沢尻夏芽

第1話

「おせっちゃん、これ、あげる」と言ったおりんの顔を、おせつは今でもはっきりと覚えている。


 今まで見たこともないくらい、ぴかぴかな顔をしていた。一点の曇りもない光った笑顔だった。


 だがそんなおりんを見て、なぜかおせつは小さく「ありがと」としか言えなかった。


 ――もっと、もっと……。


 言いたいことはあったのに、とおせつはおりんを思い出すたびいつも思う。


(なんで、どうして、そんな大切なもの、私にくれるの?)


 ――せめて、それだけでも言えていたなら……。


 おりんも何か答えざるを得なかっただろう。その答えが嘘であったとしてもいい。何かもう少し、言葉が欲しかった。


 だが、「あたしこれから用事があるから」と言ってぷいっと去ったおりんと一緒に消えてしまったあの時は、もう永遠に戻ってこない。


 鏡をおせつの両手にぎゅっと握らせたおりんの大きな手の暖かみも、もう帰ってこない。


 その翌日、おりんの一家は姿を消してしまった。


 いわゆる夜逃げである。


 幼かったおせつにも、そのことの重大さはぼんやりと理解できた。


 それからもう十二年になる。


 六つの頃は重く感じられていたその鏡も、十八になった今のおせつの手には軽くなった。


 安物の、玩具のような小さな鏡である。久しく研いでいないので、黒くくすんでしまっている。


 それはまるで今のおせつの心を表しているようでもあった。


 おせつの家は小さな蕎麦茶屋を営んでいる。一人娘のおせつは物心ついた頃から看板娘として両親と共に働いていた。


 小さなおせつが何かを運んで持っていくと「おう、ありがとな」と厳めしい顔をした男の人も笑ってくれる。


 おせつはそれが嬉しくて、仕事を嫌だと思ったことは一度もなかった。


 だが、そうすると自ずと遊ぶ時間は減ってしまうから、おせつには同年代の友達がいなかった。


 だから近所に住んでいた五つ上のおりんはおせつにとって貴重な友達だった。いや、ただ一人の大切な友達だった。


 日が暮れかけた夕方、少しだけ与えられた自由時間に、おりんはよくおせつと遊んでくれた。


 お手玉、あやとり、お化粧ごっこ……。鬼ごっこや影踏みも二人だけでよくやったのをおせつは覚えている。 


 特にお手玉はおせつのお気に入りであった。「一番はじめは一ノ宮ぁー」と歌いながらおりんはほいほい器用にお手玉をするのだが、おせつは二つ交互に上に投げるのに精一杯で、おりんのように歌おうとするといつもお手玉を地面に落としてしまう。


 それが悔しくて悔しくて、おせつはおりんを何度も練習に付き合わせた。


 だけど。


 ――あれは……。


 いつからだったか、急にお手玉をやらなくなった。


 だがなぜそうなったのか、思い出せそうで思い出せない。


「おい、かけ蕎麦一杯」


 店の入口からする男の声でおせつは我に返った。


「ああ、かけイチ、お願ーい」とおせつはいつもより大きく叫んだ。


 それでもおりんの想い出は容易に頭から離れそうにない。


 なんで急におりんちゃんのこと思い出したんだろ、と思いながらおせつは仕事に集中しようと努めた。


「なんでえ、どうした」


 店の入口に立っていたのは、常連の彦七だった。


「なんかあったか」


 どうしてそんなことがこの人にはわかってしまうんだろう、とおせつはいつも不思議に思う。口に出してないのに、辛かったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、日常で起こる些細な出来事によるおせつの心の変化を彦七は何故か敏感に感じ取る。


 一回りも年が違うせいかもしれない。岡っ引きをしているせいかもしれない。


 だが、そうではなくて、自分が彦七にとって特別な存在だからなのではないか、と、おせつは少しだけ、淡い期待をしている。


 いや、それはもうちょっとだけ、もうほんのちょっとだけ確かなものである気がする。


「何でもないよ」

 

