レコードは廻る、スカートが揺れる――放課後のB面
小鹿雪
プロローグ ―Cry Like a Rainstorm―
レコードに針が落ちて音楽が始まるまでの一瞬は、永遠の縁に触れた静寂だ。
ボツボツと滲むノイズは、日曜日の朝の雨音のように、あるいは真夜中のハイウェイから響くエキゾーストノートのように、心の窓を叩く。
今はまだ、どこにも行けない。ただ、これから始まるグルーヴの予感に捕らわれて、佇むだけ。
そして、音楽が世界を震わせる――
*
古めかしい木の扉は、重く、固く閉ざされていた。
旧校舎の奥、半地下にあるこの場所には、朝から降り続く激しい雨の音は聞こえてこない。ひんやりと湿った空気だけが、静かに流れ込んでいる。
一人の女子生徒が、扉の前に立った。その小柄な身体全体を使って、思いっきり体重をかけながら一生懸命に、ゆっくりと扉を開けようとしていた。
ギギギギ~ッ、と蝶番が軋む大きな音。
「視聴覚資料室」と標札が掲げられた部屋の中からは、沈殿した古い時間の匂いが漂い出す。
古本、古着、おばあちゃんの家の玄関、古い新聞紙――
なんにせよ、かなりの時間を重ねなければ醸しだされないような独特な匂いだ。何年、いや何十年のあいだ封印されていたのだろうか。
す~っと、鼻いっぱいにその匂いを嗅ぐと、猫背の女子生徒は、ニンマリと、すこしばかり不気味な印象さえ感じさせる微笑みを浮かべた。そして、右手で慎重に壁を探り、部屋の灯りのスイッチをさがす。
やがて、スイッチらしきものに手が触れて、手探りのまま押してみる。
パツ……パツ……と、寝ぼけたように白い光が消滅を繰り返し、蛍光灯の灯りが鈍く点った。
物が所狭しとギッシリ積み込まれた小部屋の様子が、彼女の目に入る。寿命が近づいているのだろうか、蛍光灯にしては随分と薄暗い輝きだ。その鈍く白い明かりに、女子生徒の姿が照らされる。
黒縁メガネをかけたぱっちりとしたまん丸の瞳に、丸っこい鼻。猫背のまま、中腰でゆっくりと、辺りの様子をうかがっている。
全体的に無造作にまとめられたくせっ毛の髪には、マンドリンを象った髪留めがついていた。瞳の奥には、好奇心の光がギラギラと輝き、柔らかな頬は紅く染まっている。
「おおぉ~! これは絶対に、お宝が眠ってるよ~! やっぱり、あたしの目に狂いはなかったねぇ!」
素早く小部屋に身体を滑りこませると、すぐさま壁際の棚に詰めこまれているたくさんの「物(ブツ)」を物色し始めた。縦に並べられて、紙でできたケースに入れられた薄い板状の「物(ブツ)」が、何枚も、いや何百枚も、あるいはそれ以上。数えきれないほどの「物(ブツ)」が、その部屋には収蔵されている。
部屋に入った瞬間に感じた「匂い」も、主にこの「物(ブツ)」が発生源となっていた。女子生徒は、一つ一つの「物(ブツ)」を、カサカサと手早く引き出しては戻すという動作を繰り返しながら確認していく。
「拓郎……かぐや姫……陽水……うん、さすがにこういうのはあるよね。おおっ、岡林に高石! これはいいねぇ……おや、こっちが……ふっふっふ。いよいよ見つけたみたいだねぇ~、お目当てのコーナーを!」
所望していた「物(ブツ)」を見つけた女子生徒は、少し高めの場所にある棚に手を伸ばそうとした。しかし、小柄なせいか、あと少しというところで手が届かない。
仕方なく、部屋の奥からホコリをいっぱいにかぶっている椅子を持ってきて、踏み台にする。椅子は古すぎるせいか、足がかなりガタついていた。
「ううぅ……危ない。でもお宝のためなら命だってかけるよっ! さてさて……ああっこれは……なんと、リトル・フィート……! なかなか期待できますなぁ~!」
無造作に引き出した一枚の「物(ブツ)」は、彼女のお眼鏡にかなったようだ。何かを一人で呟きながら、一心不乱に手を動かしていくと、彼女の興奮はさらに昂ぶっていく。
「おっ、これはキャロル・キングの『つづれおり』だ! もしかして、USオリジナルかな!? あとで聴いてみよう!」
彼女の手はもはや止められない。次から次へと「物(ブツ)」を漁り続ける。
「これは……すごいよぉ~。想像以上のお宝の山だ! おっ……この辺にはディランまで……! う~ん、と……届かない……よいしょ!」
ギリギリ手が届くかどうかというところの「物(ブツ)」をなんとか掴みとろうと、彼女は目一杯に身体を伸ばす。
やっと手が届いたと思った瞬間――
ガターンッ!!
