第4話 スペイン・バルセロナへ

 成田から十数時間。

 長いフライトの末、私たちはバルセロナ=エル・プラット空港に降り立った。


 自動ドアが開いた瞬間、

 夏の名残を含んだ乾いた風が、ふわりと頬を撫でた。


「……空気が違う」


 思わず口をついた言葉に、悠人が笑う。


「湿気ないね。軽いっていうか」


 東京の夏のような重さがない。

 風が体を通り抜ける感覚が、妙に新鮮だった。


 空港の出口では、

 バスの運転手がタバコをふかしながら歌を口ずさみ、

 スーツケースを引く人たちがのんびり歩いている。


 これだけで——

 日本とは「違う世界」に来たことを、体が理解していく。


     ◇



 私たちが借りたのは、エクスランプル地区のアパートだった。

 広い間取りの旧い建物で、天井が高い。

 玄関に置かれた古いタイルは、何十年も前からここに住む人たちの足跡を吸い込んできたような味がある。


 窓を開けると、

 下の通りから、カフェの食器が触れ合う音と、通りを行き交う人たちのスペイン語が聞こえてきた。

 それだけで風景が色づいて見える。


「ここに……住むんだね」


「とりあえず一年な」


 悠人が笑う。

 本当に来てしまった。

 東京で悩んでいたことが、一瞬、遠いものに感じられる。


     ◇



 翌朝、私たちはボケリア市場へ向かった。

 ランブラス通りの喧騒を抜けると、

 巨大なアーチの下に広がる色鮮やかな世界が見えた。


「……すご……」


 思わず声が漏れた。


 どこを見ても色、色、色。

 トマトは宝石みたいに赤く、

 ピーマンは艶をまとい、

 オレンジは山積みになって太陽みたいに光っている。


 市場の中は、カウンターのバルがひしめいていた。

 魚介の香り、焼いた肉の香り、オリーブオイルの香りが混ざり合い、

 思わず足が止まる。


「ねえ、これ……なんていうの?」


 私が指差したのは、氷の上にずらりと並んだ銀色の小魚。


「ボケロネス。酢漬けのアンチョビ。

 スペインのビールにめちゃくちゃ合うやつだよ」


「へえ……食べたい」


 カウンターバルに座り、

 まずはボケロネスを注文した。


 白皿に並んだ小さな魚は、

 レモンが絞られ、パセリが散らされている。


「どうぞ」


 一口。

 ふわっとした酢の酸味が舌にのり、

 後から魚の旨味とオリーブオイルのコクが広がる。


「……おいしい」


「だろ?」


 悠人が嬉しそうに笑う。


     ◇



 次に出てきたのは、パン・コン・トマテ。

 焼いたパンに熟れたトマトを潰して塗り、

 オリーブオイルと塩をひとふりしただけの料理。


「シンプル……」


「シンプルだからうまいの」


 かじると、

 パンの香ばしさとトマトの酸味が混ざり、

 オリーブオイルがふんわり鼻に抜けた。


「……あ、好きこれ」


「絶対そう言うと思った」


 悠人が笑った後、

 店員が置いていった皿には、生ハムが薄く透けるように並んでいた。


 イベリコ豚の生ハムは、

 口に入れた瞬間、脂が体温で溶ける。


「やば……これ幸せの味じゃん」


「スペインって基本こうなんだよ。

 素材が強いから、料理を足しすぎない」


 東京での「正しさ」や「普通」といった言葉が、

 頭の中で静かに遠ざかっていくのがわかった。


     ◇



「¿De dónde sois?(どこから来たの?)」


 ふいに声をかけられた。

 振り向くと、市場で働いているらしい女性が立っていた。

 ぽっちゃりしていて、胸の前で腕を組んでいる。

 笑うと目尻にしわが寄る。


「ニホンカラ……キマシタ……」


 私の拙いスペイン語に、彼女は大笑いした。


「日本人なのね! 私、マリア。あなたたちの顔、さっきから幸せそうだったから声かけたのよ」


「え、そんなに幸せそうでした?」


「ええ! 食べ物がおいしいときの顔してたわ。

 あれは嘘つけないものよ」


 マリアは胸を張って言った。


「ここではね、

 “どう生きるのが普通か”なんて誰も気にしないの。

 食べたいものを食べて、

 休みたいときに休んで、

 ほしい人生を選ぶだけよ」


 軽く肩をすくめながら、当たり前のように言う。


「あなた、ちょっと“心が疲れてる顔”してるでしょ?」


 図星すぎて言葉が出なかった。


「大丈夫。スペインに一年いれば治るわ。

 ここはね、心が強くなる場所なのよ。

 “自分で選ぶ”ってことが、自然にできるようになるの」


 マリアが笑うと、

 市場のざわめきの中に、風が吹き抜けたような気がした。


 そして私は思った。


 ——ああ、私はこのために来たんだ。


 “普通”に合わせるためじゃなく。

 “いい人”でいるためでもなく。


 ただ、

 自分の人生を、ちゃんと自分で選ぶために。

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