 おせつは言った。


「何でもない」


「――そうか。しかし雨が降って急に冷えたな」


 彦七は濡れた着物の皺を引っ張った。ぱつん、と音がして飛沫がおせつの方まで飛んだが、彦七は多分そのことに気が付いていない。


「客は俺ひとりか」


 今日は雨で客の入りが少ない。だからおせつはしばらくおりんのことを考えていられたのである。


 もっと直截に言ってしまうと、暇だったのだ。


「店は困るだろうが、客としてはこんな静かな日も悪くねえや」


 彦七が傘を手に持って席に座る。


「彦さん、傘なら……」


「いや、性分でな。てめえのもんはてめえが持たねえと落ち着かねえんだ」


「あら、そうだったっけ。それは難儀なこと」


「いや、そのおかげで忘れ物はしねえんだがな」


「忘れっぽい私と大違いね」


 そう、おりんとの思い出も満足に思い出せない自分と、大違い。


 ふと、おせつの口から言葉がこぼれ出た。


「夜逃げ……」


「なんだ?」


「いや、夜逃げした一家はそのあとどうするのかな、と思って」


「なんだ急に」


 彦七は怪訝な顔をしている。


「……昔、知り合いが夜逃げしたことがあってね」


「どうなのかな、と思って」


「ふむ、夜逃げ……ねえ」


 彦七は懐から手ぬぐいを取り出して雨と汗で濡れた額を拭いた。そうしながら記憶の引き出しを探っているようである。


「どうなるにしろ悲惨だろうな」


「悲惨……」


 おせつの言葉の節々から、彦七はおせつの心の内にあるものをおぼろげながら感じ取っている。そのことは、今、彦七と向き合って話しているおせつ自身が一番良くわかる。


 であるならば、もう少し言い回しを考えても良さそうなものだが、彦七はそういうことをしない。嘘や誤魔化しが如何に空しいことかを知っているからである。そういうところが、彦七の良いところでもあり悪いところでもあるとおせつは思う。


「夜逃げ、か……」


 彦七は、ふぅーっと息を吐いて腕を組んだ。彦七が何か考えるときのくせである。


「夜逃げは……こう……、人の世の空しさというのが一番わかるな。一家が逃げるだけならいいが、妻や子を残して逃げる奴もいる」


「……それは……大変ねぇ……」


「婆ぁを置いてったのもあった。ありゃひでえな。七十を超す婆ぁがぽろぽろと涙を流すんだ。人のすることじゃねえな」


 その時、「できたぞー」とおせつの父親の声がした。やがてかけ蕎麦を持って母親が出てくる。


「なんだい、話してるだけかい、仕事しなよ」


 とおせつに向かって嫌みを言った。


「いやいや、客の相手も立派な仕事ですよ。おう、旨そうだ」


 と彦七は机に置かれるかけ蕎麦を見ながら言った。


「お婆ちゃんが……」


 おせつは彦七の話にまだ衝撃を受けている。


「お婆ちゃんは……そのあとどうなったの?」


「彦さん、食べられないじゃないかい」


 とおせつの母親が帰りしなに言う。それを聞いて「いやいや、まだしばらく熱いだろうから」と彦七。


「心配すんな。その婆ぁは近所のもんが世話をしたよ」


「ああ、そう、良かった」


「人の世は鬼ばかりじゃねえって」


 嘘ではない。しかし、それから二ヶ月もせずにその老婆は死んだのである。が、そこまで言うほど彦七は馬鹿ではない。


「世の中悪ぃ奴は本当に一握りだと俺は思うよ。家を持って、ちゃんと生活している奴とかな、少々食えなくてもそういう情には厚いもんだ」


「そういうもんかな」


 だとしたら、おりんの一家は何故逃げなければならなかったのか。一握りの悪は世間の情を押しのけるほど強い力を持っているのか。おりんの一家が夜逃げすることを知っていたら、自分はどうしただろうか。自分の両親に言ったら、両親はどうしただろうか。


 彦七は続けた。


「そういうもんよ。金が無ぇって、色んなもの我慢してるから、他人の痛みも良くわかるわけよ。酒を飲まねえ、博打にも手を出さねえ、そういう奴なんか特にな、我慢を知ってる分、情に厚いんだ」


「そういうもんかなぁ――」


 おせつは、宙を見上げた。


 酒も博打も我慢できるような人間だから、他人に優しいのか、はたまた、他人に優しい人間だから、酒も博打も我慢できるのか。


「彦さんは酒も博打もしないね」


「――そうだな」


 そう言うと、彦七はまた腕を組んでそれきり黙ってしまった。


 まだ手が付けられていない蕎麦を見ておせつは何か言おうとしたが、何も言葉が出てこなかった。


 雨が板張りの屋根を打つ音が、耳に心地よく響く。


 しばらくして、


「嫁に、来ないか」


 と彦七はぽつりと言った。


 もしあれば、それは今日かもしれない、と心のどこかでおせつは感じていた。


 客は彦七ひとり。二人きりの会話。


 男と女の関係になっていたわけではない。店の外で会ったことすらない。だが、突然、こういう事を言う。


 あれはいつだったか、一度だけ、髪の結い方を変えてみたことがあった。その頃若い女の間で流行っていた、髷を上の方で蝶々のように結び簪で止めるやり方で、一度その髪にしてみたいと言うと母親が時間をかけ苦労して結ってくれた。


