桜色の約束

もとなん

第1話 始まりの光

藤代(ふじしろ)学園の合格通知書を初めて開いたあの日から、羽宮 結衣(はねみや ゆい)の胸には、期待と不安という二つの相反する感情が、まるで振り子のように揺れ続けていた。

藤代学園は、彼女が住む地域では少しお嬢様学校的なイメージがあり、何より「制服が可愛い」と評判の私立校だ。地元の中学校で地味な三年間を過ごした結衣にとって、それは新しい自分になれるかもしれない、最後の希望の場所のように感じられた。

しかし、その期待はすぐに不安に塗り替えられる。結衣は人見知りが激しく、自分から話しかけることが苦手だ。中学校時代も、本当に親しい友人は片手で数えるほどしかいなかった。

(高校でも、もし、誰も話しかけてくれなかったらどうしよう……)


 入学式前夜、結衣は自室の床に広げた新品の制服をじっと見つめていた。白を基調としたセーラー襟に、桜色を思わせる淡いピンクのチェック柄スカート。リボンは結び方を練習したが、何度やっても鏡の中の自分は、制服に「着られている」感じがした。雑誌のモデルたちが纏う、垢抜けた可愛らしさとは程遠い。

「明日から、本当に、大丈夫かな」

結衣はそっと、スカートの柔らかな生地を指先でなぞった。明日、この制服を着て、見知らぬクラスメイトとどうやって笑い合えばいいのだろう。


 翌朝、四月八日。快晴の空の下、藤代学園の正門へと続く緩やかな坂道は、満開の桜並木になっていた。

「すごい……」

結衣は思わず立ち止まる。桜のトンネルを抜けてくる柔らかな光が、新品のローファーと、慣れないために少しだけぎこちない歩調を照らしていた。

周囲には、すでに制服を着こなした新入生たちが何人も歩いている。ショートカットを綺麗に整えた子。明るいブラウンに髪を染めた子。スカートの丈を絶妙に短くしている子。皆、一様に楽しそうで、堂々としていた。結衣は自然と、肩をすくめて歩幅を狭くする。自分だけが、この華やかな空間にそぐわない「借り物」のようだ。

体育館へ向かう途中、結衣は自分のクラスとなる「1年B組」の表示を見つけた。教室棟の4階だ。


 教室に入ると、すでに半分ほどの席が埋まっていた。窓は大きく、入ってくる風が淡いカーテンを揺らしている。

結衣は掲示された座席表で自分の名前を探した。

「羽宮 結衣……っと。えっと、一番後ろの、窓側から二番目」

席は教室の最も奥。人から注目されにくい場所で、少しだけ安堵した。

席に着き、真新しい教科書と文庫本を一冊、机の上に並べる。こうして自分のテリトリーを作ると、少しだけ落ち着く。

しかし、隣の席はまだ空いていた。誰が来るのだろう。明るい子だろうか、それとも同じように静かな子だろうか。結衣は緊張で、椅子の背もたれにわずかに体重を預けた。


 入学式が終わり、生徒たちは再び教室に戻ってきていた。

担任の中村先生が事務連絡と簡単な自己紹介を済ませ、自由時間になった途端、教室は一気に活気づいた。「ねえ、どこの中学?」「リボン可愛いね」と、まるで待ち合わせをしていたかのように、あちこちで会話の輪ができ始める。

結衣は、やはり輪に入れなかった。

彼女は俯きがちに、昨日から読んでいた文庫本のページを開く。活字を追うふりをしながら、周囲の賑やかな声が、自分の孤独を強調しているように感じていた。

(やっぱり、私には無理かもしれない。新しい自分なんて、簡単には……)

諦めにも似た気持ちが湧き上がった、そのときだった。

ガタン、と大きな音がして、教室のドアが開いた。

「すみませーん! 遅れました!」

現れたのは、息を切らした一人の女子生徒。

志水 咲来(しみず さくら)。

彼女は太陽の光を浴びたばかりのように、まぶしかった。淡いピンクのチェックのスカートを颯爽と揺らし、髪は肩に届かないくらいの明るいボブ。着崩してはいないのに、制服を最高に可愛らしく、そして自分らしく着こなしている。

そして何より、その笑顔。

困ったように眉を下げているのに、口角はしっかり上がっていて、光が差し込んだように教室の空気を一変させた。

中村先生が軽く注意を与え、咲来は「はーい!」と元気よく返事をした。彼女の視線が、空席の場所を探すように教室を巡り――

そのまま、結衣のすぐ隣の席で止まった。

 咲来は少し汗を拭いながら、荷物を机に置いた。

「私、志水咲来です。もしかして、羽宮さん? よろしくね!」

彼女は手を差し出してきた。その仕草は、まったく遠慮がないのに、不思議と嫌みがなかった。

結衣はドキドキしながらも、その手を握った。咲来の手は、ほんの少し温かかった。

「は、羽宮 結衣、です。よ、よろしく……」

結衣の声は、緊張でか細くなってしまったが、咲来は気にせず、ただ優しく微笑んだ。

「 結衣ちゃんって呼んでもいい?」

その屈託のない言葉に、結衣の胸に抱えていた厚い氷が、少しだけ溶け始めた気がした。不安でいっぱいの入学初日、結衣の隣に、最も明るい「始まりの光」が座ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜色の約束 もとなん @motonan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