように優しかった。
「え?」
涙を拭うと、お母さんが穏やかな表情をしているのがわかった。
「お母さんは雫に会えなくてずっと寂しかった。不安にさせたくなくて口には出せなかったけど。寂しいっていう素直な気持ちは悪いものじゃないのよ」
「寂しくなるのは、いいこと?」
「いいか悪いかはわからない。でもね、寂しいって気持ちは大切な人がいるから生まれるの。だからね、寂しさも大切にしていいの」
大人でも寂しくなるなんてお姉ちゃんになってもわからなかった。その夜はお母さんの胸の中で泣きながら眠った。
袖の雫 跡部佐知 @atobesachi
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