第4話 神がかり花魁

 四十絡しじゅうがらみの疲れ切った女が、紅梅軒へとやってきたのは昼の二時すぎだった。

「おきよさん、いらっしゃいませ」店主はいつもの笑顔で出迎える。

 客はこの笑顔を見たさに、この店を訪れるのだ。

「あぁ、いやだいやだ。貧乏暇無びんぼうひまなしとはまさにこのことだ」おきよは文句を言いながら、カウンター席に陣取った。

「だいぶお疲れのようですね」店主が労う。

「そりゃ疲れもしようというもんだ。朝から晩まで働きづめで、いつ飯を食って、いつ寝たんだか、わからないぐらいだよ」

「表の主役は花魁ですが、裏ではおきよさんのような〈遣手やりて〉がいるからこそ、見世みせがまわっているのです」

「さすが、マスターはよくわかっているね。花魁たちに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」おきよは、とても嬉しそうだ。

 遣手は花魁の世話をするのが主な仕事だ。田舎から連れてこられたばかりの娘を玄人にするため、廓のしきたりから客のあしらい方、そして床に関する技巧や技術を教え込む。

 吉原病院にも付き添わなければならない。ここは花魁の検診と治療を行うことを目的とした専門の病院だ。花魁たちは定められた日に病院へと出向き、検診を受けることを義務付けられている。これを〈強制検診〉といった。

 病気が判明した時は、花魁は見世には帰れず、そのまますぐに入院しなければならない。その治療費はすべて、花魁の借金となる。だから病院に行く前には、病気になっていないかどうかもまずは遣手が調べる。最後は花魁が無事に見世へ戻れるようにと、神棚を拝むのも遣手の仕事だ。

 花魁が客と部屋にいる間も気を抜くことはできない。無理心中を警戒しなければならず、花魁が客から食事や芝居見物などに誘われれば、一緒に着いても行かなければならない。

 これは〈足抜け(逃亡)〉を警戒してのことだが、それだけでなく、吉原しか知らない世間知らずの花魁を客からまもるためでもあった。

 遣手は花魁をいじめる怖い存在と思われがちだが、実際は、花魁は遣手を頼りきっていた。

花里花魁はなさとおいらんは、残念でしたね」店主が神妙な声で言った。

「人は自業自得というけれど、可哀想なことをしたよ」

 店主はカウンターの隅に置かれた香炉に、火のついた線香を立てた。高貴な伽羅の香りが広がっていく。

「なんだい、喫茶店に線香なんて不似合いじゃないか」

「香典返しにいただいたものですが、花里花魁の供養になればと思いまして」

「優しいんだね、マスターは」

「線香が燃え尽きるまでの間、お話しいただけますか、花里花魁のことを」

「嘘ばかりの世界で嘘にまみれて生きてきた娘だが、本当は優しいいいだったよ。聞いてやっておくれ」

 おきよは、ぽつりぽつりと語りだした。


 おきよの務める〈鶴屋〉は中見世だった。中見世は引手茶屋を通さなければ登楼できない大見世とは違い、客が直接、見世を訪ねて花魁を選ぶことができた。

 店の前では〈妓夫太郎ぎゅうたろう(客引き)〉が、通り過ぎる男たちに声をかけていざなう。甘言に乗って中へと入ると、正面に額に入った花魁の写真がずらりと並んでいる。客はこの写真を見て花魁を選ぶのだ。

 昔は店先に花魁が居並び、客に自分の姿を見せて選ばせる〈張見世はりみせ〉が主流だったが、法令の施行によりできなくなり、そこで生まれたのが、この〈写真見世しゃしんみせ〉だ。

 どの花魁の写真もかなりの美人に写っている。客が迷うのも無理はない。だが本人を見て、落胆することも少なくないという。それほど、吉原の写真館の修正がうまいのだ。

〈花里〉と名がある花魁の写真の脇に、達筆な筆文字で〈初見世〉と書かれた紙が下がっている。

「どうですか、正真正銘、今夜が初めての花魁だ。旦那のような紳士がお相手してくれれば、花魁にも箔が付くというもんです」妓夫太郎がここぞとばかりに、客を誘い込む。

 頭が禿げた五十代後半の小柄な男は、妓夫太郎の言葉に乗せられて花里を選んだ。

「さすがは旦那、お目が高い。さぁさ、お二階へ」

 客は〈ひきつけの間〉に通される。ここで花里と対面するのだ。もちろんそこには、遣手のおきよも同席する。客と〈水揚みずあげ代(代金)〉の交渉をするためだ。もちろん、それだけではすまない。初見世だからとやれご祝儀だ、なんだと金を巻き上げられる。ここが遣手の腕の見せ所だ。

(花魁のためにも、少しでも多く巻き上げないとね)