大きな音を立てて、椅子の上から勢いよく転倒してしまった。幸い、床には古い毛布が積まれていたため、怪我はなかったようだ。
彼女はといえば――
自分の身体の安全以上に、掴んでいる「物(ブツ)」のほうを傷つけぬよう、手を上に掲げて衝撃を与えないようにしていた。
狭い小部屋には、ホコリがいっぱいに舞い上がる。
「ふ~……なんとかセーフだったかなぁ。どれどれ……うん、大丈夫だ!」
彼女が手にしていたのは、一枚の「レコード」である。
クルクルの髪型をした若い男性が、椅子に腰掛け、首を少し傾げながら、挑戦的な視線でこちらを見つめている写真。彼女はその写真の男性を、古い毛布の上に仰向けに転がりながら、同じように挑戦的な目つきで見つめている。
ゆっくりとジャケットから中身を引き出す。中には黄ばんだ紙の包みと、その紙に包まれた黒いレコードが入っていた。
彼女は黄ばんだ紙の包みからレコードを取り出して、まずは円盤の中心あたりにある丸いシールのあたりを凝視する。
「ええぇ! これは……!」
何かに気付き、驚きのあまり彼女は数秒間ほど固まってしまった。
「まさかの、オリ盤だよぉ! しかも……モノだっ!」
再び、瞬きも忘れて彼女はレコードを凝視し続ける。斜めにしたり、真横から見たり。ひとしきりの動作を何度か繰り返していく。
その一連の動作は、彼女にとって日常のルーティンであるかのごとく、滑らかな手順で続けられた。何度も何度も同じ動作を繰り返して、彼女はやっと少しずつ納得し始めたようだった。
「とんでもないものを……あたしは発掘してしまったのかもしれない……」
彼女の手はいつしか小さく震え出していた。
その震える手で、もう一度ゆっくりとレコードを斜めにして、中心の丸いシールの横あたりを注視する。彼女のまん丸な瞳が、さらにまん丸に、大きく見開かれた。
「ま……マト番は1……だって!? こんな……こんな奇跡が訪れるなんて! UFOが墜落してきて事故死するんじゃないかな!?……でも、その前に……これを聴かなきゃ!」
寝転がったままだった彼女はすぐに立ち上がると、小部屋から飛び出していった。
小部屋の外は視聴覚室で、放課後である今は他に誰もいない。そもそもタブレットのように手元で使えるICT機器が教育現場に普及した現代では、視聴覚室が使われることはほとんどなく、生徒にもほとんどその存在さえ知られていない場所だ。
彼女は急いで教室前方に設置されているAVラックにあるアンプのスイッチを入れた。そして、レコードプレイヤーのターンテーブルに慎重にレコードをセットする。その手つきは、国宝を扱う美術館の係員のように慎重だ。
再生のスイッチを押すと、ターンテーブルがクルクルと回りだす。
プレイヤーの針が自動でゆっくりと、回転するレコードの縁を目指して動き出した。
ボッ……パツパチ……チリ……
針がレコードに落ち、小さなノイズが聞こえた。そして――
スピーカーから流れ出した音。
それは、何十年か前のある場所、ある瞬間、演奏するミュージシャンたちの気迫――
濃縮して密閉されていた「時間」と「熱気」が、強烈な圧力で一気に弾けた音だった。
彼女は音の圧力に気圧されたのか、思わず後退りして床にペタンと座り込んでしまう。やがて、イントロが終わり、しゃがれて乾いた歌声が、次々に言葉とメロディを畳み掛けていった。
ボブ・ディランのアルバム、『追憶のハイウェイ61』。その一曲目の、「Like a Rolling Stone」だ。
彼女は床に座り込んだまま、ぴくりとも動かず、何も言わないまま。ただ呆然と、スピーカーから流れてくるレコードの音に全身を預けていた。
外では、朝から降り続く雨がさらに激しさを増している。
しかし、今の彼女の耳には、激しい雨の音は聞こえない。
*
放課後の廊下。人の気配なんてほとんどないのに、私は無駄にきょろきょろしていた。誰かに話しかけられても、すぐ「……は、はい……」って蚊の鳴くような声しか出せなくなるから、なるべく誰にも会いたくないのだ。
でも、今日はあろうことか傘を忘れてしまった。
外はまだ激しい雨。当分帰れそうもなく、人を避けながら校内をうろうろとしていた。
そのとき、不意に、何かが耳に飛び込んでくる。
(……ピアノ? 女の人の歌声?)
わわっ、なにこれ。どこから……?
心臓が急にドクンと跳ねて、足が勝手に音のする方へ進んでいく。
視聴覚室。こんな教室あったんだ。
いやいや、怪しい。
こんなところに入ったら絶対変な人と思われる。
……でも。
懐かしいような、でも知らないような、不思議な気持ちが胸をくすぐって、体が勝手に扉のほうへ。
――ダメだよ、私。こういうとき絶対うまくしゃべれなくて「すみません間違えました」って逃げる未来しか見えない。
そう思いながら、なぜだか扉に手がかかっていた。
ぎい、と軋む音が大きく響く。
やっちゃった。完全にやっちゃった。
目の前にいたのは、小柄な女の子。
両手を胸の前で組んで、まるで神様にお祈りでもしているみたいに音楽に恍惚としていた。
その表情に、思わず見惚れる。
(いや、え、なにこの人、尊い……)
胸がきゅっとなった瞬間、なぜか涙がこぼれた。
(ちょ、ちょっと待って。泣く? 私いま泣いてる? 意味わからない。止まらない。顔ぐしゃぐしゃ。やばいやばいやばい!)
「……えっ!? ちょ、ちょっと、泣いてるの!?」
彼女が、驚いた様子で声を上げた。
返事しなきゃ。
でも「え、いや、あの、その……」って口がパクパクするだけで、声が出ない。
うまくしゃべれない。最悪だ。
その間も涙は止まらなくて、私はただ突っ立って嗚咽している変な人になっていた。
やばいやばいやばい。
顔が沸騰したヤカンみたいに熱くなっているのがわかる。
私はその場から逃げ出して、家へと向かって一目散に走り出した。
「お~い!」
背中の向こうから、彼女の声が聞こえた気がする。
外は土砂降り。校舎を出たら一瞬でびしょ濡れだった。
でも、私の耳には激しい雨の音なんて聞こえない。
さっき聞こえた優しい音楽だけが、私の中に響き続けていた。
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