流転の剣士
@asadasawa
第一振り
— 早朝、訓練場 —
朝の薄霧はまだ消えきらず、湿った土の匂いと草の香りが入り混じり合い、リヴェン村の空気に春の息吹を運んでいた。
村の東端にある訓練場では、一人の少年が木刀を振るっている。
朝日が霧を透かし、少年の灰銀の短髪に淡い光を宿す。汗が引き締まった顎を伝い、黒い土の上に滴り落ちる。
その一太刀一太刀は単なる反復ではない。
見えぬ敵と対話するように、静かな律動を刻んでいた。
手のひらが痛む。幾度も握り直した木刀の柄が掌に馴染んでいた。
風の音、鳥の声、すべてが遠のく。
一歩踏み込む。
剣を横に薙ぐ。
すかさず、全身の力を込めて縦に叩きつける。
次の瞬間、体を沈めて突きを放つ——
その途中で、剣の軌道が僅かに乱れた。
「ちっ」
少年——トウマ・ルヴェインは舌打ちして木刀を止めた。
息が上がっている。額の汗を袖で拭い、深く息を吐いた。
父から教わった剣技は数多い。
北方の直線的な突き。
東部の流れるような太刀筋。
西部の舞い散る花弁の乱撃。
南方の重い一撃。
それらを自在に切り替え、状況に応じて戦う——それが父の剣『
だが、流派を切り替える瞬間ほんの少し体が迷う。
実戦なら、それは命取りだ。
「……今日も、ダメか」
トウマは木刀を地面に置き、空を仰いだ。
霧の向こうで、東の空が白み始めている。
一年前、父が去る前に言った言葉を思い出す。
『お前の剣は、まだ揺らぐ。流れを止めるな』
流れを、止めない?
切り替える時、何かが途切れている——?
トウマにはまだ、その意味がわからなかった。
村人たちもそろそろ動き出すだろう。
トウマは訓練場を後にし、村の中心部へと向かった。
リヴェン村は、山と森に囲まれた小さな集落だ——かつて東方からの移民が築いた村で、西の王都とは異なる文化が根付いている。米を主食とする珍しい村として知られていた。
人口は二百人ほどしかおらず、家々は丸太と石で頑丈に作られ、軒先には魔除けの札が吊るされている。魔物が出る土地だからこそ、村人たちは自分の身を守る術を身に着けている。
村の広場では、すでに数人の村人が動き始めていた。井戸から水を汲む老婆。薪を運ぶ男。家畜に餌をやる少年。誰もが黙々と、だが穏やかな表情で朝の仕事をこなしている。
「おはよう、トウマ」
井戸端から、マリア・ミルダンが手を振っていた。トウマが幼い頃から世話を焼いてくれている、村の母親のような存在だ。
「おはようございます、マリアさん」
トウマは軽く頭を下げた。マリアは笑顔で水桶を持ち上げ、トウマに歩み寄る。
「今朝も訓練してたの? 朝日が昇る前から聞こえてたわよ」
「……すみません、うるさかったですか」
「いいえ、むしろ安心するわ。あの音が聞こえると、トウマが頑張ってるなって思えるもの」
マリアは優しく微笑んだ。だが、その目には少しだけ心配の色が浮かんでいる。
「でもね、トウマ。無理はしないでね。あなたはもう十分強いんだから」
「……まだです。親父には、まだ届いてないんで」
トウマの言葉に、マリアは何も言わなかった。ただ、その肩にそっと手を置いた。
「朝ごはん、うちで食べていく?」
「大丈夫です。今日は田植えの手伝いがあるんで」
「そう。じゃあ、無理しないでね」
マリアは水桶を抱えて自分の家へと戻っていった。トウマはその背中を見送り、再び歩き出す。
* * *
村の南側には、広大な田んぼが広がっていた。ここで育てられるのは、リヴェン村の特産品——《ルミナライス》だ。昼間は普通の稲と変わらないが、夜になると淡い青白い光を放つ。その米粒には微弱な魔力が宿り、食べると疲労が回復し、魔力の循環が良くなるという。
