#6 人類の白日と天使の使命

ボクには生きている意味なんて無かった。厳密に言うと、生きている事そのものが生きる意味なのだが、別に死んだって他人にその『意味』が引き継がれるだけだ。それでも生きている限り一日はやって来る。だから、ボクはとっくの昔に考えるのをやめていた。意味がない事を楽しもうと、変化がない事を楽しもうとした。


毎朝同じ時間に目が覚める。やることなんてないんだから何時までだって寝ててもいいんだけれど、同じ時間に起きて、同じことをやるのが楽しくて仕方がなかったんだ。辛く悲しいことがあっても、同じような毎日を過ごしていれば、きっといつかは風化してくれる。だからボクは今日も一日、いつもと同じように過ごすつもりだった。


その日も、起きたらまずはコーヒーを入れる。天使でない人間の子供は、苦いからとその黒い飲み物を嫌う輩が多いけれど、どういう訳か、子供の頃からコーヒーを好む天使は多い。まあ、何時まで経っても子供舌な天使の事も、ボクは知っているけどね。


ドリップ中、他の朝食も用意する。パンと、サラダと、目玉焼き。それにチーズとベーコンもつければいつものボクの朝食だ。用意が終わった頃にはカップ一杯分のコーヒーが溜まっている。真っ白な食器に供されたそれらは見ているだけでも美しい。さあ、今日も楽しく朝食を食べよう。まずは眠気覚ましにと、コーヒーカップに手を伸ばした瞬間だった。


ピンポーン、とチャイムの音が鳴った。


無視だ無視。こんな朝早くからやって来て、人の朝食の邪魔する奴なんて、相手をする必要ないね。構わずパンを齧っていると、おい、ベル。起きているんだろう。なんて聞こえてくる。


しまったなぁ。面倒くさい奴がやって来たもんだ。アイツ、出るまで絶対家の前に居座って、何度だってボクの名前を呼んでくるんだ。そんなことされたらうるさくてうるさくて敵わない。折角の楽しい朝食が台無しになってしまうじゃないか。仕方ない、少しばかり相手をしてやるか。


「朝っぱらから騒々しいね。何の用だい、ルキ。」


ドアは開けてやらない。朝一番から他人の顔なんて見たくもない。疲れるだけだ。


「話があるんだ。開けてくれないか、ベル。」


「ボクの朝のルーティーンは知っているだろう?それを中断してまでキミの相手をしてやっているんだ。この上顔を見せろだなんて、随分と自分勝手だね。まあ、ボクと違って大忙しなルキ君には、暇人の戯れについて酌量する義理なんてないのかもしれないが。」


アイツも大して忙しくない事なんて知ってはいるが、わざと皮肉を言ってやる。ああ、早く帰ってほしい。


「邪険にしないでくれ。大事な話なんだ。」


アイツが大事じゃない話なんてしたことは無い。もっとも、アイツにとってだが。ボクにとってはどうでもいい話ばかりだった。


「ボクにとって、この時間に食べる朝食よりも大事な話ってなんだい?」


真剣そうな口調でアイツは言った。


「天使の今後についてだ。俺はもう、エナ君みたいな犠牲者を出したくない。」


……ずるいなぁ。大事な大事な妹を引き合いに出されれば、ボクにはこのドアを開ける以外の選択肢なんて、なくなってしまうじゃあないか。


「朝食、まだなんだろう。話のついでだ、食べていけよ。しょうがないから用意してやる。」


「助かる。今日は夜まで何も食べられないと思っていたんだ。」


いつも通りでない行動をするのは、何年振りだろうか。そんな事を考えながら、ボクの分のそれと同じ朝食を用意する。それこそ栄養価以外のことは何も考えていなさそうなペーストでも平気で食べるコイツには勿体ない話だが、例え他の奴に食べさせるものだとしても、食べ物について妥協するのはボクの主義に反する。


「どうぞ。食べ盛りの男には足りないかもしれないけどね。」


当然皮肉だ。コイツは量も質も食べ物について拘りなんて全くないんだから。


「いやいや、こんな素晴らしい朝食を食べるのは久しぶりだ。毎朝、こんないいものを食べてるのか?」


「それはボクが毎朝ちゃんと手間暇かけて朝食を作るくらい暇だってバカにしているのかい?お生憎だけど、前日に調達した物を出しているだけで、五分と掛かってないよ。」


そりゃあキミよりはいいものを食べているがと皮肉を返したら、折角褒めたのに、マイナスに捉えられてしまったと思ってか、ルキがしょぼくれた顔をしている。ああ、面倒くさい。


