第8話 私、通りすがりの外科医です

駅前のロータリーで、男が倒れた。

スーツ姿の中年男性。

顔は真っ青で、呼吸も浅い。


「誰か!救急車を呼んで!」

「AEDはどこだ!?」

「誰か、医者はいませんか!?」


人だかりができる中、誰もがスマホを握りしめ、ただ立ち尽くしていた。

そのときだった。


「すみません、通してください!」


人混みをかき分けて現れたのは、白衣姿の女性だった。

年の頃は三十代前半。

髪はひとつにまとめられ、眼差しは鋭い。


「脈はある。意識は……なし。すぐに横にして、頭を少し高く。あなた、そこのバッグからタオルを借りてもいいですか?」


誰もが言われるがままに動いた。

彼女は手際よく応急処置を施し、数分後には男の呼吸が落ち着いてきた。


「大丈夫、もうすぐ救急車が来ます。意識も戻るはずです」


周囲から拍手が起こった。

誰かが聞いた。


「先生、どちらの病院の方ですか?」


女性は、少しだけ微笑んで言った。


「私、通りすがりの外科医です」


そう言って、彼女は人混みに消えていった。



その日から、町では“通りすがりの外科医”の噂が広まった。


「昨日、商店街で子どもが転んだときも現れたらしいよ」

「公園で犬がケガしたときも、白衣の女性が手当てしてたって」

「でも、どこの病院にもそんな人いないんだってさ」


まるで都市伝説のように語られる彼女。

誰も連絡先を知らず、写真も撮れていない。

でも、確かに存在していた。

あのとき、命を救ったのだから。



数週間後、僕は偶然、彼女を見かけた。

駅のホームで、ベンチに座って文庫本を読んでいた。


「……あの、あなた、あのときの……」


彼女は顔を上げて、少し驚いたように笑った。


「覚えててくれたんですね」


「もちろんです。あのときは、本当にありがとうございました。あの人、無事に退院したそうです」


「それはよかった」


「でも、どうしてあんなところに? しかも、あんなに手際よく……」


彼女は本を閉じて、立ち上がった。


「私、旅してるんです。いろんな町を回って、いろんな人を見て、いろんな命に触れたくて」


「旅……?」


「ええ。病院にいると、患者さんは“患者”でしかない。でも、外に出れば、みんな“誰かの人生”を生きてる。私は、それを見たいんです」


電車がホームに滑り込んできた。

彼女は乗り込む前に、僕の方を振り返って、にっこり笑った。


「また、どこかで会うかもしれませんね」


そして、ドアが閉まる直前、彼女は言った。


「私、通りすがりの外科医です」


電車が走り去ったあと、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

風が吹いて、彼女の残した言葉だけが、耳に残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る