アレルゲン

手帳溶解

アレルゲン

  宇宙船での生活は退屈で、一か月もすれば娯楽は睡眠中にみる夢だけになった。特にパイロットやアドミン、コア・バランサーみたいな常に怯えたように緊張してなきゃならないクルーとは違って、俺のようなリペアラーは念の為と言って大量に雇われた単発バイトくらいやることがないのだ。一応船内には質の良いアーケードが設置されているし、ボードゲームや携帯ゲーム機の貸し出しもやっている。だが他の、顔を真っ青にしながら慌ただしく走り回っている素晴らしい学歴と経験を得てエキスパートになった人生勝ち組であるはずの彼らと、同じ量の飯を食って、同じ湯舟に浸かって、同じベッドで眠って、その上で遊び惚けていたら、自分がなんだかとんでもなく厭わしい穀潰しに思えてきて嫌になってしまう。そういう俺のちっぽけなプライドがこの栄光ある経験を、陳腐な空き時間へと貶めていた。そのうち無気力になって、飯と風呂以外で部屋の外に出ることも無くなった。俺に対する両親の笑顔よりも見慣れた工具箱には、この素晴らしい宇宙旅行の為だけに買い揃えた高性能の道具が大量に並んでいるが、使う機会は未だ訪れる気配すら見せないので、いつかの日に磨かれて放つようになった光沢が衰えもせず残っていた。勿論、それの方が良いことは分かっている。そもそも俺が仕事を全うしなければならない時というのは、決まってトラブルが起きた後で、ただでさえ顔色の悪いエリートたちが更に不安と罪悪感で顔を蒼白に染めているような状況だから、こちらとしても頗る気分が悪い。叱責されている上司を隣で見ている感じだ。だからこれは正しい状態であり、俺が暇している状態こそこの船に携わった全ての人間が望んでいるということもよく分かっている。つまりこれは、俺の潔癖症が悪い形で作用したものでしかない、自己満足という他に形容しようもない感情なのだ。


 俺は、どこから来ているのかもイマイチ分かっていない涼しい空気をこの個室の中に送り込む換気扇が発している、モーターを回す音と空気が通り抜ける音を混ぜた低いノイズを聞きながら、寝返りにあわせてしわくちゃになったボックスシーツの上に寝そべっていた。基本的には、クルー1人に部屋が一つ与えられることは無く、大体が相部屋だ。だが、俺が今外の喧騒も忘れて寛いでいるこの部屋に二人目のスペースは無く、代わりにあるのは大量の金属と俺の工具箱が無残に散らばった物置みたいな空間だった。時折、船の傾きと再現された重力で金属質の物音を立てるだけの同居人は、俺の話し相手にも眠りを妨げる迷惑野郎にもならない。ベッド、机、椅子、マット、鏡、ライト、クローゼット、金庫。この部屋を構成する大体のものは他の部屋にも同様に存在しているが、それでも他の部屋と比べるとここは明らかに数ランク下の泊まり心地だった。壁と床が無機質な鉄製なのだ。むき出しの銀色の上に、不相応なアンティーク調の家具と金属の板材の塊がある。地球の文化的なものを忘れないようにというデザイナーの配慮の手がぎりぎり届かなかったこの場所では、灰色の部屋にポツンと置かれた木製の家具が不格好で、全体的に独房みたいな冷たい感じがした。当然窓は無いから、なおさらのことだ。木製の脚が鉄製の床と上手くかみ合わず、頻繁に軋むような嫌な音がした。自室に幽閉された貴族みたいな、或いはスーツケースの中で暮らすネズミみたいな……決して住みにくいというわけではなかったが、とにかく、微妙な気分になれる場所だった。そう考えると、俺に相応しい場所だったのかもしれない。


