また放課後、会議室で。――失恋と、双子の先輩と、ちょっとだけ百合

鬼田野

1章〜綾視点〜

第1話--終わる恋と始まる関係--

 振られた、フラれた。


 胸のずっと奥のほうで、何かがぽきりと折れる音がした……ような気がした。

 さっきまで同じ校舎の中にいたはずの「憧れの人」が、急に別の世界の住人になってしまったみたいで、足元だけ現実から一センチ浮いている。


 初めて見たときから、ずっと目で追っていた。

 誰かと笑いながら話している横顔も、グラウンドで汗を飛ばしながらボールを追いかける姿も、全部、太陽に直視されたみたいにまぶしかった。


 コレが恋心というものなのだと、やっと自分で名前を付けられたのは、本当に、ついこのあいだのことだ。


 所謂いわゆる一目惚れ、というやつ。

 それもかなり重症の部類で、近づくだけで心臓がうるさくて、顔なんてまともに見られない。

 恋ってもっとこう、ふわふわしたものだと思っていたけれど、実際は心拍数と貧血に直結していた。


 告白した相手は、サッカー部の憧れの先輩。

 教室の窓から何度も眺めて、ノートの端っこに名前を書いては消して、ため息でページをよれよれにして、それでも今日、やっと声をかけた。


 結果は、思っていたよりずっとあっさりとした一言だったけれど。


 高校に入学してから、半年と少し。

 校庭のイチョウ並木は黄色く色づきはじめていて、木々の葉は枯れはじめ、時々、冬が顔を出しては「まだ早いか」と引っ込めていく。


 夕方。西日が長い影を伸ばす廊下を、私は溢れそうになる涙を抱えたまま、ほとんど逃げ出すみたいな足取りで走り抜けていた。


 既に放課後で、帰宅部の生徒はほとんど家路についている。

 人口密度の低くなった校舎には、吹奏楽部の楽器の音だけが遠くから木霊していた。

 トランペットの明るい音も、クラリネットのやわらかな音色も、今日の私には全部、心臓に突き刺さるBGMでしかない。


 どこか、人目のない場所で、思い切り泣きたい。

 涙腺はもう限界に近くて、このまま立ち止まったら、その場に崩れ落ちて、聞き分けのない子供みたいに、わんわん泣いてしまいそうだった。


 だから私は、ただ足を前に出す。

 靴音だけがやけに大きく響いて、静まり返った廊下の空気を震わせていた。


 普段の授業ではあまり来ない、校舎の奥まったところまで来てしまったらしい。

 見慣れない景色に、少しだけ現実感が戻ってくる。


 目の前の扉の上には「会議室」の文字。


 扉の横にあるホワイトボード——中で会議をしているときは予定が書かれているはずのそれには、何も書かれていない。

 今日の放課後、ここで誰かが会議をする予定は、どうやら無さそうだった。


 ……誰も、いないのだろうか。


 こういう部屋は基本的に、使っていないときは鍵がかかっている。

 職員室で鍵を借りない限り、開くはずがない。

 ——教科書的には、そういうことになっている。


 けれど、いったん立ち止まってしまったからには、もうどこかの部屋に逃げ込むしかなかった。

 廊下に突っ立っているだけで、存在しないはずの視線が刺さる気がして、泣き顔を誰かに見られる未来が勝手に再生される。


 もう……限界だった。


 喉の奥がきゅっと詰まる。

 目のふちが熱くなって、瞬きをするたびに涙が溜まっていく。


 一縷の望みを賭けて、会議室のドアノブに手をかける。

 ダメ元で、そっと回してみると——


 ――開いた。


 鍵がかかっている、と勝手に思い込んでいた分、妙な肩透かしを食らった気分になる。

 がちゃん、と小さく鳴った金属音が、やけに大きく耳に残った。


 人一人が入れるくらいに、そっとドアを押し開けて、中を覗く。

 見えている範囲には誰もいない。

 窓から射し込む夕焼けの光が、長机の上に斜めの線を描いているだけだ。


 しん、とした空気。

 埃っぽいような、それでいて少しだけチョークの匂いも混じっていて、いかにも「学校の部屋」という感じ。


 周囲を見回して、誰の気配もないことを確認してから、私はひっそりと中に足を踏み入れた。


 ドアを閉めると、その音が、自分の中の何かのスイッチをぱちんと切ったみたいで、糸がぷつりと切れた。


 そのまま、ドアに背中を預けて、ずるずると力が抜けて、床にへたり込む。


「ぐずっ……なんだよ…………部活以外考えられないって……」


 震える声が、やけに広い会議室にぽつんと響いた。

 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるみたいだ。


 私がフラれた理由だ。


『部活以外考えられないから、ごめん』


 先輩は申し訳なさそうに笑って、そう言った。

 優しい声色だったのに、その言葉は、刃物みたいに鋭かった。


 ……せっかく勇気を出したのに。

 あの「好きです」の一言を言うために、何日も何日も練習してきたのに。


 そう、言われた。

 その場面を思い返すたびに、心が抉られるみたいに痛くなる。


 心臓が早鐘みたいに鳴り続けて、呼吸は浅く、早くなる。

