第二章 新しい世界の香り
何年振りかの世界
「結…… 結……!」
遠くで私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「早く…… 結……!」
どうしてそんなに焦っているんだろう。私は…… えっと…… 何をしていたんだっけ……
「ほら、もうやっちゃうわよ」
何を始めるんだろう……
あぁ、そうだ。私は今、眠ってるんだ。ここは夢の中で、頭の中で響いている声は、えっと…… 「精霊」とか言ってた子たちで、それで…… あぁ、そろそろ起きなきゃ……
私は上手く開かない瞼をゆっくりと持ち上げる。しかし目の前には何かがいた。文字通り、目の前に。そしてそいつは、私の目に向かって嘴を……
「うわああああああああ!!!!」
私は思わず布団を蹴飛ばした。布団と一緒に、五匹ほどの何かが向こう側へ吹っ飛んでいく。
私は胸に手を当てる。心臓がバクバクと動いている。耳の奥で鳴り響いている。うるさい。すごくうるさい。煩わしい。……でも、痛くはない。
「……やっと起きたわね。さっさと支度しなさい」
視覚を司る精霊、フクロウが私の頭上付近で羽ばたいていた。さっきの私の目を突こうとしたのも、この子だろう。
吹き飛ばされた子たちがまちまちに私の近くへ戻ってきた。コウモリ、ウサギ、キツネ、タヌキ……
私の五感の感度を下げてくれている、神様みたいな子たち。昨晩、涙ながらに感謝を伝えたばかりだというのに、思い切り吹っ飛ばしてしまって申し訳なく思う。
で、どうして私はさっさと支度をしなきゃいけないんだろう。何かあったんだろうか……?
私はふと時計を見る。……そしてぎょっとした。
「…………三十分も寝坊したあああああ!!!」
感覚過敏症を発症してからというもの、目覚まし時計なんてものは使ったことがなかった。どうせ朝になれば同居している家族が音を立て始めるし、外が騒がしくなる。それは一人暮らしを始めても同じだった。大家さんは静かに生活をするタイプだけれども、隣の八百屋さん夫婦は朝早くからいつも元気だ。活動量も、声量も。
それが今日は、まったく物音に気付かずに熟睡していたようだ。早く会社に行くことはあっても、こんなギリギリに目が覚めるなんてありえなかった。大慌てで支度をする。でもなんだか、幸せな失敗だとも思った。
何年振りの熟睡だろうか。中学二年生からずっとまともに眠れていなかったのだ。寝坊して慌てる、なんて漫画の世界の話とすら思ってたほどだ。
ご飯を食べる余裕なんて当然ない。慌てて黒のサングラス・イヤーマフ・マスクを手に取り、転げるようにして職場へと向かった。
さすがに電車を待つ余裕はない。始業時間まであと十分。走ればギリギリ間に合うだろうか?
落ち葉を踏みつけながら、朝の町を走る。時々車は通るのにやけに細い道を、私は自分にとっての全速力で駆け抜ける。
足元で鳴る音が心地よい。ザクッザクッ。小学生の頃は、それだけで楽しくて何度も踏みつけて遊んだものだ。そういえば空が高い。秋空だ。こんな風に空を見上げたのも、何年振りだろう。こうやって走ることもとても久しぶりだ。心臓の音がうるさくて耳がやられ、汗で肌が赤くなり痒みを帯びてしまうからだ。でも今は、自分の鼓動が生きている証に感じられて、汗さえも高揚感を誘うスパイスとなっていた。
痛くない世界。
もう私は、世界から拒絶されていない。
そう思えることが、何よりも幸せなことだと思った。
□ □ □
「……で、君が寝坊だなんて珍しいね?」
「はい…… すみません……」
結局、遅刻した。しかも十五分の遅刻。途中で走り疲れたと同時に、普段運動していなかったつけが回ってきたのか、そのまま眩暈と吐き気と過呼吸で動けなくなってしまったのだ。霞む視界の中をふらりふらりとゆっくり歩き続けたら、こんな時間になっていた。
さすがの上司も、血の気が引いた顔の私を見て怒る気にもならないのだろう。休憩室にいくかと尋ねられたが、それは断って自分の座席へと向かった。
「大丈夫か……?」
椅子に倒れこむようにして座った私を、コウモリが不安げに覗き込んだ。私は返事をするよりも前に、備長炭が入ったピッチャーの水を一口だけ含んだ。あぁ、生き返る…… 私のこの水、こんなにおいしかったんだなぁ……