 そういう状況、そういう部屋で過ごしていたある日、俺は起き上がれば溢れだしそうな鼻詰まりと喉を絞められるような気管の狭まりに目を覚ました。俺はベッドのすぐそばに添えられたティッシュ箱から一枚の紙を取り出しながら、ゆっくり体を起こした。この妙な息苦しさを俺は鼻詰まりのせいだと考えたのだが、たった数回かんだだけでは、鼻の穴はまったく空気を通してはくれなかった。諦めて寝ようにも、緊張か、不安か、いつもは忘れてすらいる呼吸の鈍化がいやに恐ろしく感じて眠れない。このまま意識を手放してしまえば、俺は呼吸を忘れて死んでしまうのではないか?そういう予感があった。電気をつけて少し目を眩ませた後、鼻水で少し汚れた顔を洗う為にゆっくりとベッドから降りて、金属製の床を履きなおした靴で踏んだ。瞼が重く、視界が大きく開かない。身体がまだシーツを介さない重力に慣れておらず、頭も痛いから気分が悪い。単純な疲れから来る怠さに、別の何かが乗っかったような心地だった。重い体をふらふらと両脚で支えながら、真っ暗に闇が膨らんだ廊下をゆっくりと歩く。途中で左に曲がって扉を開け、洗面台の前に立ち、蛇口を捻れば水が流れ出した。流れ落ちる水流の下に両手で浅いボウルを作って、そこに溜まった冷水を顔に叩きつけるのを数回繰り返した。脳は冴えてきたが、依然として目は開かなかった。顔を前に向けて鏡の先に居る自分の面を拝んだ時、俺はたじろいでしまった。そこにいた俺は右頬から鼻にかかった部分を、虫に刺されたような複数のできもので帯状に覆っていた。それに気づいたところで痒みが生まれることは無かったが、違和感を抱くようになってしまった。そして俺の左目の瞼がむくんだように膨らんで眼球の上に垂れ落ちていた。顔全体は病人のように青白く、但しできもののある鼻と右頬、それから目の周りをぐるっと囲んだ部分は少し赤くなっていた。異常が起きていたのは顔だけではない。半袖の服の外に出ている腕や背中、首筋にはピンクがかった蕁麻疹が出来ているのだ。俺はこれらの症状に覚えがあった、アレルギー反応だ。俺の身体が、何かに対してアレルギー反応を起こしたのだ。


