第3話 微睡の影に揺れる追憶
夏はもう思い出せないほど遠く、王都はすっかり秋の匂いに包まれていた。
午后の陽は柔らかく、木々の影は長く伸び、風が街路樹の葉をさらさらと鳴らしていく。
王都南通りの並びの中に、静かに佇む一軒の道具店
── 《 ミファリリシア道具店 》
扉に吊るされたドアベルが、風に揺れてかすかに鳴る。
通りを歩く人々の足音と、遠くの鍛冶場から聞こえる金属音が、穏やかな午後を彩っていた。
シアはカウンターの上に並べた瓶の蓋を確かめ、在庫帳に印をつけていた。
「……よし。これで大丈夫」
軽く息を吐き、手を止める。
今日は午後から外出の予定があった。
オルディンからの大切な依頼。
それを届けるため、錬成術士のもとを訪ねるのだ。
エプロンを外し、身だしなみを整える。
お店を母と父に頼む。
扉を開けると、風が頬を撫でた。
街の通りは、少しずつ人の流れが穏やかになっていた。
露店の店主たちは木箱を片付け、子供たちの笑い声が夕陽の色に混じって消えていく。
「……いい風」
そう呟いて、シアは歩き出した。
* * *
王都の外れ── 穏やかな風が流れる並木道の先に、立派な石造りの建物が佇んでいる。
外壁には古代語の装飾が施され、重厚な鉄の門の向こうには、魔導灯がいくつも灯っていた。
その建物こそ、王都でも指折りの錬成術士、≪ エルドリクの工房 ≫である。
広い敷地には大小の温室や倉庫が並び、どの屋根からも魔力の淡い光が漏れていた。
繁盛の匂いがする── だが、それ以上に、どこか張り詰めた冷ややかさを感じさせる空気でもあった。
石壁に囲まれた広い敷地の中から、音ではない“何か”が響いていた。
魔力が動くたび、空気が微かに揺れ、瓶の中で泡が弾ける。
それは鍛冶場の轟きではなく、魔法が息づく音―― 錬成術士の世界の鼓動だった。
基本的な依頼であれば、古くからの友人でもある錬成術士セレムに頼んでいる。
けれど、特別に慎重を期す依頼のときは、王都でも指折りの錬成術士―― エルドリクに任せることにしている。
今日もまた、エルドリクならきっと完璧に仕上げてくれるだろう。
シアは工房の前で小さく息を整え、扉を叩いた。
「失礼します。ミファリリシア道具店のシアです」
中から、くぐもった声が返ってきた。
「……ああ、シアか、入れ。」
低く落ち着いた声。
扉を開けると、空気が変わる。
香草油の匂い、鉄と薬液の刺激的な香り。
そして何より── 魔力の揺らぎが音になっていた。
彼の世界に、ひととき足を踏み入れた気がした。
扉の向こうに立っていたのは、五十代半ばの男、エルドリクだった。
黒髪には銀が混じり、眼差しは以前より鋭さを増している。
エルドリクは“私に作れぬものはない”と豪語する。
誇り高さは、頑固さでもあり、それでいて職人としての信念でもある。
その表情は、シアが幼いころに見た“情熱に満ちた職人”とは違い、
今はむしろ、冷徹な自信と誇りをまとっていた。
「エルドリクさん、また、大切な依頼をお願いしたくて」
「わかった。……お前の店は、人々に愛されてるようじゃないか」
「はい。ありがたいことに」
彼は無言でうなずくと、背を向けた。
奥の作業台には、光を帯びた液体が漂い、空気が静かに震えている。
金属片が宙に浮かび、ゆっくりと回転していた。
── シュウ……、カン、と柔らかな音。
魔法が金属に染み込む音だ。
「相変わらず見事ですね」
「理論がすべてだ。感覚でやると、結果がブレる」
そう言いながらも、彼の指は震えていた── 微かに、だが確かに。
その声には、かつての熱ではなく、**精密な冷たさ**があった。
だが、シアにはそれが嫌ではなかった。