 花里とともに、ひきつけの間に向かうおきよの鼻息は荒かった。

「おばさん、私、怖い」花里が震える声で言った。

 どの見世でも花魁たちは、遣手のことを〈おばさん〉と呼んでいた。

「怖いだろうが、最初はこちらはなにもせず、横になっているだけでいいんだよ。だから楽なもんさ。その方が客も喜ぶからね」おきよは花里を励ます。「さぁ、入るよ」

 おきよは満面の笑みで襖を開ける。客がこちらを見る。その目は好色に満ちていた。

 客は花里を気に入ったのか、おきよに言われるままに金を出した。

「それじゃ花魁、お客様をお部屋にご案内して」おきよは花里に向かって言った。

 客も待ってましたと立ち上がる。だが、花里は下を向いたままだ。

「なにしてるんだい、お部屋にお連れするんだよ」

 花里はまだ、下を向いたままだ。

「すいませんね、うぶなもんで」おきよは笑顔を繕う。

 客はそれもまた楽しいのか、ニタニタと笑っている。

「さぁ、花魁。部屋に案内しておくれ」客が花里の肩に手を置いた。

「無礼者!」花里は客の手を払いのけた。

「な、なにをする!」客は顔を赤らめて怒鳴った。

 だが、花里は客をキッと睨みつけた。「わらわは伏見稲荷の眷属けんぞくなり。指一本触れればただではすまさん、覚悟いたせ!」その声は、地の底から響いてくるような不気味なものだった。

「な、なんなんだ、この花魁は、狐憑きつねつきか?」客は驚き、腰を抜かしていた。

「明日、☓☓商会の株は暴落するであろう。その真実を持って、妾を崇めよ!」

 客は気味悪がって、這々ほうほうていで帰っていった。同時に花里は気を失った。

 花里は翌日になっても目を覚まさなかった。

 怒り心頭の御内所は、「折檻をしてやる!」と息巻いたが、おきよがそれを必死に押し留めた。

(どうして私が、こんなことまでしなきゃいけないんだよ)

 おきよは不満をグッと飲み込む。それが遣手なのだ。

 夕刻になると、昨日の客がまたやってきた。

(大方、文句を言いに来たんだろうよ)

 だが、そうではなかった。

「あの花魁にお礼が言いたいんだ。会わせてくれ」と、頭を下げる。

 客の名は須賀耕造すがこうぞうといって、〈羅紗屋らしゃや〉の主人だった。

 羅紗屋とは、洋服商(テーラー)に、反物を切り売りする生地の専門卸商のことだ。

 五年ほど前から株にのめり込み、株屋のすすめで様々な株を買ってはみたが損ばかりをしていた。そこで起死回生で買い求めたのが☓☓商会だった。

 株は順調に上がった。はじめての体験だ。どこまで上がるか楽しみでならない。だから上機嫌で吉原へとやってきた。しかも初見世の妓がいるという。まさに天にも昇る心地だった。

 だが、その花魁から出た言葉が、☓☓商会の株の暴落だ。最初はでまかせだと思っていたが、どうにも気になって仕方がない。そこで思い切って、朝一番で持ち株すべて売りに出したのだ。すると、昼から暴落が起こり、☓☓商会の株券はただの紙切れになってしまった。

「花魁には何度、お礼を言っても言い足りないぐらいだ。伏見稲荷の眷属が乗り移っているのは間違いない。これからは客としてではなく、信者としてお告げを聞くために通わせてもらいます」

 この日から見世に払われる花里の〈水揚げ代〉は、〈玉串料たまくしりょう(神様に捧げる金銭)〉と呼ばれるようになった。花里のもとに通い詰めるのは、この須賀耕造だけではなかった。噂を聞きつけた株好きが、お告げを聞こうと我先にと押し寄せた。

 遊郭でありながら花里を抱く者はだれもおらず、ひれ伏し、お告げを求める者ばかりとなった。

 花里はいつでも神がかるわけではない。気持ちが高揚した時のみにだという。そのためには、花里を喜ばすことが必要だった。欲しいというものを買い与え、食べたいというものを食べさせ、行きたいというところに連れて行った。

 おきよは遣手として、そのすべてに同行しなければならなかった。美味しいもののご相伴にあずかるのは悪くはないが、内心はヒヤヒヤものだった。

 なぜなら、花里は伏見の眷属などではないからだ。その証拠に、暴落を言い当てた以外、これといったお告げはない。客達も薄々感づき、花里から離れはじめていた。だが、須賀だけは、最初に儲けさせてもらったためか、花里の霊力を信じて疑わなかった。