 俺がこれらの異常とアレルギー反応を結び付けられたのは、たまたま友人に林檎だか蜜柑だかのアレルギーを持っている奴がいて、そいつが驚くほど自分の情報を隠そうとしない開放的な人間だったからだ。だが俺自身がそういうものを持っていることは知らなかったし、こういう症状をまとめて体験したこともない。当然それは、この宇宙船の鉄臭い物置で寝泊まりするようになってからも同じだった。一体何を、俺の身体は拒絶した?包帯の正しい巻き方すらよく分かっていない俺がその答えに気づけるわけがないが、幸いにもこの船の中には優秀な頭脳と知識を持ったエキスパートが大勢暮らしていたので、俺は是非とも彼らに解明してもらおうと考えた。一先ず医療スタッフに診てもらうことは必須の予定だとして、しかしそれまでの間をどう過ごすべきかというのが俺にとって大きな問題に感じられた。つまり、今俺がいる共用洗面所の壁掛け時計が示す午前1時15分から、彼らが目を覚まし、メディカルセンターの準備を終えてシャッターを開く午前6時までの4時間45分の時間の潰し方である。身体は異常なまでに重力に対して敏感になって重く感じる。膨らんで眼球の上に圧し掛かった左瞼も、変化のない右瞼も、僅かに頭を揺らす頭痛と共にゆっくりと下がってくる。仮にこの状況がもっと穏やかで日常的なものであったのなら、俺はベッドの上で横になって目を瞑る以外の選択肢を採らなかっただろう。だが今、俺の鋼鉄の部屋乃至ボックスシーツの乗っかったベッドには、俺の首を絞め、瞼を膨らませ、顔や首や背中に蕁麻疹を引き起こした何者かが居座っている可能性があった。次はどうなるだろうか、確か二回アレルギー反応が起こると何かまずい事態になるという話があった筈だ。ベッドには近づくべきでないとして、部屋はどうだろう。もし俺の身体がアレルギー反応を示した相手がガスとか塵とか金属だったら、ドアを開けた時点でアウトだ。防護服か何かを着て眠ればとも思ったが、この時間に服の貸し出しをやっているスタッフはいない。メディカルセンターもそうだが、大体このくらいの時間になると働くスタッフの数は最小限とまではいかないもののかなり減らされる。たしか一面真っ暗な宇宙空間でも地球時間を大事にするためにできるだけ多くのクルーにその生活リズムを守ってもらうだとか、重要な操作や方針決定を大人数で行うために活動できる時間を合わせているだとか、そういう変な理屈があったと思う。だから夜間(もっとも、ここは地球の外なので昼夜の概念は存在しない筈だが)は緊急時に手動操作をするパイロット2名と、そのパイロットを支える様々な分野のスタッフ数名が近くの部屋にまとまって過ごしている。但し、リペアラーとコックはこの時間まで起きている必要がないらしい。コックは小腹を満たすための簡単な食事を自動的に作る機械が、リペアラーは宇宙船の素材に埋め込まれたナノマシンが、その代役を担ってくれる。特に俺たちリペアラーは大砲で壁をぶち抜かれるようなとんでもない被害に遭わない限り基本的にナノマシン任せだ。だから俺がこの時間まで起きていても仕事はないし、むしろ邪魔になる。勿論彼らはお願いをされれば笑顔一つ崩さずに診断や衣服貸し出しをやってくれるだろうが、そんなことになったらいよいよ彼らは心の中で遂に俺のことを怠け者の恥知らずと認定するだろうし、満身創痍ではあるものの搭乗員として最低限に存在した俺の名誉も宇宙の彼方へ消え去ってしまうだろう。よって、誰かに手間を取らせるような行動はしたくない。暫く悩んでみたところで、四時間を使い切れるほどの素晴らしいアイデアが浮かび上がることは無かった。とりあえず、俺は風呂に入ろうと考えた。そうすれば、多少なりとも俺の身体に纏わりついた正体不明のアレルゲンを洗い流せるのではないかと思ったのだ。


 風呂場は脱衣室を挟んで洗面所の隣にある。俺は数十分を費やしてシャワーを浴び、身体を拭き、新しい服に着替えた。結局俺の身体に纏わりついた得体のしれないものを取り除くことができたかどうかは分からないが、少なくとも粘りつく寝汗の不快感は綺麗さっぱり無くなった。その上当たり前だが、こんな夜遅くにシャワーを浴びる者は他にいないので、いつもより快適に身体を洗うことができて気分が良かった。できることなら、このまま自室に戻らないでいたいと思えるほどだ。たった一晩で俺に汚らわしい印象を植え付けた、立ち入った者を毒するあの汚染された密室空間に、わざわざ清めたこの身体をもう一度浸すことは、俺にとって最も避けるべき行為の一つとなっていた。だが、他に何をすべきか分からなかった。誰の邪魔にもならず、あの部屋に戻らず、残りの数時間を一体どう過ごしたら良いのか。この宇宙船のセキュリティは万全だ、恐ろしいほどに慎重で神経質な専門家が普段ではあり得ないほど自信を持ってそう明言していた。確かにこの宇宙船にはそれなりに技術や経験を積んだ者が大勢いるが、船員は大きく2つのグループに分けられる。厳然たる試験や評価によって極限まで狭められた門をくぐり抜けた選りすぐりのパイロットやデータアドミンのようなこの船の中枢を任される奴らと、ある程度の経験や知識による足切りととびきりの運の良さだけで雑多に選ばれた俺やコック、クリーンスタッフのような雑務を任される奴らだ。宇宙船内にわざわざ緻密で複雑怪奇なタイムセキュリティシステムと大量のアナログキーを導入したのは、当然後者への警戒からだ。殺人、レイプ、窃盗、傷害、いつの時代にもあったそういうクソは追い詰められた人間を乗っ取ってしまう。万が一にもクルーの誰かがヘマをやらかしてこの宇宙船がただのスペースデブリになった時、笑顔と信用で出来た化けの皮が剥がれて野蛮な猿の如く牙を剥くのはどうせ俺たちの中の誰かだろう。犯罪や暴力など、この船でゾンビのような面でハンドルだのマウスだのを握っているエリートたちには縁の無いものだ。そういうわけで犯罪者として僅かに警戒されているノンエリート筆頭である俺が、パルダリウムに吊るされた人工太陽もただの黒い球になっているようなド深夜に廊下をふらふら出歩くのはあまりよろしくない。眠れない夜の気分転換だと思われるよりも、工具やら鉄板やらで誰かのドタマをかち割る為の下調べ中だと疑われる可能性の方が遥かに高いのだ。ハイクオリティのアーケードゲームも、貸し出されるテレビゲームも、こんな真夜中まで電気を入れっぱなしにしておくほど重要な設備ではないし、携帯ゲーム機やボードゲームをやるにしてもリラックスできる部屋が必要な上、そもそも無人貸出機やボードゲーム棚があるのはロビーだ。ロビーやらキッチンやらは当然例のタイムセキュリティでシャッターが下りている。行ける場所は個人用の部屋が沢山並んでいる廊下か、夜勤のパイロットらが行き来するコックピット周辺しかない。トイレは駄目だ、排便以外の為に長時間居座っているとアラームが鳴って追い出される。そうなるとやはりあの金属の部屋しかないのだろう。それに、もしかしたら二度目は無いかもしれないし、あったとしても二度目ならある程度医療スタッフの世話になる言い訳として通用する筈だ。そういう頼りない言い訳を頭の中に抱え込みながら、俺は肉体的にも精神的にも重く鈍い身体をゆっくりと動かして廊下へ踏み出した。