パソコンの電源をつけて、起動するまで目を瞑る。心臓の高鳴りはだいぶ落ち着きはしたものの、徐々にそれが頭の圧迫感と共に痛みに変化してきた。思わず顔をしかめる。
もう一口だけ、水を口に含んだ。喉を水が通る音が、頭の中で響く。頭の圧迫感が、徐々に増す。
私は耐えきれずに、腕を枕にするように机に突っ伏した。少しだけ世界が回るような感覚がする。でも大丈夫。この程度なら、もう少しこうして突っ伏していれば、戻る。大丈夫。大丈夫……
「…………さん」
誰かの声が聞こえる。誰だろう。精霊たちの誰かだろうか。
頭を上げようとするが、肩にも背中にも上手く力が入らない。むしろ頭を更に腕に押し付けるような形で、ややバランスを崩してしまう。
早く顔を上げなきゃいけないのに、思うように体が動かない。どうしよう。どうにかしなきゃ……
そう思っていると、ふわりとした感触が肩と背中に触れた。ガーゼみたいな肌触り。柔らかで、軽くて、少しだけ外の冷たい空気を遮ってくれる、そんな感覚。
「高瀬さん」
私の名前が呼ばれた。誰だろう。
「高瀬さん。ゆっくり息を吐いてください。本当に、ゆっくりで大丈夫です」
誰かは分からない。それでも頭がぐるぐるしている状態では何も考えられない。言われた通りに、ゆっくりと、細く、長く、息を吐く。もう一度軽く息を吸って、同じように息を吐く。
目が回る感覚がゆっくりと和らいできた。頭の圧迫感も少しだけ薄れてきた。代わりに目の奥にやや熱感が籠る感覚が湧き上がってくる。その熱を冷ますように、息を吸って、吐いてを繰り返す。
ようやく、落ち着いてきた。首と肩に力を入れられる程度には、回復したようだ。
私はゆっくりと頭を上げると、そこには夏原さんがしゃがみこんでいた。椅子に座っている私よりも、夏原さんの目が低い位置にある。そんな夏原さんと目が合った。
「落ち着きましたか?」
穏やかで落ち着いた声。先ほども話しかけてくれていたあの声。声色も表情も、ほとんど変わらない人。それでもその目の奥に心配の色が宿っていることは、私でも分かった。途端に申し訳ないとも思う。
「……すみません。ご心配をおかけしました」
私はいつの間にかブランケットを掛けられていた。そのことに気づき、私が慌ててそれを畳もうとすると、夏原さんが手のひらを見せて制止してきた。
「今は羽織っておいた方がいいですよ。僕は大丈夫なので、いらなくなったら返してください」
そういってすっと夏原さんは立ち上がった。そのまま表情一つ変えることなく自分の席へと戻っていく。
私はブランケットを羽織り直す。温かいわけではないのだけれど、このくるまれている感じが…… やっぱり温かい。
私はゆっくりと息を吐いた。もう頭痛もどこかへ消え去り、仕事はこのまま行えそうだ。時計をチラリと見る。十分程度の出来事だったらしい。そんなに長い時間倒れこんではいなかったようだ。……いや、良くはないのだけれど。
さぁ、ほどほどに頑張るぞ、とキーボードへと手を伸ばす。そんな私の目の前にウサギが嬉しそうにやってきた。
「結! フワフワ! 気持ちいいねー♪」
…………は?
「そのブランケットねー。とってもいい感じがするー♪」
ウサギが嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。この子は一体何を言っているんだろう。
確かにこのブランケットは、フワフワだし、肌触りがいいし、心地よいし、後でどこで買ったのか聞こうかな、なんて思ったりもしてたけど…… でもどうしてウサギがここまで喜ぶのかが、わからない。
「しかも、悪くない香りだ」
キツネまで机に上がってきた。しかも、意味の分からないことを言っている。香り…… 香り……?
そんなふうに言われると…… 気になってしまう。ブランケットを、周囲にバレないようにそっと鼻に当てる。
確かに、ほんのりと石鹸の香りがする。洗い立ての香り。太陽の香り。柔軟剤は使っていないのだろう。あの香りが苦手な私にとって、このブランケットはありがたい以外の何物でもない。
……いや、だから、何?って話でさ。
「あとで、しっかりと丁寧に返しに行かないといけないね?」
フクロウがわざわざ夏原さんの近くにまで飛んで行って、私の視線を誘導した。
…………うん。わかってるよ。だから! 何なのよ……!!!
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