かつて情熱に任せて暴走した炎が、今は研ぎ澄まされた刃のように静まっている──
それもまた、熟練の証だと思えた。
「今日は、退役した兵士長 ──オルディンさんからの依頼で」
「兵士長? 聞いたことはある。だが、会ったことはないな」
エルドリクは短く答えると、机上の魔法符に手を伸ばした。
指先に青い光が灯り、符の表面をなぞるように流れていく。
「ポーション、補助札と、探索用の魔具か」
「はい。南の地方へ行くそうです。オークの群れだとか」
「なるほど、オークなら、通常の護符じゃ心もとないだろう。“共鳴層”を二重にする。通常よりも耐久は上がるはずだ」
エルドリクの言葉は理路整然としていた。
彼が語ると、どんな難題も解答があるように思える。
シアは静かに微笑んだ。
「本当に頼もしいです。昔と変わりませんね」
「変わったさ。昔は勢いでやってた。今は……結果しか見ていない」
「……そうですか」
返す言葉が見つからず、シアは机の上の光を見つめた。
炉の奥で、液体がぽとりと落ちる。
音もなく光が広がり、工房全体が一瞬だけ柔らかく照らされた。
「三日後だ。いつも通り仕上げておく」
「ありがとうございます。助かります」
短い返事のあと、二人の間に穏やかな沈黙が生まれた。
瓶の奥で魔力が泡立つ音と、術式を刻む光の微かな震えが重なっていた。
シアが帰る前に、エルドリクが口を開く。
「そういえば── お前の店、あの南通りの並びだったな。風の通りがいい」
「ええ、でもその分、看板が風に負けてしまって。今度、作り直そうかと」
「ふむ、魔力繊維を織り込んだ布なら、もう少し持つだろう」
「……それ、またお願いしてもいいですか?」
「好きにしろ。ただし、安くはせんぞ」
二人の間に、かすかな笑いが生まれた。
その笑いは短く、だがどこか懐かしさを含んでいた。
工房の奥では、魔法符が淡く光を放ち、液体の中で細かな泡が立っていた。
錬成炉の上では、金属球に魔力を注ぐ音が、かすかな鈴のように響く。
火花の代わりに光の粒が散り、空気が微かに焦げた匂いを帯びる。
やがて、シアが扉に手をかける。
エルドリクは再び作業に戻り、光を指先で導きながら小さく呟いた。
「理論の音は嘘をつかん。だが── 心の灯は、理屈では点らぬ」
シアは振り返り、静かに微笑んだ。
「だからこそ、エルドリクさんの作るものは、いつまでも消えないんですね」
シアは、彼の変わらない部分に安心しながらも、どこか遠くへ行ってしまったような寂しさを覚えた。
扉の外に出ると、風が頬を撫でた。
夕暮れ前の秋空が広がり、金色の光が工房の屋根を包む。
遠くから、魔法液が弾ける音が聞こえた。
── それはまるで、静かに燃え続ける炎のように。
工房を出た頃には、陽はすでに傾き始めていた。
通りには夕焼けの光が差し込み、街全体が温かな橙に染まっている。
風が静かに頬を撫で、どこからか香草を乾かす匂いが漂ってきた。
その穏やかな匂いに包まれながら、シアは店への帰路についた。
* * *
―― 3日後。
店の扉を開けると、朝の光が差し込む。
「……今日も、いい天気」
そう呟いて棚を整えていると、ドアベルが鳴る。
見慣れない青年が立っていた。
「こんにちは。あの、ここが“ミファリリシア道具店”で合ってますか?」
「はい、そうです。初めてのお客様ですね」
「ええ、王都の北から来た冒険者で。魔法符を探していて。できれば信頼できる店が良いと聞きまして」
「うちでよければ、どうぞ。どんな符をお探しですか?」
青年は少し照れたように笑いながら、魔法符の棚を見つめる。
「そうですね。防御系の“蒼印の護符”とか。あと、光球を出せる魔法球があれば」
「ありますよ。旅の方がよく使われます。こちらが護符、こっちが魔法球です」