田んぼにはすでに数人の村人が集まっていた。その中に、トウマより二つ年上の青年がいた。
レイド・アルドリス——村長の息子で、村の自警団を率いる若きリーダーだ。
「おう、トウマ! 来たか」
レイドが手を振る。その隣には、他の若者たちも並んでいた。彼らは田植えの準備をしているところだった。
「おはよう、レイド」
「おう。今日は田植えだ。お前も手伝ってくれ。人手が多い方が早く終わる」
「了解」
トウマは靴を脱ぎ、田んぼに入った。水が冷たく、足に絡みつく。泥の感触が心地よい。
田植えは地味な作業だ。一株ずつ、丁寧に苗を植えていく。腰を曲げ、手を動かし、黙々と続ける。だが、トウマはこの時間が嫌いではなかった。
手を動かしながら、頭の中で剣の動きを反芻する。さきほどの訓練で失敗した部分。あの瞬間、体がどう動いていたか。どうすればよかったのか。
「なあ、トウマ」
レイドが声をかけてきた。トウマは顔を上げる。
「お前の親父さん、最後に帰ってきたのっていつだっけ?」
「……一年前かな。酔っ払って夜中に帰ってきた時だ」
「そうか。もうそんなになるのか」
レイドは少し寂しそうに笑った。
「あの人が帰ってくると、村が賑やかになるんだよな。子供たちは大喜びだし、俺たちも色々教えてもらえる」
トウマは何も言わず、再び苗を植え始めた。
父——アレス・ルヴェイン。
かつて王国の騎士だったが、爵位と名誉を捨て、旅を続ける放浪者となった。数ヶ月、あるいは数年に一度だけ、この辺境の村に帰ってくる。滞在はいつも短い。だが、訪れるたびに父は世界各地で身につけた剣技や魔法、護身術を惜しみなく息子に教え込んだ。
一年前の訪問も、ほんの一週間だけの滞在だった。
父は朝から晩までトウマに剣を教え、夜には村人たちと酒を酌み交わし、そして——ある朝に何も言わずに去っていった。
テーブルには、一枚のメモだけが残されていた。
『また、帰ってくる』
それだけだった。
「なあ、トウマ」
レイドが再び口を開いた。
「お前の親父さん、たまに王都の話してたよな」
「……まぁ、昔はあっちにいたらしいからな」
「だろ? あの人、凄い話するじゃん。ドラゴンと戦ったとか、魔導師と決闘したとか」
「……酔っ払いの話を信じるなって、本人が言ってたけどな」
レイドは笑った。
「でもさ、お前も同じ血が流れてんだろ? このままずっと、田んぼと訓練だけで終わるのか?」
トウマは手を止めた。
「……まぁ、他にいくところもないからな。なんかあったのか?」
「いや、お前は強いからさ。もっと広い世界で何かできるんじゃないかって思ってな」
「そう言われても、俺はここが好きだし……腕は磨けるし、生活にも困ってない」
「それはわかってる。ただ——」
レイドは空を見上げた。
「お前、最近ちょっと迷ってる顔してるぞ」
「……え?」
「俺らは幼馴染だろ。わかるんだよ。お前が何か考え込んでる時の顔」
トウマは答えなかった。
広い世界——それは確かに、興味がある。
父が語る王都の話や冒険者たちの武勇伝、王都にある学院の噂。それらは、どこか遠い場所の話のように思えていた。
だが、今はまだここで強くなりたい。
もっと剣を磨いて、父に追いつきたい。
「……正直、わかんねぇ」
素直に答えたトウマに、レイドは口を開く。
「わからない、か。まぁそうだよな。お前はまだ十六だ。焦って何かしなくともこれから色々あるさ」
レイドはそう言って、再び田植えに戻った。
田植えが終わる頃には、太陽が中天に昇っていた。村人たちは汗を拭い、持参した昼食を食べ始める。トウマもその輪に加わり、握り飯を頬張った。