 喉がひりつくように熱いのに、うまく言葉にはならない。


 涙が止めどなくあふれて、視界がじわじわと歪んでいく。

 頬を伝った涙が制服の襟を濡らし、その冷たさだけが妙に鮮明だ。


 一度堰を切った心の濁流は、先輩への思いを全部乗せて、私の外へと流れ出していく。

 こうして、私の初めての思いは、音もなく砕けて散ったのだ——なんて、少しだけ客観的な自分が、冷静ぶって解説してくる。


「ふうむ、入ってきてそうそう泣き出す女子は中々に珍しいぞ」


 ――人が居た。


 背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。

 心臓が変な方向に跳ねて、さっきまでの「失恋ショック」とは全然違う種類の焦りがこみ上げてきた。


 声の方向を見ると、会議室で使われる長机の上に、寝転がっている女子生徒が居た。


 え、机の上……?

 と、頭のどこかで冷静なツッコミが入りつつ、涙で滲んだ視界を手の甲でぬぐい、必死にピントを合わせる。


 「よっこいせ」と、見た目に似合わない掛け声と共に、女子生徒はゆっくりと机から降りた。


 身長は小さい部類だろう。百五十センチに届くか届かないか、といったところ。

 けれど、動きは妙に堂々としていて、机から飛び降りるその仕草も、やたらと手慣れて見えた。


 腰まで伸びた栗色の髪が、光を受けてふわりと揺れる。

 整った顔立ちなのに、どこかあどけなさが残っていて、実年齢より三〜四歳は下に見られそうな幼さがあった。


 ……でも、胸元のリボンの色は。


 私の学校は、制服のリボンの色で学年が分かる。


 一年生は青。

 二年生は緑。

 三年生は赤。


 私の胸元には青色のリボン。

 そして目の前の女子生徒は、緑色のリボンを付けていた。


 見た目だけで判断するなら、どう見ても年下だ。

 けれど事実として、私より一学年上。

 頭が混乱しているせいで、「中学生みたいな二年生」という、訳の分からないラベルが脳内に貼られる。


「見たところ、失恋の様子だろうか?」


 図星だった。

 さっきの独り言も、泣き顔も、全部聞かれていたと考えると、穴があったら入りたいどころではない。

 穴を掘ってまで埋まりたい。いや、埋めてほしい。


 私が会議室に入ってきた時から居たのなら、バレていても仕方がない……とは思う。

 でも、他人の口から「失恋」と言葉にされて現実を突きつけられると、異様なほど心が痛んだ。


 胸の奥が、ぎゅうっと握り潰されるみたいにきしむ。


「ふうむ、こういった時は誰かに泣き付くと良い。さあ、来い」


 私の目の前で、彼女は両手を大きく広げた。

 まるで、そこが指定席だと言わんばかりに。


 見知らぬ誰かに泣き付くなんて、そんな高度なコミュニケーション、いきなり実行できる訳がない。

 頭ではそう分かっているのに、心がぐらりと揺れる。


 仮にできたとしても、羞恥心に耐えきれず真っ赤になって、またどこかへ走り去ってしまう未来が、簡単に想像できた。


 だって、ついさっきまで告白して玉砕していたのだ。

 その上、知らない先輩に抱きついて号泣とか、恥の上塗りにも程がある。

 もう塗り重ねすぎて、元の色が分からないレベルだ。


「手のかかる後輩だ。先輩が胸を貸す、と言っているのだ。素直に受け取るのが筋だろう」


 ぐい、と、思っていたよりも強い力で、私は抱き寄せられた。


 突然の体温に、全身がびくりと跳ねる。

 友達同士の軽いスキンシップみたいな抱擁ではなく、腕の輪の中にしっかりと包み込まれるような抱きしめられ方だった。


 優しい、と思った。

 人の体温って、こんなに暖かかったっけ、と、今さらみたいな感想が浮かぶ。


 うまく言葉にはできないけれど、心の重さが少しずつ軽くなっていく。

 冷たく固まっていた胸の内側が、じんわりと暖かい風に包まれていくような感覚。


 背中に回された腕から伝わるぬくもり。

 肩口に触れるストールの感触。

 すぐそばでかすかに香るシャンプーの匂い。


 その全部が、不思議と「大丈夫だ」と言ってくる。


 堪えていた涙が、またあふれ出してくる。

 こぼすまいと歯を食いしばっても、熱いものが次々と込み上げてきて、視界がどうしようもなくぼやけた。


 涙を止めようとして、ぎゅっと堪えようとした——そのとき、不意に、頭がぽん、と優しく撫でられる。


「……っ」


 それは、子供の頃にお母さんによくされていた仕草に、どこか似ていて。

 「大丈夫だよ」と無言で言われているような気がしてしまって。


 もう、抗えなかった。


 されるがままに抱き寄せられたまま、私は、わんわんと子供のように泣きじゃくった。


 堰を切った涙は、先輩への想いも、さっきもらった残酷な言葉も、全部まとめて攫っていくみたいで、

 泣きながら、私はぼんやりと、「知らない先輩の胸の中が、やけに居心地がいい」ということだけを、はっきりと覚えていた。

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