「すごい……きれいですね。まるで生きてるみたいだ」
「魔力を封じてありますから、そう見えるのかもしれませんね」
青年が懐から財布を出して品に見惚れていると、ドアベルが豪快に響く。
「シアちゃん、やっほう!」
陽気な声に顔を上げると、エマが手を振っていた。
「こんにちは、エマさん。今日はいつもの香草茶ですか?」
「うん、それと包帯もお願い。最近ね、息子が木登りして落ちちゃって」
「あら、それは大変。怪我は?」
「擦りむいただけ。まあ、あの子の元気さなら心配いらないけど」
エマと話していると、またドアベルの音がする。
「やぁ、シア。今日は混んでるね」
入ってきたのは、冒険者ロークだった。
肩には軽装の鎧、腰には短剣。笑みを浮かべながら店を見渡す。
「この前の薬、効いたよ。森の魔狼相手に逃げ切れたー」
「それはよかった。あのポーション、効果は強いけど味は最悪でしょ?」
「ははっ、あれを飲むと生きてる気がしない」
「でも生きてるんですから、効いたんですね」
「味は、またべ……まぁ、生きてはいるけどな」
エマがくすりと笑った。
「ほんと、あんたたちの会話聞いてると、まるで兄妹みたいね」
「えっ? そんなこと……」
シアが慌てて手を振ると、ロークは笑いながら肩をすくめた。
「そうかもな。俺が年上だし」
「ロークさん、茶化さないでください」
シアは笑いながら、棚に戻した瓶のラベルを指でなぞった。
店内には柔らかな笑い声が広る。
青年の冒険者は、そんな光景を少し羨ましそうに眺めていた。
シアが品物を包み終えると、青年は、大事そうに受け取る。
「なんだか、温かいお店ですね」
「ありがとうございます。よかったら、また寄ってくださいね」
笑顔で送り出した。
ドアベルの音が遠ざかり、外の風がそっと店の中を通り抜ける。
ロークは、棚の商品を順番に眺めているようだった。
しばらくしてエマも買い物を終える。
「ありがとう、シアちゃん。ほんと助かるわ」
「いえ、また来てくださいね」
「ええ。今度は息子も連れてくるわ」
ドアベルの音と共に、外の風が香草の匂いを運び込んだ。
入れ替わるように、職人のダンドが入ってくる。
「やぁシアちゃん、今日もいい風だな」
「こんにちは、ダンドさん。」
ダンドは、一直線に棚に向かいながら、話し出す。
「最近は若い連中が増えたな」
シアが話す間もなく、ロークが話し出す。
「そうだなー。西の街道が荒れてるって噂だよ。だから、こっちに来る人も多くんだよ」
「荒れてる、な。王都まで響くようなことじゃなきゃいいけどな」
魔法符を整理しながら、二人の会話に耳を傾ける。
再びドアベルが鳴った。
「おっ、相変わらずだなー」
ロークとダンドが顔を向ける。
のも束の間、二人は会話の続きに戻った。
「……オルディンさん」
「やぁ、シア嬢。頼んでいた品はできたか?」
カウンターの奥から木箱を取り出し、丁寧に差し出す。
「はい。携帯ポーション、補助用の札、それに魔法探索用の道具一式です」
「助かる。これで準備が出来た」
オルディンは手際よく封を解き、静かに中を確認した。
魔力の光が淡く揺れ、符が小さく鳴いた。
「……いい出来だ。やはり、お前の店は信用できる」
「ありがとうございます。エルドリクさんのおかげですよ」
「今日は忙しそうだな」
「ええ。でも、こうして顔を見せてくれる方がいると、安心します」
「そうか。なら、よかった」
彼は、柔らかく微笑んだ。
その微笑みの奥に、何かを押し隠すような気配が見えた。
……私は見逃さなかった。
―― 彼は、沈黙の奥で、過去が目を覚ました。
南の地方の空は、王都よりも柔らかく霞んで見える。
かつてこの地に、オルディンの家族が暮らしていた。