ルミナライスで作られた握り飯はほんのりと甘く、口の中でほどけていく。疲れた体に染み渡るような美味しさだった。
「今年も良い苗が育ちそうだな」
誰かがそう言った。村人たちが頷く。
ルミナライスは、この村の宝だ。龍脈の影響を受けたこの土地でしか育たない貴重な作物。だからこそ、村人たちは総出で大切に育てる。
トウマは田んぼを眺めた。青々とした苗が風に揺れている。
いつか、機会が来たら——
その時は、迷わず飛び込もう。
「トウマ、考え事か?」
レイドが声をかけてきた。トウマは首を横に振る。
「いや、何でもない」
「そうか」
レイドは何も言わず、また握り飯を頬張った。
* * *
夕暮れ時、トウマは自分の家に戻った。
村の外れにある、少し大きめの木造の家。父が帰ってきた時のために、二つの部屋がある。だが、今は一つの部屋だけが使われている。もう一つの部屋——父の部屋は、いつも静かに主人の帰りを待っていた。
トウマは玄関で靴を脱ぎ、中に入った。簡素だが清潔な部屋。壁には父の剣が掛けられている。父が若い頃に使っていたという、古びた長剣だ。
「……ただいま」
誰もいない家に、トウマは呟いた。
母が亡くなってから、もう十年が経つ。六歳の頃の記憶は、もうほとんど残っていない。ただ、優しい笑顔と暖かい手の感触だけが、ぼんやりと残っている。
そして、母が最後に言った言葉。
『自分のやりたいことを、やりなさい』
自分のやりたいこと——それは、何だろう。
トウマは壁に掛けられた父の剣を見つめた。
強くなりたい。
親父に追いつきたい。
それが、今の自分の答えだった。
だが——それだけでいいのだろうか。
トウマは剣から目を逸らし、窓の外を見た。夕日が沈み始めている。村の家々から、夕餉の煙が立ち上っている。どこかで子供たちの笑い声が聞こえる。
この村が好きだった。
ここで生まれ、ここで育った。村人たちは家族のようなものだった。
トウマは深く息を吐き、木刀を手に取った。
まだ日が沈むまで、時間がある。
もう少しだけ、訓練をしよう。
* * *
夜。
訓練を終えたトウマは、家の前に座って空を見上げていた。満天の星空。月明かりが、村を柔らかく照らしている。
遠くの田んぼからは、淡い青白い光が漏れていた。ルミナライスの光だ。夜になると、稲穂が微かに光を放つ。その光景は、まるで星空が地面に降りてきたかのようだった。
美しい景色だった。
だが、トウマの心は晴れなかった。
今日も、親父の剣には届かなかった。
一年前、父が去る前に言った言葉を思い出す。
『お前の剣は、まだ揺らぐ。流れを止めるな』
流れを、止めるな。
技を切り替える時、何かが途切れている。
まるで川の流れが岩にぶつかって、一瞬止まるように——
「……親父、もっと分かりやすくヒント残してくれよ」
トウマは夜空に向かって呟いた。
答えは返ってこない。
ただ、風が吹いて、トウマの髪を撫でていった。
まるで、誰かが優しく背中を押すように。
トウマは目を閉じ、深く息を吸った。
強くなりたい。
親父に追いつきたい。
だが——強くなって、どうする?
村を守る? それだけか?
トウマにはまだ、答えが見つからなかった。
それでも——
トウマは静かに立ち上がった。
遠くの森が、月明かりに照らされている。
あの森の向こうには、何があるんだろう。
「親父、待ってろよ。必ず追いつく」
——今日も、親父の剣は遠い。
だが——いつか、必ず。
トウマはそう心に誓い、家の中へと戻っていった。
新しい一日が、また始まる。
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