「……わざわざボクの皮肉を真正面から捉える必要ないって、分かっててしょぼくれてるだろう。」


「ああ、こうすれば根はいい奴のお前が慌てふためく顔が見られるからな。」


これだから、この男は嫌いなんだ。


「妹を山車にしてまで何を話したかったのかと思えば、こんなしょうもない話かい?罵倒して欲しいならいくらでもしてやるからさ、さっさと食べて、出て行ってくれないか。」


「いや、大事な話をしに来たと言っただろう。」


瞬間、ルキの顔が真剣になる。


「大事な話、ね。まさか、妹を無くして傷心の女を口説きに来たわけじゃないだろうね?」


余りに真剣な顔を見て、思ってもみない冗談を言う。ルキは全く表情を変えない。ボクの目だけを見つめたまま、黙っていた。


「真剣なのは分かった。じゃあ、くだらない話をしていないで、さっさとその大事な話とやらを言う事だね。」


「ああ。……俺は人類を、そして天使を救いたいんだ。」


「真面目に聞こうとして損した。さっさと帰れ。」


コイツはいつもこうだ。真面目な顔して、こんな訳の分からない事をのたまう。正義感があるのは結構な事だが、与太話に付き合わされる方の身にもなってほしい。


「真剣なんだ!やり方も考えた!コンピュータにも認められた!後は天使達の協力が必要なんだ!特にベル、君の力はどうしても必要なんだ!」


真剣な顔をしているからこそ、余計に腹が立つ。


「うるさいうるさい。こう見えてもボクは妹の死に深く傷ついているんだ。いつも通りの正義感に任せた馬鹿な妄想を聞いてる余裕はない!帰れ!」


余裕がないのは本当だ。こうして馬鹿の相手をしている間にも、エナの顔を思い出して、泣いてしまいそうで仕方がない。


「俺が呼び出さなければ君の妹は死ななかった!俺のせいだ!だから真剣なんだ!もうエナ君のような犠牲は出したくない。だからコンピュータに話を通した!もう止まれないんだ!頼む、話を……。」


パァンと、はじけるような音がした。


音源は、私の右手と奴の頬だ。ぶん殴ってやった。人を思いっきり殴るなんて、何時振りだろう。こんなに手が痛くなるんだっけ。そんな場違いな感想を抱く。目からは涙が零れてしまっていた。エナが死んだ後、ずっと堪えていた物が溢れ出してしまった。この馬鹿の前で涙を見せてしまうなんて、屈辱だ。屈辱がまた涙を誘い、痛みと悲しみでうずくまっていると、奴はまた起き上がり、私を落ち着かせようと背中を撫でる。こんなので、実際に少し落ち着いてしまった私自身にもムカつく。私が落ち着いたとみるや、ルキの奴は「本当に真剣なんだ。頼むから話を聞いてくれ」なんて抜かす。いい加減コイツとのやり取りも疲れてきた。


「そこまでいうなら、ちゃんと話を聞いてあげよう。最後までね。ただし――」


軽蔑か、悪意か。あるいは諦めか。複雑な感情を乗せてこう続けた。


「ただし、ボクを納得させる事が出来ないなら。二度とボクたち姉妹の前に顔を出すなよ。僕の前にも、妹の眠る場所にもだ。」


「ありがとう。」


二度と顔を出すなだなんて言われているのに、ありがとうは無いだろうよ。でもコイツは、心底感謝したような面持ちで話を始めた。


「さっきも言った通り、俺は人類と天使を救いたい。君の妹のような、他人の悪意によって殺される天使は毎年十数人は居る。俺は、それを無くしたい。」


「無理な話だろう。」


本心だ。そんなものの為に殺された妹が不憫でならないが、実際問題無くすことは出来ない。ボクはそう考えていた。


「天使を殺す人間は、彼らの嫉妬や恨みによって生まれる。自分達よりも恵まれた天使達の存在が、自分達を不幸にした天使達の存在が、彼らを狂わせる。だが、その格差は今の社会の根幹を支えているんだ。天使を産みたいから子供を多数産む。子供が多数生まれるからより多くの知識が社会に蓄えられていく。社会に蓄えられた知識を、天使達が継承する。一つでも欠けてみろ。人類はきっと、天使が生まれる前まで後退するぞ。そして、はらわたが煮えくり返る思いだが、世界に個人としての天使は重要ではない。死んだところで、またそいつの知識を持った天使が生まれてくるからだ。コンピュータだってそんなことは分かっているだろう。ボク達以上にな。キミがコンピュータに話を通したというのがまず信じられない。」


「俺は天使を皆殺しにすれば、皆の子供が天使となる確率が上がると世間に伝え、俺の手で天使を殺して回ると脅した。そうやって、コンピュータに話を聞かせて要求を飲ませた。」


「キミは……おかしくなってしまったのか?正気の沙汰とは思えない。もしコンピュータが話を聞かなかったら、どうするつもりだったんだ。」


「その時は、本当に天使を殺して回るつもりだった。」


背筋に寒気を感じる。この男と一緒に居るのが怖くなってきた。だが、逃げようとすればどんな目にあわされるだろうか。もう、ボクにはこの男の話を最後まで聞く以外の道はない。


