桜井 巌（享年70歳）の生涯：逆行転生前の魂の軌跡

これは、70年間の孤独と情熱、そして三つの大きな後悔に彩られた、桜井 巌という一人の男の物語である。

​I. 創世の時代（1960s - 1970s）：敗北と孤立

​アニメとの出会いと社会からの孤立

巌の人生は、テレビのブラウン管から放たれた光によって決定づけられた。少年期の彼は、まだ社会的に異端であったアニメという「神話」を追い求める探求者となり、現実の学校生活や友人関係から距離を置いた。アニメに関する百科事典的な知識量はすでにこの頃から片鱗を見せていたが、それは彼を「変わり者」として社会から孤立させる原因ともなった。

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最初の敗北（いじめっ子グループとの因縁）

中学時代、彼の趣味は同級生、特に佐伯翔を中心とするグループの嘲笑の的となった。陰湿ないじめに対し、彼は剣を抜く勇気を持たなかった。理屈では反論できても、感情的な衝突を極度に恐れ、ただひたすらに逃げ、隠れる道を選んだ。この時の屈辱と、己の弱さへの諦念こそが、彼の魂に刻まれた最初の「敗北」であり、転生後に彼に恋慕や保護欲を抱く佐伯たちを生む、歪んだ因果の始まりとなった。

​中原悠斗との依存的な友情

孤独な巌の才能（イラストや設定構築の能力）と、内面の闇を唯一受け入れてくれたのが、同級生の中原悠斗だった。悠斗は巌の持つ「特別な何か」に魅了され、巌もまた悠斗を「絶対的な理解者」として崇め、過度に依存する。この関係は、真の対等な友情ではなく、互いの孤独を埋め合う歪な共依存として深まっていった。

​II. 絶頂の時代（1980s - 1990s）：届かなかった告白（ロマンス）

​同人界の「神」として

青年となった巌は、同人界という名の戦場で筆を執り、独自の地位を築き上げた。彼の書く小説や評論は、神懸かった知識量と情熱に裏打ちされ、多くのファンを熱狂させた。「知」と「情熱」が彼の最大の武器であり、その名を同人界で轟かせた。

​高城玲奈との運命的な出会い

コミケの熱狂の中で、彼は生涯で唯一心から愛した女性、高城玲奈と出会う。彼女は巌と同じく才能に溢れた同人作家で、陽の光を纏ったような存在だった。玲奈の隣にいることは、長年孤独だった巌にとって何物にも代えがたい喜びだったが、同時に彼の抱えるコンプレックスを刺激した。

​「オタク仲間」の鎖

彼は、玲奈を失うことを極度に恐れた。「告白して、この居心地の良い関係が壊れること」を回避するため、彼は自身の恋愛感情を「オタク仲間」という仮面の下に封印し続けた。

​決定的な後悔

しかし、彼の奥手な姿勢と逡巡は、永遠のチャンスを奪った。玲奈は、巌よりも積極的で社交的な別のライバル作家の元へと去ってしまった。この瞬間、巌の心には「もし、俺が違う人間だったら、勇気を持っていたら」という、人生のすべてを否定するほどの強烈な後悔が刻み込まれ、転生後の「ライバル関係」として再演されることになる。

​III. 黄昏の時代（2000s - 2025s）：魂の断絶（フレンドシップ）

​情熱の衰退と孤独の常態化

時代はインターネットへと移行し、かつての同人界の熱狂は冷めていった。巌の創作意欲も衰退し、活動は規模を縮小。現実世界での孤独が常態化し、彼は老いていく自分の身体と、満たされない心を持て余す日々を送る。

​悠斗の結婚と絶縁

長年の親友であった中原悠斗が、人生の伴侶を得たことを報告する。巌は、自分の停滞と、人生の「正しい道」を進む悠斗を比較し、嫉妬と自己憐憫に囚われた。

​友情の決裂と執着の種

巌は、悠斗の幸福を素直に喜べず、彼からの連絡を拒否し、絶縁に近い形で関係を断ち切った。この一方的な「裏切り」にも似た行為は、悠斗に深いトラウマを残した。

​最期の瞬間

享年70歳。誰にも看取られることなく、独り。テレビから流れる国民的アニメその最終回のアニメテーマソングを聞きながら、彼は未練と後悔を抱え、静かに息を引き取った。

​魂の叫び＿＿＿。

彼の魂は、人生のすべてを否定する後悔と、誰にも届かなかった愛の言葉を叫び続けた。

​「もう一度、あの物語を、自分の手で書き直したい」

​その願いは、運命を捻じ曲げ、彼を最も遠い存在——16歳の美少女、「桜井みや」の器へと転生させた。

第一章：転生直後――二度目の春、八歳の身体で

​薄桃色のフリルがついた布団の中で、桜井 巌は目を覚ました。

​まず感じたのは、布団の繊維が頬に触れる、ひどく柔らかく、そして慣れない感触だった。次に、自分の意識よりもずっと早く、心臓が若々しく鼓動を打つ音。70年間連れ添った身体の重厚な軋みも、関節の痛む響きもない。そこにあるのは、軽さと、弾力、そして、幼い生命力だけだった。

​「…夢、か？」

​古い習慣で自らの胸元に手を当てた瞬間、違和感は確信に変わった。そこにあったのは、肉付きのいい中年の胸ではなく、小さく膨らみのない、華奢な骨格。手のひらを見れば、その指は細く、爪はまだ丸みを帯びた淡い色で、長年の同人誌制作で刻まれたペンダコ一つない。

​目線を変えて部屋を見渡す。そこは昭和のアパートの薄暗い六畳間ではない。清潔な木目の学習机、カラフルなキャラクターのぬいぐるみ、そして壁に貼られた、記憶にあるには新しすぎるアイドルグループのポスター。時代が逆行している。

​洗面台にたどり着き、鏡に映った自分を見て、巌（精神）は思わず息を呑んだ。

​そこにいたのは、瞳が大きく、肩までの柔らかな茶髪を持つ、紛れもない「美少女」だった。小学校の制服らしきものがハンガーにかかっている。身体年齢は、おそらく小学校二年生。

​「みや……桜井みや、か」

​喉から絞り出された声は、甲高く、ひどく頼りない。70年間の経験と知識を詰め込んだ頭脳と、この小さな器の間に、深刻なギャップが生じている。

​過去の三つの後悔が、津波のように押し寄せる。

​あの時、いじめっ子たちに立ち向かえなかった弱さ。一生分の勇気を持てずに告白できなかった高城玲奈への想い。そして、絶縁という形で親友である中原悠斗を裏切った孤独な結末。

​しかし、今は違う。この小さな身体は、まだ誰も傷つけていない。因果はまだ、凝り固まっていない。

​彼は、いや、彼女は、鏡の中の幼い瞳を見つめ返し、老練な決意を固めた。

​「やり直すだけでは足りん。この70年分の知識と、この身体を武器に、今度こそ、俺の物語を、正しく書き直すのだ」

​（この時期の悠斗は近所にいるはず。玲奈はまだ学年が上だが、どこかで活動しているかもしれない。翔たちはまだ小学生だろう。――まずは、最も近くにある過去の傷、悠斗との関係から修復を始める必要がある）

​美少女の顔に浮かんだのは、70歳の男が持つ、深い思慮と、強い覚悟だった。