 おきよは花里と二人っきりになった折り、思い切って問いただした。

「やはり、おばさんにはすべてお見通しだったのね」素直に認めた。

「でも、どうして☓☓商会なんて会社の名前を口にしたんだい?」

「ほら、見世で飾る写真を撮りに写真館に行ったじゃない。その時に、店主が誰かと☓☓商会のことについて話していたの。それが耳に残っていたのね」

「なんだい、種明かしをしたらそんなことかい」おきよは呆れてしまった。「でも、どうするつもりだい? このままじゃ、いずれは嘘がバレちまう」

「だから私、誰とも床をともにしないまま、この吉原を去ろうと思うの」

「あんたは花魁だよ。そんなこと、できるもんか」

「ううん、私にはできるわ」

「なにを考えてるんだい?」

「須賀に株を買わせるわ。儲けた金で 私を身請けさせるのよ。吉原さえでてしまえば、 あいつなんてどうにでもなる」

「だけどあんたには、株を当てる本当の神通力はないんだろ?」

「大丈夫よ、この機会に株の勉強を始めたの。学べば学ぶほど自信がついたわ。まかせておいて、うまくやってみせるから」花里は胸を張った。

「花魁がそこまで言うのなら、私は構わないが⋯⋯」おきよは渋々ながらも同意するしかなかった。

 花里は神がかったふりをして、須賀にある会社の株を大量に購入するように告げた。花里の能力を信じ切っている須賀は、店も屋敷も抵当に入れ、言われた会社の株を買い占めた。

 だが、目論見はついえた。買った株の会社が倒産したのだ。大きく稼ごうと、危ない会社に手を出したのがいけなかった。

(ただで済むわけがない)

 おきよは楼主に花里の〈住み替え〉をすすめた。住み替えとは花魁が別の見世に替わることをいう。東京から遠く離れた見世に移れば、須賀に見つかることもないだろう。

 楼主も花里の危険を察して、住み替えを承諾した。「九州の見世に掛け合ってみるか」

 電話で問い合わせると、「まだ床も済ませていない花魁なら、ぜひに」と、二つ返事で移籍は決まった。

「花魁、命拾いしたね。九州へ行ったらもう、悪い考えを起こさずに、真面目に務めるんだよ」

 おきよの言葉に、花里は青ざめた顔で頷くしかなかった。

「明日は九州へ旅立ちだ。今夜は見世には出ずに、布団部屋で息を殺して隠れているんだ。いいね」

 吉原に夜がやってきた。

 明かりが灯り、男客が花魁を品定めしながらそぞろ歩く。そんな男たちに、妓夫太郎は熱心に声を掛ける。

「いいのがいますよ、旦那。写真だけでも見ていってくださいな」

 笑顔の妓夫太郎の顔が強張る。そぞろ歩く男たちの中に、須賀耕造がいたのだ。しかもその手には、抜き身の日本刀が握られていた。

 それに気づき、驚いて男客たちが道を開ける。須賀はふらふらと鶴屋へと近付いてくる。刃状沙汰にんじょうざたには慣れている男衆たちも、鬼気迫る姿に手出しすることはできなかった。

 須賀は土足のまま階段を上り、二階へとやってくる。順番に部屋の襖を開けて中を確かめていく。そのたびに、客と花魁が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 最後にやってきたのは、布団部屋だった。須賀は襖を開いた。中には積み上げられた布団しかない。

 ジッとまわりを見ていく。積み上げられた布団が揺れていた。須賀はその布団の山へと近づいた。布団をどけると、そこには、ガタガタと震えている花里がいた。

「花魁、ここにいたのかい」嫌な声だった。

「た、助けて」

 逃げようと向けた背中めがけて刀を突き刺した。刀身が肉に刺さる嫌な音がした。

「うっ」

 須賀は刀を引き抜き、何度も何度も何度も倒れている花里を刺した。花里が死んでいるのもおかまいなしに、馬乗りになって刺し続ける。

 おきよがやってきた。「なにしてるんだい!」

 須賀はゆっくりと振り返って、おきよを睨みつけた。その顔はまさに、鬼のようだった。

「ひいっ」おきよは、恐ろしさに後ずさりする。

 須賀は刀身を己の首にあてると、横一文字に引いた。頸動脈が切れて血が吹き出した。

 須賀は鮮血を撒き散らしながら、最後は死んでいる花里の上に、覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。


 おきよは、深くて重い溜息を吐いた。

「花魁ってもんは元来、嘘つきなもんさ。その嘘が客とっては嬉しいんだ、そして可愛いんだよ」

「花里花魁は嘘がうますぎたから、間違った方向にいってしまったのですね」店主はしんみりと言った。

「もう少し、私がしっかりしてたら⋯⋯そう思えたりもしてね」

「いいえ、一度ハマった運命の歯車は、回り始めたら誰ももとめることはできません」

「そうだね、吉原で生きてりゃ、運命に逆らえないことは痛いほどわかってるんだけどね」

 線香が燃え尽きた。

「無事に語り終えました。お話いただいたお礼です。さぁ、お飲み物をどうぞ」

 店主は淹れたての珈琲を差し出した。


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