 しかし、本当に他の選択肢は存在しないのか。俺に与えられた行動限界はそこまで余地のないものだったか。俺は扉の前で腕を組み、目を閉じていた。すぐ目の前、少し腕を伸ばせば届く位置にあるドアノブを掴むまでの猶予をできるだけ引き延ばすべく、不毛な問答を脳内で何度も反復しては全く何の利益も齎さない空しい結論を量産し続けた。しかしよく考えてみれば、影に染まった廊下の中で大柄の男が自分の部屋の前で立ち往生しているという状況は、事情を知らない者からしてみればあまりに無気味で、あらぬことを疑われかねないものではないか。それに、俺はこういう判断はなるべく速い方が良く、優柔不断は最も酷い結果に繋がりやすいということを知っていた。俺は扉の向こうに待つ何かとの邂逅を観念して、ドアノブを掴み、捻った。一拍置いてドアノブのロックが外れ、ゆっくりと扉の隙間から広がるライトの光を睨んだ。扉の先には一か月間過ごしてきて見慣れたいつも通りの部屋があった。くしゃくしゃのベッド、少し斜めにズレた机、荷物の載った椅子、散らかったごみとマット、鏡、ライト、半開きのクローゼット、金庫、全く変化の無い工具箱、それから物言わぬ鉄製の相棒。一度用を足す為に5分ほど外に出たような、どこまでも日常の流れの中にしかないような、俺の抱いていた印象や臆病な考察とは対照的な普通の光景があった。俺は安堵のため息を吐いて、堂々と、何事もなかったかのようにベッドに近付いた。部屋を出る時から無意識に羽織っていた上着をベッドの傍の適当な所へ放って、俺はやや高さのあるボックスシーツに滑り込んだ。布団はすっかり冷たくなっていたが、シャワーを浴びて火照った俺自身の体温でじきに温まるだろう。俺はベッド傍のスイッチに指を伸ばし、ライトを消し、外気で少し冷えた腕も布団の中に引っ込めてから目を閉じた。案外、人間の肉体というのは気紛れで発作を起こすのかもしれない。つまり俺の身体が拒絶した何かが存在するわけではなく、何か特殊な、例えば磁場だとか湿度だとか重力だとか、そういう俺の知識や視野では決して理解することのできない専門的な分野に属する要因に、運悪く俺の肉体が蹂躙されただけなのだろう。だから、特別に何か行動を起こすべきものでも無かったのだ。!?俺はベッドから飛び退き、床に尻もちをつく。両手両足をバタバタと動かしてベッドから、そしてこの穢れた部屋から距離を取ろうとした。だが、できなかった。俺がベッドから転げ落ちた時、視線がその下へ向いてしまった。目線があってしまったんだ。8つ、3つ、1つ、2つ、それが白いシーツの下で蠢いた。最悪が俺を見て、ほくそ笑んだ。


