言ってみたかった、あの一言。

aiko3

第1話 ここからここまで全部ください

商店街の外れに、奇妙な店ができた。

看板には「選択屋」とだけ書かれている。雑貨屋でもないし、古本屋でもない。中を覗いてみると、棚には何も並んでいない。ただ、白いカウンターがぽつんとあるだけだった。


「いらっしゃいませ」

店主は、年齢不詳の男だった。白髪混じりの髪を後ろで束ね、黒いシャツにベージュのエプロン。どこか品のある雰囲気だが、目だけは妙に澄んでいて、見つめられると少し落ち着かない。


「ここは何の店ですか?」

「選択を売る店です」

「選択?」

「はい。あなたが選ばなかったもの、選べなかったもの、選び損ねたもの。そういう“選択肢”を、ここでは取り扱っています」


意味がわからなかった。

だが、店主は慣れた様子で、カウンターの奥から一冊の分厚いファイルを取り出した。


「これは、あなたの人生で通り過ぎた選択肢の記録です。たとえば、あの日告白していたらどうなっていたか。あの会社に入っていたら、どんな未来があったか。そういう“もしも”を、ここでは体験できます」


「体験できるって……」

「ええ。選んでいただければ、五分間だけ、その選択肢の世界を味わえます。もちろん、現実には影響しません。あくまで“体験”です」


男はページをめくった。そこには、見覚えのある場面が並んでいた。

中学の文化祭で、演劇部に入るか迷った日。

大学のゼミ選びで、人気の教授を避けた日。

就職活動で、内定を断った会社の名前。


「これ……全部、僕の人生の分岐点?」

「そうです。あなたが選ばなかった道です」


興味が湧いてきた。

「じゃあ、大学のときのゼミ、あの人気教授の方を選んでいたらどうなってたか、見てみたいです」


店主はうなずき、カウンターの下から小さな装置を取り出した。

「目を閉じてください。五分間だけです」


目を閉じると、世界が揺れた。



そこは、見知らぬ研究室だった。

壁には論文がずらりと並び、学生たちが活発に議論している。

自分はその中心にいて、教授と英語で話していた。

どうやら、海外の学会に招待されたらしい。

研究が評価され、論文が雑誌に載った。

自分は、研究者としての道を歩んでいた。


五分後、目を開けると、店に戻っていた。


「どうでしたか?」

「すごかった……まるで本当に体験したみたいだ」

「それが“選択屋”の技術です」


それから、何度も通った。

告白していたら、結婚していた未来。

あの会社に入っていたら、海外赴任していた未来。

演劇部に入っていたら、舞台俳優になっていた未来。


どれも魅力的だった。

だが、現実には戻ってくる。

今の自分は、平凡な会社員で、特に目立った成果もない。


ある日、ふと思った。

「この店で、全部の選択肢を体験したら、どうなるんですか?」


店主は少しだけ笑った。

「それは、誰も試したことがありません。ですが……理論上は可能です」


「じゃあ、やってみたいです。ここからここまで、全部ください」


店主は目を細めた。

「覚悟はありますか? すべての“もしも”を知るということは、今の自分を見つめ直すことでもあります」


「構いません。全部、見てみたいです」


店主はうなずき、ファイルを開いた。

「では、始めましょう。長い旅になりますよ」



それから数時間、いや、数日だったかもしれない。

自分は、無数の人生を体験した。

画家になった人生。

政治家になった人生。

無職で路上生活をしていた人生。

事故で早くに亡くなった人生。

幸せな家庭を築いた人生。

孤独に生きた人生。


どれも、自分だった。

どれも、選ばなかった道だった。


最後の体験が終わり、目を開けると、店主が静かに立っていた。


「どうでしたか?」

「……全部、僕だった。でも、どれも“今”じゃなかった」


店主はうなずいた。

「選ばなかった道は、魅力的に見えるものです。でも、あなたが今ここにいるのは、あなたが選んできた結果です」


「そうですね……」

自分は、深く息を吐いた。

そして、カウンターの前に立ち、静かに言った。


「ここからここまで、全部ください。……でも、やっぱり、今の人生が一番です」


店主は、初めて少しだけ笑った。

「それが、最高の選択です」


外に出ると、夕焼けが街を染めていた。

風が頬を撫でる。

商店街の喧騒が、どこか懐かしく感じられた。


自分は、歩き出した。

選んできたこの道を、もう一度、誇りを持って。

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