娘と、その夫と、小さな孫。
村は広くはないが、収穫期には笑い声が響く、平和な場所だった。
しかし、ある夜。
突然、村を襲ったのは、オークの群れだったそうだ。
オルディンは王都の遠征任務に出ていた。
任務が終わり、報告を受け、迅速に向かった。
到着した時には、家は焼け落ち、そこにあったはずの笑い声も消えていた。
焦げた木の下に、娘の髪飾りが落ちていた。
孫の木製の笛が、黒い灰の中に埋もれていた。
焼けた風がまだ、金属の味をしていた。
何も言えなかった。
声を出せば、全てが現実になる気がした。
その後、妻もまた、静かに息を引き取った。
病ではなく、悲しみの中で心が凍えていったようだった。
あの日、彼女の手を握ったときの温もりを、オルディンは今でも覚えている。
冷たくなっていく指先を、必死に握り返したが、
その手は、もう二度と動かなかった。
「先に行くよ」
と、彼女は微笑んだ。
その微笑みは、涙と同じ色をしていた。
風が吹き抜け、花瓶の中の花が揺れた。
家の外では、春の虫の声が響いていた。
時は流れた。
王国の兵を退いた後も、オルディンは剣を携えていた。
そこは、かつての村の跡地。
再び草木が生い茂り、焼けた地面の痕跡は、土に還っていた。
オルディンは静かに剣を抜いた。
オークを探し、討ち続けている。
それがオルディンにとって、唯一の生きる意味になっていた。
……それしか、残されていなかった。
もし剣を手放せば、自分が何者か分からなくなる。
もし憎しみを捨てれば、大切な人たちを忘れてしまう気がした。
けれども、王都でシアと話すたび、心のどこかが揺れる。
彼女の笑顔は、失った家族の温もりを思い出させる。
だが、それを認めることは、背を向けた過去に顔を向けることになる。
シアを、本当に大切に思っている。
ひと時の安らぎ、この瞬間だけは、救われていると思っている。
だからこそオルディンは、決してシアには言わない。
自分の悲しみ、憎しみを、シアに背負わせてはいけないと、誓っている。
── シアの優しさに包まれながら。
オルディンは、娘を見るような優しい瞳で、彼女を見ていた。
シアは、彼の心を救いたいようにも見えた。
「南の地へ向かう。収穫祭の頃には、戻れぬかもしれん」
「……そうですか」
「約束の茶を、ご馳走になれそうにない。悪いな」
「そんな、気にしないでください。次の季節でも、また淹れますから」
「そのときは―― 少し甘めで頼む」
シアは微笑んだ。胸の奥に小さな不安が灯る。
「国のためとはいえ、どうか無理はしないでください」
「大丈夫だ。いつも助かっている、ありがとう」
オルディンは箱を抱え、穏やかに頷いた。
背を向け、扉へ向かう。
ドアベルが鳴り、外の風が吹き抜ける。
その音に混じって、香草の香りが微かに残った。
「……また、いらしてくださいね」
オルディンは振り返らずに片手を上げ、通りへと消えていった。
シアはその背中が見えなくなるまで静かに見送る。
そっと扉を閉め、棚に並ぶ瓶を見回した。
王都の空は午後の光を受け、
建物の壁に淡い金色の反射を落としている。
南通りの石畳には、長く伸びた影が寄り添うように重なり、
商人たちの呼び声が穏やかに流れていた。
遠くの塔の鐘がひとつ鳴り、
風が街路樹の葉をさらりと揺らしていく。
日々変わりゆく中、変わらない日々を紡いでいく。
守りたい小さな日常が、今日もここにある――
季節はゆっくりと深まり、
王都はたゆたう記憶を刻んでいた。
ミファリリシア道具店の灯 影灯レン @kageakari-ren
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