 クソったれ!俺は地面を蹴り飛ばして廊下に身体を放り投げた。地面に崩れた身体を無理やり転がすようにして廊下を駆け出す。逃げる場所にアテはない。アレの正体も知らない。俺はベッド下に潜んでいたあの化け物のことが何も分からなかった。いつから?どこから?そもそもあれは一体なんだ?一歩先すら闇に包まれた廊下を全力で走り続けながら、この道の終わりがタイムセキュリティの為に閉じられたシャッターであることを思い出す。畜生、最悪だ。俺は今もなお理解も納得もないまま走っている。足音はしないが、背後にあのクソが迫ってきているような気がして止まれない。ただでさえ疲れて怠いというのに、どうして俺はこんな地獄にいるんだ?知らねえよ、走れ、速く走れ!俺は随分長いことやっていなかった全力疾走というものに、予想外に翻弄されていた。バラバラに息が散って、ただ苦しさだけが断続的に強まるだけのクソ時間。鋼鉄の廊下を、ポイ捨てするような恥知らずがいないから無駄に清潔な廊下を、金属を叩く俺の煩い足音だけが抜けていく。前身の毛穴から、嫌な汗が噴き出る。走りながら拭おうかとも思ったが、それが致命的な失敗に繋がりそうでやめた。そうだ、このままで良い。余計で下手なことをしないで失敗したのなら、初めからそういう運命でしかなかったのだと観念できる。それにまだ、シャッターがこの時間に閉まっていることは確定事項じゃない。どこかの哲学者だか物理学者だかが言っていた猫の理論を信じるなら、俺が今馬鹿みたいに突っ走っている暗闇の向こうにはまだ閉じていないシャッターも存在するというわけだ。あのクソ捻くれていてビビリなセキュリティの大層な先生方の作った数学の問題とかプログラムみたいに複雑なスケジュールに偶然穴が開いている可能性や、多忙の疲れで寝惚けたエンジニアがうっかり仕事を忘れている可能性だって存在するはずだ。誰かの失敗を信じるというのはクソ野郎に堕ちたみたいな罪悪感のあることだったが、あの化け物に捕まった末路を想像するよりは遥かに有意義で気分もマシだった。あれが人間を恐れたり、親しい友人のように接してくれる訳がないと、俺は断言できる。部屋を真っ暗にして寝る性格だった為に、俺はベッド下で俺を睨んでいた怪物を拝まずに済んだが、朧げにそのでかさと奇怪な輪郭を知ることはできた。そのとき確かに、人間が抱く本能的な恐怖が、俺の内側から泡立つように吹き上がったのだ。遠く離れて1か月が過ぎた緑色の土くれと水の惑星には決して存在し得ないと断言できる、自然法則や進化論では説明できないものであり、神話や宗教においては如何なる寓意的意味も内包できないものだった。あの星に存在してはならない、何かぞっとさせる要素を纏い、人間のルールと論理の上に成り立つ言語では決して形容することさえできない怪物が、俺のとっ散らかった狭い現実の中にいた。あれが、人間の理解する行動をとるとは思えなかった。だから俺はクソみたいな確率の期待を抱きながら、死に場所になるかもしれない場所を目指して走り続けた。諦めようとする自分に命乞いのような言い訳を脳の片隅に残して、がむしゃらに足を動かし続けたのだ。いつかは、けれども、もしかしたら、運が良ければ。そして俺は、とうとう廊下の端に辿り着いた。


