『君の脳髄(なか)で溺れたい』(エロティック)
DONOMASA
プロローグ 溶解する境界線
この街において、記憶とは個人の所有物ではない。それは、売買され、盗まれ、そして濡れた舌で舐めとられる、ただのデータだ。
記憶潜行(メモリー・ダイブ)。
他人の脳髄にジャックインし、その深層心理をまさぐる行為。それは、一般に思われているような、冷ややかなハッキングとは程遠い。
それは、もっと生々しく、粘着質な行為だ。
ダイバーは、対象者の視覚、聴覚、そして触覚までもを共有する。
相手が恐怖で震えれば、こちらの心臓も早鐘を打つ。相手が快楽に溺れていれば、こちらの脳幹も甘い痺れに犯される。
肌を重ねるよりも深く、口づけよりも濃厚に、神経と神経が絡み合う。
自と他の境界線が溶け出し、熱を持った泥のように混ざり合う瞬間。その背徳的な一体感こそが、ダイバーたちを、そして依頼人たちを虜にする麻薬だった。
午前1時。
路地裏の雑居ビルにある診療所。
久我(くが)は、洗面台で執拗に指先を洗っていた。
冷たい水で冷やしても、指先に残る「他人の熱」が取れない。さきほどまで潜っていた男の、脂ぎった欲望の感触が、皮膚の下にこびりついている。
「……今日は、湿気がひどい」
久我はタオルで手を拭い、曇った窓ガラスに目をやった。
外は激しい雨が降っている。ネオンの光が路上の水たまりに反射し、都市全体が発情した生き物のように揺らめいていた。
この仕事をしていると、時折わからなくなる。
今、自分が感じているこの雨の湿り気は、現実のものなのか。それとも、誰かの記憶の中にある「雨の感覚」を反芻しているだけなのか。
孤独と、過剰な接触。
冷たさと、焼き尽くすような熱。
久我はその狭間で、次の「客」を待っていた。
ブーッ。
無機質なドアブザーが、静寂を破った。
モニターには、雨に打たれながら立ち尽くす一人の女の姿。
濡れたトレンチコート。強張った肩。そして、何かを懇願するような、潤んだ瞳。
画面越しでさえ、彼女から発せられる強烈な「匂い」が漂ってくるようだった。それは、香水の香りではない。切迫した人間特有の、甘く、危険なフェロモンだ。
久我は、渇いた喉を鳴らし、電子ロック解除のボタンに指をかけた。
今夜の雨は、やみそうにない。
冷え切った夜が、熱を求めて、扉の向こうで口を開けていた。
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