裏切りは墓場まで-新選送葬-

弓束しげる

悪夢のような

 むせ返るような血と臓物の生臭さが場を満たし、まさに地獄を見ているようだった。


「は……?」


 薄暗い、石壁に囲まれた空き倉庫の中――新選組隊士である中島のぼりは、動きを忘れ、呼吸を忘れ、瞬きも忘れて立ち尽くした。


 視線の先。登と同じ漆黒の西洋式軍服に身を包んだ心友が、赤黒い池の中心で茫然と膝をつき、虚空を仰いでいた。桶でひっかぶせられたように、前面全身が血で染まっている。顔も、胸も、腹も、腕も。そして力なく膝に乗せられた手には、同じく血に濡れた脇差が握られていて、粘った赤がつたり、つたりと切っ先から垂れ落ちていた。


 登が固まっていたのは、わずか数拍の間だったろう。


 が、丸一日は棒立ちになっていたのではと思う疲労感が、不意にどっとのし掛かってきた時。登の耳に、背中を駆ける潮風の音が触れた。忘れていた戦真っ只中の喧騒が――銃声と砲声と怒号が、どこか遠く戻ってくる。


 箱館、弁天台場。箱館市中を外敵から守るため海に突出して建築された、外周に砲台が並ぶ歪な六角形の高台。その台下の、弓形を象った出入り口の対角線上にある、十畳ほどで区切られた、本来なら誰もいないはずの空き倉庫の中。


 五月も半ばに差し掛かり、動けば汗ばむ陽気となった箱館の風が、登の背にした入り口から渦を巻いて吹き込んでくる。生ぬるい風が、糞尿と吐しゃ物と汚泥を全部かき混ぜたような生臭さを煽る。そうして高く結った登の総髪と鉢金の紐をかき乱し、煤と土に汚れた頬を、いやに優しく撫でていった。


「っ、……お前、それ、な、にが」


 込み上げた吐き気を誤魔化すように息を止め、それから登は掠れた声を絞り出した。


「何が、なんで……なァ、何……ッ」


 喘ぐように問い、震えて砕けそうになる膝を叱咤し、足を踏み出す。ふらふらと覚束ない動きで、それでも一歩一歩、心友の元へ向かう。


 否。心友の、膝元に投げ出されているモノの元へ、向かう。


 女だったモノが、そこに倒れていた。首に、胸に、腹に、全身にいくつもの刀傷を負い、臓物すら垂れ出ている、女だったモノ。


 潮風に少し傷み、それでも美しかったやわらかく癖のある髪が、べったり赤黒さに浸されて無造作に広がっていた。ちぎれた袂の隙間から覗く腕は、かつての瑞々しさが嘘だったみたいに、血の気を失くして横たわっている。そしていつも登を見る時、少女のように輝いていた瞳は、暗く、昏く――……


「あ、あぁッ」


 女の元に辿り着いた登は、堪えきれない嗚咽を漏らして膝をついた。粘ついた湿り気が膝を濡らし、沁みてくる。力の失せた冷たい細首を抱き、胸に抱え、慟哭する。


 ――不意に、それまで微動だにしなかった心友が、登の隣で、もそりと首を曲げた。


「中島……土方さんが、敵に……獲られてしまった。消えてしまった」


 心ここに在らずといった茫然自失の、しかし、どこか澄んだような声音だった。


「すまない、中島。守れなかった」

「相馬、お前、何……ッ、なん、で」


 意味がわからなかった。背筋が寒くなった。


 絶望と混乱が一気に押し寄せて、思考を狂わせる。


 顔を上げれば、滲んでぼやけた視界の先、心友の――相馬主殿とのもの瞳と、視線が合う。


 揺れて濡れそぼった登の目とは対照に、全身真っ赤で容貌すらまともに判別できない有様の相馬の目は、随分と乾いて、ただ仄暗く濁り、澱んでいた。




 それは明治二年、旧暦五月十一日の、箱館。


 御一新、最後の戦――箱館戦争終結、七日前のこと。


 そして日の本最後の武士集団たる新選組を率いていた、土方歳三が落命した日のこと。




 中島登はその日、敬愛する朋友と、無二の心友、そして妻となるはずだった女と数月後に生まれるはずだった己の子、すべてを――たった一日で、奪われてしまった。

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