独身OLが結婚相談所の女コンシェルジュに理解らされた件
犬好モノ
プロローグ1
「キャミソール、脱がせますね」
そう言って環のキャミソールの裾に手をかけ、女――神崎綾音は微笑んだ。
ラブホテルのベッドの上で、環は緊張した気持ちを落ち着けるべく、数十分前の出来事を思い起こす。
◇ ◇ ◇
都会のビル群の隙間にある、小さな公園。そのベンチで、笹原環は項垂れていた。纏っている七分袖の深い紺色のワンピースは、インドアな環の唯一の外出着だったが、地味な化粧と相まって、彼女を少し老けさせていた。
つい三十分程前までは子供を見守る若い母親に見えただろうが、今はもう、園内に子供の姿はない。
沈んでいく夕日に、遊具の影が伸びている。もうじき、街灯がともるだろう。環はその光景をぼんやりと見つめながら、自分の存在だけが取り残されていく気がした。
初夏の生温い風が環の伸びた前髪を揺らし、額に貼りつける。
――そろそろ、帰らなければ。
そう思うのに、身体が重くて動けない。その原因は、同年代の女性コンシェルジュ――神崎綾音になけなしの勇気を切って捨てられたせいだった。
「笹原様のご希望条件は、ぼんやりしていますね」
結婚相談所の一室で発せられたその一言を皮切りに、環は綾音に、ぐうの音も出ない程に徹底的に叩きのめされた。
服装、化粧が地味。髪型が野暮ったい。男性に求める条件が抽象的。そもそも、男性経験が少な過ぎる――容赦のないダメ出しに環の精神力はみるみる削られていき、出来たのは愛想笑いを返すことだけ。
無料相談で心が折れてしまった環は、するつもりだった会員契約をせず、相談所を出たのであった。
(考えが甘かったんだ……)
引っ込み思案で恥ずかしがり屋の性格は、女子高、女子大を経て増々強くなり、今の会社に採用されたことはもはや奇跡と呼べるほどだ。
そんな状況で、そろそろ結婚すべきだろうか、なんて、浅はかな思いで結婚相談所に訪れてしまったのが間違いだった。環は二十六歳。婚活市場で言えば、若い方だという甘い認識もあった。
全て見透かしていたであろう綾音の、最後の質問が耳に残っている。
「笹原様の、結婚がしたい理由は何ですか?」
環は答えられなかった。だって、浮かんだ答えが恥ずかしかったから。
環はただ、結婚がしたい。――皆がするから、したいのだ。
「大丈夫ですか?」
「へあッ⁉」
不意にかけられた声に、環はびくりと肩を震わせる。
声の方向へ視線をやると、件の女コンシェルジュ――神崎綾音がパンツスーツの片膝を地面に着けて、心配そうに環を覗き込んでいた。
いつの間にか日は落ちて、点いたばかりであろう街灯が綾音をぼんやりと照らしている。
通った鼻筋に、綺麗に引かれたアイライン。座っていても背筋はすっと伸びて、胸は開いている。綾音は、そこに存在しているだけで、華があった。
「体調が悪いんですか?」
見惚れていた環に、綾音が首を傾げて言う。流した前髪と、整えられたボブヘアーが揺れた。
「い、いえ、大丈夫です!」
慌てて環は立ち上がる。
己の手入れが足りていない髪が、上がり切っていない睫毛が、暗い色のワンピースが、恥ずかしかった。環は、今すぐにでも走り去ってしまいたい気持ちを抑えるように、ショルダーバッグの肩紐をぎゅっと握りしめる。
「そうですか。なら、良かったです」
綾音は膝の土埃を払って立ち上がった。
スーツを汚させてしまったという心苦しさに、環は言葉を詰まらせる。礼を言おうと思うのに、上手く言葉が出てこない。
綾音は自分を認識しているのか、いないのか。
認識しているから声をかけたのか、そうでないのか。
礼を言うには不必要な情報が、環の次の言葉を迷わせる。そうこうしている内に、綾音が先に口を開いた。
「……笹原様、でございますよね?」
「は、ぃ……」
バレていた。やましい事など何もないのに、環は頭が真っ白になる。
環の動揺を余所に、綾音は少し考えこんでから、そっと、囁いた。
「あの、良かったら、講習を受けませんか?」
「え?」
予想外の展開に、環は困惑するよりも呆気にとられる。
言い淀んでいたように見えた綾音が、ふと、にっこりと笑った。
「異性との関わりに不安がある会員様に向けたもので……今、無料体験を受付中なんです」
「……えっと、私、会員には、ならなかったので……」
「体験ですから、非会員様でも大丈夫ですよ」
普段の環なら、少し悩んだふりをして、断ったであろう。
だが、今日はふりではなく、環は心の底から悩んだ。
――何か。何か、変わらなければならない。
綾音の指摘で、元々燻っていた自己否定が刺激され、環は焦りを感じていた。
今、一歩踏み出すことこそが、その〝何か〟なのではないか――焦りが囁く。
数秒の沈黙の末、環は決意した。
「……お、願い、します」
「承知いたしました。お時間を頂けるなら、さっそく今から一回目の講習を行いましょう」
「今から⁉」
驚き、環は思わず声を荒げる。しかし、綾音はまったく動じる様子はない。口角を上げたビジネススマイルで、環の言葉を待っている。
環にはそれが、講習とやらに対する自信に思えた。環は迷いを振り切ろうと掌をぎゅっと握りしめる。
そうだ、やると決めたのだから。優柔不断でどうする。環は己に喝を入れ、口を開いた。
「わ、わかりました、お願いします……!」
「承知いたしました。では、あちらが弊社の提携ホテルとなっていますので、移動しましょう」
(ホテル? あ、ラウンジとか、かな……?)
――そうして環は、ラブホテルの一室に連れ込まれ、あれよあれよと言う間に下着姿を晒すことになったのであった。
◇ ◇ ◇
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