第8話 私、通りすがりの外科医です
駅前のロータリーで、男が倒れた。
スーツ姿の中年男性。
顔は真っ青で、呼吸も浅い。
「誰か!救急車を呼んで!」
「AEDはどこだ!?」
「誰か、医者はいませんか!?」
人だかりができる中、誰もがスマホを握りしめ、ただ立ち尽くしていた。
そのときだった。
「すみません、通してください!」
人混みをかき分けて現れたのは、白衣姿の女性だった。
年の頃は三十代前半。
髪はひとつにまとめられ、眼差しは鋭い。
「脈はある。意識は……なし。すぐに横にして、頭を少し高く。あなた、そこのバッグからタオルを借りてもいいですか?」
誰もが言われるがままに動いた。
彼女は手際よく応急処置を施し、数分後には男の呼吸が落ち着いてきた。
「大丈夫、もうすぐ救急車が来ます。意識も戻るはずです」
周囲から拍手が起こった。
誰かが聞いた。
「先生、どちらの病院の方ですか?」
女性は、少しだけ微笑んで言った。
「私、通りすがりの外科医です」
そう言って、彼女は人混みに消えていった。
*
その日から、町では“通りすがりの外科医”の噂が広まった。
「昨日、商店街で子どもが転んだときも現れたらしいよ」
「公園で犬がケガしたときも、白衣の女性が手当てしてたって」
「でも、どこの病院にもそんな人いないんだってさ」
まるで都市伝説のように語られる彼女。
誰も連絡先を知らず、写真も撮れていない。
でも、確かに存在していた。
あのとき、命を救ったのだから。
*
数週間後、僕は偶然、彼女を見かけた。
駅のホームで、ベンチに座って文庫本を読んでいた。
「……あの、あなた、あのときの……」
彼女は顔を上げて、少し驚いたように笑った。
「覚えててくれたんですね」
「もちろんです。あのときは、本当にありがとうございました。あの人、無事に退院したそうです」
「それはよかった」
「でも、どうしてあんなところに? しかも、あんなに手際よく……」
彼女は本を閉じて、立ち上がった。
「私、旅してるんです。いろんな町を回って、いろんな人を見て、いろんな命に触れたくて」
「旅……?」
「ええ。病院にいると、患者さんは“患者”でしかない。でも、外に出れば、みんな“誰かの人生”を生きてる。私は、それを見たいんです」
電車がホームに滑り込んできた。
彼女は乗り込む前に、僕の方を振り返って、にっこり笑った。
「また、どこかで会うかもしれませんね」
そして、ドアが閉まる直前、彼女は言った。
「私、通りすがりの外科医です」
電車が走り去ったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
風が吹いて、彼女の残した言葉だけが、耳に残っていた。
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