「嗤う亡霊と、終わらない悪夢」(2)
「タリア……姉さん……」
エドの声は、夢うつつの呟きのようでありながら、抑えきれない震えを帯びていた。
ミューサの間の抜けた笑い声に、タリアがさらに言い返そうとしたその瞬間、エドの異変に気づいた。
いつもは元気なはずのその子が、今、目を真っ赤に腫らし、どこか虚ろで、まるで心の何かが砕けてしまったような目で自分を見つめている——
「え……エド? ちょ、ちょっと待って! わ、私……もしかして、言い方キツすぎた?」
彼女は慌ててエドのそばに駆け寄り、その場にしゃがみ込む。その様子は、ひどくうろたえていた。
「ちが……う……」
エドは、拭っても拭っても止まらない涙を乱暴にこすりながら、しゃくり上げる喉で必死に首を横に振った。
「お、俺が……俺が悪いんだ……隣町の、買い出し……姉さんの、頼み、忘れて……ごめ、ごめんなさい……タリア姉さん……う、ううう……」
タリアは呆気に取られた。だが、エドの支離滅裂な弁明を聞き、何かを察したように、赤紫の瞳の奥に静かな悲しみがよぎった。
彼女はもう何も言わず、ただ両腕を広げ、エドの震える小さな体を、その胸に抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫よ、エドちゃん。……お使いなら、もう私が済ませてきたから。それに、姉さん、そんなことで本気で怒ったりしないわ……だから、もう泣かないで。ね? いい子だから……」
その温かさと安心感が、エドの中で張り詰めていた最後の弦を——無慈悲に、断ち切った。
「タ、タリア姉さん……タリア姉さん……うわああああああ————!!!」
彼は力任せに彼女の背中に腕を回し、その肩口に顔を埋めた。 堰を切ったように、涙が溢れて止まらない。
現実か、夢か。真実か、幻か。 そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、この温もりだけが—— この、確かに“そこ”にあった温もりだけが—— 永遠に失いたくないと、焦がれたすべてだった。
「よしよし、もう泣かないで。姉さん、エドを責めてないわ。もしさっきの言い方がキツかったなら、ごめんね?」
「はっはっは、いつもは猿みてえに飛び回ってるやんちゃ小僧が、とんだ泣き虫だなあ」 ミューサもそばに来て、わしゃわしゃとエドの頭を撫で回す。
「ちが……姉さんの、せいじゃ……お、俺が……お使い、忘れたから……」
「もう、馬鹿ね。姉さんが本気で怒るわけないでしょう?」 タリアは優しく笑いながら彼の背中をぽんぽんと叩く。
「ほら、まず顔を洗って。そのあと、みんなでご飯にしましょう?」
彼女はエドの冷たくなった手を引き、小屋へと歩き出した。 夕闇に、灯りがともる。 まるで、幻夢の中で揺らめく、ひとときの温もりのように。
夕食の時間は、記憶にある通りの、穏やかで賑やかなものだった。
ミューサ師匠は相変わらず厚かましくタリアの家でタダ飯を食らい、誰よりも勢いよくがっついていた。
タリアはエドにスープをよそいながら、その食べっぷりに小言を言っていた。
この当たり前すぎる日常が、エドの目には、まるで一枚の薄い霧を隔てているかのようだった。胸が痛むほど懐かしく、それでいて、ひどく非現実的に映っていた。
「タリア姉さん……」
「ん? どうしたの、エドちゃん?」
エドは緊張しながら懐に手を入れると、星のような形をした淡い黄色の花——村では“星百合”と呼ばれるもの——を、そっと差し出した。
「これ……帰り道で見つけたんだ。姉さんに……似合うと思って……」
「わぁ! すごく綺麗なお花!」
タリアは目をきらきらと輝かせ、その花を大事そうに手のひらで包み込んだ。そのまま髪に挿そうとして——ふと、その手を止めた。
「……エドちゃん。ねえ、あなたが……私につけて、くれる?」
(ドクンッ!)
心臓が、大きく跳ねた。
タリアが、こんなにも艶めかしく胸をかき乱すような表情を見せるなんて、思ってもみなかったから。
「……う、うん……」
彼は微かに震える手で、その花を受け取った。
タリアは気を利かせてエドの前にしゃがみ込み、柔らかい髪を彼の目の前に差し出した。
ふわりと、淡い薬草の香りに少女の甘い体温が混じり、鼻の奥をくすぐった。。その香りに、くらりと眩暈がしそうだった。
エドは息を詰め、花を彼女の耳元の髪にそっと挿し込んだ。
淡い黄色の花びらが、深い紫の髪に映え、タリアの清らかな横顔に、何とも言えない優しさを添えていた。
タリアが顔を上げる。お互いの呼吸がはっきりと聞こえそうなほどの、至近距離。
その花のような甘い吐息に、エドの思考は真っ白に塗りつぶされた。
彼は、魂が抜けたようにタリアの唇を——柔らかく、瑞々しく、花びらのように微かに光るそれ——を見つめていた。
体が……自然と、彼女へと傾いていった。少しずつ、ゆっくりと、近づいていく。
(ドクン、ドクンッ!!!)
心臓が、まるで警鐘のように激しく鳴り響く。
(ま、待て! おれは何をしようと!? 相手は姉さんだぞ! おれが、そんな……!)
混乱と羞恥、そして抗えない渇望が渦を巻き、彼を我に返らせた。
「——わあっ!」
カッと顔が熱くなり、エドは火傷でもしたかのように勢いよく顔を背けた。耳まで真っ赤に染まっていた。
「ちっ、惜しいこった」ミューサが残念そうに舌打ちした。
「アンタは黙ってて!」タリアがムッと彼を睨みつけた。
彼女の指先が、無意識に耳元の花へと触れる——その目元が、隠しきれない喜びに綻んでいることにも気づかないまま。
彼女はエドに向き直り、優しく微笑みかけた。
「おいで、エドちゃん……今夜は、姉さんと一緒に寝ましょう? あの汗臭いオジサンは放っておいて」
エドは息を呑んだ。
もちろん、タリアと一緒に寝るのは初めてではない。
だが、“昔”の自分と、“今”の自分は、まったく違っていた。
あの悪夢のような惨劇を経て、彼はとうに理解してしまっていたのだ——
タリアに対する自分の感情が、決して単なる「家族のようなもの」ではなかったことに。
(姉さんと……一緒に……)
羞恥と罪悪感はまだ胸に残っていた。でも、今の彼には、それよりずっと——彼女に触れたいという願いが、すべてを覆い尽くしていた。
「……うん」
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