 が、その髪で店へ出たら、馴染みの客皆に笑われた。父親まで、「子供が背伸びして」と言って笑った。おせつはそれでも笑顔を作って蕎麦を客に運んでいたが、心の内では、早々に髪をほどいて、床に入って一日中泣いていたい気分だった。


 彦七はその日も店に来ると、おせつの話題で笑っている客達を尻目に、いつもと何ら変わらない、という風に蕎麦を頼んだ。


「彦さん、おせっちゃんが今日は何やら色気づいてますよ」


 と、客の誰かが言った。


「ぼたもち結い、って言うらしいですよ旦那、頭に潰れたぼたもち乗っけてるみたいだから」


 と、別の客が笑って言った。


 しかし、彦七は


「ほう、綺麗じゃないか」


 と、平然として言った。


 本当に、彦七は、時々、場や雰囲気をわきまえず、おせつの驚くような言葉を言う。おせつの心の内を察してのことなのか、あるいは何も考えていないのか。 


 あれ以来、二度とその髪型に結ったことはない。照れて頬染めたおせつを見た客に、「やあ、これが本当の牡丹餅だ」なんて言われるのは、もうまっぴらごめんだ。

 

「……いつまでもここで働いているわけにもいかねえだろ」


 顔を赤らめながら彦七はそう言った。


「私がここでずっと働きたいって言ったらどうする?」


 おせつは平静を装って訊いた。


「そりゃ、それでも俺は構わねえよ」


 と彦七は蕎麦を箸でつついた。


「只蕎麦が食えるんなら」


「それじゃ店がつぶれるから嫌だよ。彦さん毎日蕎麦ばかり食べるんだもの」


「いや、金は払っても良いが……」


 問題はそんなことじゃない。それはおせつも良くわかっている。


「まあ、一晩考えてくれねえか」


 と言うと蕎麦も食わずに勘定を机に置いて彦七は店を出た。手ぬぐいも机に置いたままだった。


「あらあら目出度いわ」


 と言う母親の声が店の裏で響いた。


 ――ああ……。


 秋のせいだ、とおせつはその夜納得した。


 おりんといつも遊んだ夕暮れ時の、あの寂寞とした感じ。


 日の出る時間がだんだん短くなり、気温も下がってくるこの季節も、やはりあの何とも言えない寂しさを感じてしまう。


 それは一年のうち秋が夕暮れ時にあたるからなのか、秋の夕日が特に映えて冴え渡るからなのか。


 とにかくおせつにとって夕暮れと秋は同質なものなのである。


 そして、夕暮れとおりんの想い出もまた、おせつの頭の同じ場所に住んでいる。


 だから、だから……。


 鏡。


 あれをもらったのも確か秋だった。


 お手玉。


 あれは春のことだったか、秋のことだったか……。暑くもなかったし寒くもなかったのは間違いないけど。


 ――見てるだけなんだから……。


 そんなに楽しくもなかっただろうに、とおせつは今振り返って思う。


 それでも、おりんは不満を言わずにおせつの練習に付き合ってくれた。


 それから……。


 ――急に布のお手玉が小石に変わったんだ。


 おせつはお手玉をしなくなった理由を思い出した。


「なくしちゃったよ」とその時おりんが言っていた。


 今はおせつにもその本当の意味がわかる。


 お手玉の中身は、ひえか、小豆か、大豆か、何か食べられるもの。


 つまり、その時既におりんの家の家計はそれほど切迫していたのだ。


 翌朝、店が開いてすぐに彦七は店に来た。


「手ぬぐい忘れたでしょう」


 と、おせつが昨晩洗って干しておいた手ぬぐいを手渡したが、彦七は


「で、どうだ」


 と落ち着かない様子である。


「一晩……考えたけど」


 待っていたおせつが彦七を真っ直ぐ見つめる。


「で、どうだ」


 と彦七はもう一度訊く。


「考えたのは彦さんのことじゃないよ」


 おせつは笑った。予期せぬ言葉に


「あ?」


 と彦七はぽかんと口を開けた。


「答えは最初から決まってたんだもの」


 おせつはその彦七の顔を見てもう一度笑った。


「一晩待つことなかったのに。ずっとここで働いても良いんでしょ」


 その、昼のことである。


 一目で「それ」とわかる女が店の前を歩いた。


 おせつはその女が通り過ぎてから気付いた。


 ――あれは、おりんだ。


 化粧をしたおりんは昔の無垢な笑顔ではなく艶めいた女の微笑みを持って歩いていた。


 隣に羽振りの良さそうな男を連れて。


 あんな小さな鏡は、おりんにはもう必要なくなった。


 今はもっと大きな鏡を、自分を飾るために、自分の女を映えさせるために、使っているのだろう。


「鏡、ありがと、ありがと、おりんちゃん」


 とおせつは見えなくなったおりんに小さく言った。


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