「おかしくなってしまった――君の言った通りかもしれない。俺の中に遺された過去の法律家たちが、あるいは法そのものが、こんな世の中を許すなと叫ぶんだ。こんな感覚は、初めてだ。」


「……それで、コンピュータにどんな話を飲ませたんだ。」


一秒でも早く話を終わらせたい。もう、話を脱線させたくない。必死で話を主題に戻す。


「コンピュータには、神になってもらう。」


神。ボク達に知識を残した彼らか?いや、おかしい。彼らはボク達にとって、最初からいるものだ。後からなってもらうものではない。なら、どういうことだ?そこで、以前妹に頼まれて、読んでいた古典の記載を思い出した。ああ、旧文明の世界で信仰されていた存在か。かつて信仰されていた彼らは、偉大なる分裂の後、暫くまでは概念としては知られていた。だが、天使達が生まれ始めてからのその言葉は、天使に知識を授ける者達と結ばれ、以前の意味は失われていた。


「そんなものになってもらって、どうするのさ。」


「コンピュータを神とした上で、天使達をその神の使徒として再定義する。」


何を考えているんだ。確かに格差が存在するのは重要だと言ったが、今よりも広げてどうしようというのか。


「そんなことをすれば、ますます天使達の立場は上がる。もっと、こんな、悲惨な事件が増加しかねない。」


「いいや、信仰で人を縛るんだ。信仰は倫理を作り、人間は倫理に則って行動する。今、天使の距離は人間に近すぎる。近すぎるから、人間は天使を殺す。余りにも遠く離れた存在になってみろ。刃を向けるのも憚られに違いない。」


正直、全く納得がいかない。今の世界で、基本的に人類は平等だ。そもそも感覚的に彼の言う事の正しさを理解できない。


「キミの言う事が正しいとは思えない。だが、間違っているとも断定できないから一旦は置いておこう。どうやって再定義なんて行うつもりだい?」


「天使に新たな使命を与えるんだ。人類を救えと。親の暖かさを知らない人々の親となる。友の居ない者の友となる。困っている人を助ける。そうやって人を救うことを、使命を終わらせた天使の新たな使命にする。」


ボクが黙っているのを見て、ルキは続ける。


「そして、善行を積んだ人間は来世で天使に生まれ変われるという情報を流す。そうすれば、きっと人々は善行を積んでくれるはずだ。」


ちょっと待てよ。ボクは声を上げる。


「天使に生まれてくる人間は、完全にランダムだ。そもそも天使の存在が人類にとって不平等ではあるが、それでもなるべく公平を期す為にそうなっている。私達のような姉妹や兄弟、あるいは親子で天使になる事もないではないが、それもランダムであるが故だ。コンピュータですら操作は出来ない。キミは、世間に嘘を流すつもりか。」


間違っているぞ、ルキはそう言った。


「天使とは、あくまで知識の継承体だ。知識の持ち主の転生体ではない。誰にも分からないだけで、あるいは俺の言う通り、善行を積んだ人間が誰かの知識を持って、天使として生まれ変わるのかもしれない。」


詭弁だろう、それは。確かに、本当に嘘かどうかなんて誰にも確かめようがないが。


「まあ、やりたい事は分かった。……ボクが必要だという理由も。」


ボクは、統率、扇動、アジテーション、プロパガンダ。そういったものの知識を引き継いでいる。今のこの世界にそんなものは必要ない。人間が社会にとって必要ないからだ。人間が社会を動かしていたが為にそれらが劇的な効果を発揮したであろう時代とは違い、無用の長物である。知識の維持だけを使命とした毎日は、暇で暇で仕方が無かった。同じ毎日を過ごしていたのは、ある種の諦めだったと言えるだろう。


「そうだ。君に協力して貰えれば、遥かに効率的に計画を進める事が出来る。勿論、この計画はまだ概要しか決まっていない。様々な知識を持つ天使達に協力してもらい、もっと計画を具体的に練っていく必要があるだろう。だが、最も重要なのは君だ。」


正直、揺らいでいた。持っている事だけが価値であり、使うことなど一生無いと思っていた知識が役に立つかもしれない。しかも、この知識で妹のような犠牲をこれ以上生み出さないようにする事が出来るかもしれない。それでも、どうしても彼の言っている事が正しいと確信できなかった。だから――


「キミの言っている事が正しいかは分からない。ボクはまだ、毎年数人の天使が殺されるとしても、この停滞を続けた方がいいんじゃないかと思っている。でも、もしボクが間違っているというのなら。キミが正しいというのなら。……ボクをこの停滞した部屋から連れ出してくれ。」


ルキはボクの手を引き、駆け出して行った。おい、せめて朝食を食べてからにしてくれというボクの言葉を、アイツは完全に無視していた。しばらくは栄養ペースト生活だろうか。どうなるんだろう、分からない。分からないが、一つだけ分かっている事があった。


それは、ボクももう、止まれないということだ。

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