 白く波打ったクソったれのシャッターだけが、死にかけの俺と俺の哀れな犠牲者としての運命から選ばれたエリート共の住まうエデンを守るように聳え立っていた。息切れをぶち破るようにありったけの掠れた罵倒を鋼鉄の壁に叩きつける、被食動物の足掻きみたいにちっぽけな力で蹴る、殴る、殴る。もはや逃げ道はない、逃げることは出来ない。脚が勝手に役目を終えたみたいに弱り果て、俺は冷たいシャッターへ縋りつくようにして崩れ落ちた。そのまま一人で死ね、シャッターの向こうで誰かが言ったような気がした。俺は何の救いも齎しはしないだろう壁の前に跪き、ただ祈った。シャッターの向こうにいる薄情者と、だいぶ遠くまで離れてしまった青い惑星の唯一神へ祈った。神よ、愛する母性から遠く離れたこの希望と冷酷の箱の中に、どうか暖かな光を与えたまえ。それを繰り返した。何もなかった。クソ脚本の安いドラマみたいにご都合展開の神様が俺にCG加工された翼を差し出すことも無ければ、唐突に俺の薄汚い色の髪の毛が金ピカに光って超人的な力を手にすることも無い。だが、化け物も来ない、シャッターも開かない。クソ丁寧に唱えた即興の祈りも、暇でついにイカれた馬鹿の独り言以上の価値を宿すことは無かった。俺はこの宇宙の中で何もかもから見捨てられた気がして、惨めになった。口から荒い息だけを吐きながらシャッターに背を向けて座り込んでみると、自分の通ってきた道がどれだけ暗い場所だったのか気が付いた。暗闇を睨み続けていれば、ぼんやりと通路の輪郭が見えたが、それだけだった。あの理解できない恐怖を纏った邪悪の塊はどこにもいなかった。1秒、2秒、3秒、深呼吸を繰り返しながら秒数をカウントする。クソみたいな時間を30秒ほどカウントしながら待ってみたが、何も来ない。見逃されたか、撒いたか、それとも初めからいなかったのか。俺はシャッターを背中で押し上げるようにしながらゆっくりと立ち上がった。初めからいなかったっていうのはあり得るのか、俺が見たものは錯覚だったのか?瞬きをして、口角をゆっくりと上げて嫌に細かい牙の生え揃った口内を僅かに覗かせたあのクソ巨体は俺の空想の産物でしかなかったのか?そうだ、そうじゃないか。俺はあれの正面で転がっていた球状の光沢を視覚器の一種であると確信していたが、生物学のセの字も知らない俺があの化け物の分析で一体何の知識を基にしたんだ??俺が見たのは真っ黒な奴の輪郭だけのはずだ。果たして本当に俺は怪物を見たのだろうか。あまりにも滑稽で思わず笑ってしまえるオチ。なんだ、こんな拍子抜けな正体だったのか!実にシンプルな事実だけが俺の自室にあったに違いない。俺がこの漆黒の霧の中で体験した全ての恐怖は、誰でもないこの俺自身によって生み出された病的な見間違いによる悪戯で、認めるべき現実はアレルギー症状のただ一つであるという事実だけが。ようやくそいつは、何もかも馬鹿らしいお笑いになった。そして俺は笑ってやった!クソ、クソったれ、俺を脅かしただけのクソ時間が!俺はすっきりして、残りの数時間を寝て過ごす為に来た道を戻ることにした。首筋に何か冷たいものが滴り、そこから不快感と掻痒感が広がった。首筋を触るとブツブツしていたし、首筋を触った俺の手も一瞬でブツブツになった。暗闇に慣れた目が、ぶくぶくと膨らんだ俺の手を捉えた。それから、俺は天井を見た。


「ああ、クソ、最低だ、ホントに」


アレルゲン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アレルゲン 手帳溶解 @tatarimizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画