もう離さない・・・目覚めたあなたへ
南條 綾
もう離さない・・・目覚めたあなたへ
病室のドアを開ける瞬間、いつも胸の奥がきりきり痛む。
廊下の蛍光灯がチカチカしていて、その白い光がやけに冷たく見える。
ドアノブに触れた指先は、今日も震えていた。
今日こそ何かが変わってほしいって願うくせに、頭の中では最悪な光景ばかり並べてしまう。
病室に入る一歩目がどうしても重い。
5年と少し。
ほぼ毎日続けている「面会」という名前の、ほとんど祈りみたいな日課。
最初の頃は、消毒液の匂いを嗅ぐだけで吐きそうになってたのに、今はもう鼻が麻痺して何も感じなくなった。
人間って、どんな地獄にも慣れるんだなって、ここに来るたびに思う。
ドアを閉めて、小さく息を吐く。
モニターの電子音が一定のリズムで鳴っていて、それがこの部屋の時計みたいだった。
ベッドの横の椅子に腰を下ろす。
いつもの位置。
栞が右手で私の髪をくしゃっと撫でてくれたとき、一番近くにいられる場所。
気づけば、ここが私の定位置になっていた。
「……おはよう」
今日も、いつも通り声をかける。返事はないけど、それでいい。
返事がなくても、私は毎日話しかけるって決めたから。
それをやめたら、全部終わっちゃう気がするから。
窓の外にふと目をやる。
カーテンの隙間から、どんより曇った空が見えた。
そういえば、もう冬だったんだなって気づいた。
5年前の事故の日も、こんな空だった。
あのとき、私はあなたの手を握れなかった。
救急車の中で、意識を失っていくあなたを、ただ見ていることしかできなかった。
涙でぐちゃぐちゃになりながら名前を呼ぶ私に、栞は震える声で言った。
「綾、怖いよ……死にたくない。綾と……一緒にいたい……」
その声が、今でも耳の奥でずっと鳴ってる。
時間が経っても薄まるどころか、むしろ鮮明になっていく。
ごめんね。あのとき、もっと強く握ればよかった。
「離さない」って、ちゃんと言えばよかった。
そうしてたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのかもしれないって。
考えても仕方ないって分かってるのに、頭の中ではそのことばっかり浮かんできていた。
私は指先で、あなたの頬をそっとなぞる。
ほんの少し、痩せた気がするけど、肌の柔らかさは変わっていない。
5年前にキスした場所。
ここに唇を押し当てると、あなたはいつも「くすぐったい」って笑ってくれた。
あの笑い声が、喉の奥に刺さったまま抜けない。
私のほほから涙が一粒、栞のおでこに落ちた。
そういえば、なんだか今日は何かが違う気がする。
そうだ、手のひらに伝わる体温が、いつもより少しだけ高い気がする。
「……ねぇ」 震える声で、そっと呼びかける。
「今日も来たよ。昨日、私が言った続き、覚えてる? 目覚めたらさ、絶対一緒に温泉行こうって、約束したよね」
口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
こんな約束、普通なら成り立たないって分かってるんだけど。
それでも、約束しないと、未来のことを言わないと、壊れちゃいそうなの。
それでもできるだけ涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。
最初に見せるのが泣いたブスな顔を見せるのが嫌だったし。
栞が目を覚ましたとき、一番最初に見せたいのは笑顔を見せたいって思うじゃん。
いつも通りの私で「遅いんだよ、お寝坊さん」って強がってさ。
全然強くないのにね。
でも、ダメだった。
涙が自然と溢れてしまう。
こんなに彼女を泣かす栞が悪いんだよ。
「寒いよね。もうすぐクリスマスだよ。あのときみたいに、ツリー飾りたいな……」
あの時は、一緒に買い物して、どっちのオーナメントがダサいかで笑ったクリスマスでさぁ。
キラキラ光るツリーの前で、少しだけ背伸びしてキスしたんだっけ。
周囲の目がある中でよくやったよね。
それが、今は病室の白い壁越しに見える遠い夢みたいに感じる。
ふと絡めていたあなたの指が、ほんの少し動いた気がして、胸がドキッとした。
……え?
一瞬、頭の中が真っ白になる。
幻覚だ。
きっとそう。
だって5年間、一度だって動いたことなんてない。
何度も「動いた気がした」って思ったけど。
そのたびに医者にも看護師さんにも「変化はありませんよ」と優しく首を振られてきた。
でも今確かに、今だけは違った。
栞の指が、弱々しく、でもはっきりと、私の指をぎゅっと締めつけた。
息が止まる。 視界がぐにゃっと歪む。 心臓の鼓動が、耳の中で爆音みたいに響く。
「……嘘」
掠れた声が、勝手に口からこぼれた。
「嘘でしょ……?」
まつげが震えた。
信じたくないのに、期待が一気に膨らんで、怖くなる。
ゆっくりと、ゆっくりと。
5年ぶりに、栞の瞳が開いていく。
乾いたまぶたの隙間から現れたのは、焦点の定まらない、けれど確かに生きている深い緑の瞳だった。
その瞳が、少し手間取るみたいに揺れながら、最後にはまっすぐ私をとらえる。
「…………綾?」
掠れた、小さな、小さな声。
それでも、私には世界で一番大きな音に聞こえた。
その瞬間、音を失っていた世界に、一気に色と音が戻ってきた。
モニターの電子音も、廊下の足音も、遠くのナースコールも、全部が「生きてる」って主張してるみたいに響く。
私は崩れ落ちるようにベッドにすがりついて、栞の身体に抱きついた。
5年分溜め込んでいた涙が、堰を切ったみたいに止まらなくなる。
「栞……ばかぁ。お寝坊助さんだよ、本当に……!」
喉が締めつけられて、うまく言葉にならない。
嗚咽でぐちゃぐちゃになった声を、栞はぼんやりした目で、それでもちゃんと私のものだと分かるみたいに見つめていた。
「もう離さない。絶対に離さないから……!」
震える腕でそう叫ぶ私の背中に、今度ははっきりと、栞の腕が回された。
その腕の温もりが、私に安心感を与えて、心の中にずっと抱えていた不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
力は当然だけど、弱かった。
全然頼りないけど、そのぬくもりは、私の全部だった。
「……ごめん、待たせて」
掠れた声で、栞が言う。
5年間眠っていた喉から搾り出すみたいなその一言に、また胸が痛くなってしまう。
私は首を横に振った。 何度も、何度も。
「いいから……いいから。 ただ、帰ってきてくれて、それだけでいいから……最高のクリスマスプレゼントだよ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんて、本当は見せたくなかった。
でも、もうどうでもよかった。
だって、やっと。
やっと栞が、私のところに帰ってきてくれたんだから。
病室に、5年ぶりの「今ここにいる」っていう温もりが満ちていく。
外は相変わらず冬の寒空だけど、私の世界だけが、暖かい春になった感じがした。
これから先、どれだけ時間がかかってもいい。
リハビリがつらくても、記憶が曖昧でも、泣きたくなる夜が何度来ても、
私はもう、二度と栞を手放さない。
約束だよ。
今度こそ、ちゃんと。
もう離さない・・・目覚めたあなたへ 南條 綾 @Aya_Nanjo
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