1.異常性

1話 最初の異物

 春とはなんなのか。

 そう考えさせられる場所だった。


 並木道に植えられた桜はいっせいに咲き誇り、遠くから見れば美人が踊り舞っているようにしか見えなかった。


 冬の辛さを乗り越え、優しい暖かさで、身を包んでくれる。聖母のようだった。


 常に賑わう雑踏の中で、ふわりと紺色が空気に運ばれていた。


 一人の少年が紺色の髪を風に揺らして、人混みをすり抜けるように歩いていた。日差しの影響か髪が一瞬だけ、潤むように青を帯びる。


 前髪は額にかかる程度。サイドと後ろはやや長めのストレートで、自然な束感を蓄える。


 現実のものではないような雰囲気を漂わせた少年だった。奇妙なのは、これほどまでに掴めない少年に、誰も声を掛けたり振りかえることもしないのである。


 誰もが幻とでもすれ違うように行き過ぎる。


 全体的に落ち着いた消炭けしずみ色を基調とした制服は、和洋折衷を体現していた。


 今どきの学校にはない制服だった。


 白い建造物が見えてくる。彼らが通う高等学校だ。校名を私立徳永学園。


 外から見ればただの進学校に見える。


 磨かれたガラス張りの校舎、庭園のように整えられた中庭。そして、国からの莫大な援助。


 常に掲げているのは、次世代の中枢を担う人材育成。聞こえは良いスローガンだろう。


 これだけなら、優秀な中学生が集まる理想的な環境だ。


 ただ、校門をくぐった瞬間に印象は変わる。


 異様に多い監視カメラ。


 粒子が整列し壁を作り出すほどには、空気が張り詰めている。


 教師の姿はなかった。当然と言えば当然なのかもしれない。ただ、入学式の今日。校門前に立っていても不自然ではないはず。


 むしろ、我々が入学式は校門に数名の教師が立っていると、先入観があるのかもしれない。


 ステレオタイプに毒された人間なのだろう。


 同時に、入学式の朝だと言うのに声がしなかった。無音だった。声を上げることすら許されない。それほどまでの苦味が残り続ける。


 誰かしら声を張り上げて、周囲の人間に声を掛けてもおかしくないのに。


 風が吹いた。


 掲示板が彼の瞳に映る。


 一枚の掲示板に群がり、何かを探している様子が見られた。近づいて見ようにも、人が多くて入り込めない。


 一度離れてから、鞄からスマホを取り出す。カメラで拡大した。生徒たちが見ていたのはAからDまであるクラス表。


 右のDクラスから順番に名前を探す。Dにはない。Cもない。Bクラスにかれの名前があった。


 泡沫うたかた遊月ゆづき。それが彼の名前だった。スマホを鞄にしまい、昇降口に向かう途中に遠くから、なにか硬いものが地面に落ちるような音がした。


 とても乾いていたその音は、金属バットを転がす音にも聞こえた。泡沫は一瞬、立ち止まり音の主の方へ視線のみ向ける。


 淡い桜色の花が散り踊る中、一人の男子生徒。上級生だろうか。


 その場にしゃがみ込んで、吐瀉物に似た呼吸をひたすらに繰り返す。


 目の前には二個目の掲示板。泡沫の場所からは内容が見えない。ただ、強調されて表題になっているのは退という文字。


 それだけはかろうじて見えた。


 止まる者も避ける者も居なかった。ただそこに落ちている缶ゴミのように放置されている。


 全員が通り過ぎ、その男子生徒はただ過呼吸を繰り返して、足元に水溜まりを作るだけだった。それ以上はなにもなかった。


 まるで、存在すら許されないように。


 昇降口に着いた。


 中は至って普通の昇降口。靴箱が律儀に並んでいるだけ。泡沫遊月と書かれたプレートがはめられている靴箱に置く。


 鞄とは別に持ってきた上履きが入ってる袋から取り出す。上履きの色は水色。入学したタイミングによって変わるらしい。


 中央階段のそばには、またもや掲示板が。この学園は掲示板が好物なのかもしれない。そこには卒業について書かれていた。


 泡沫は掲示板を一瞥する。

 ──卒業者、二十八名。


 それだけが書かれていた。特に他はない。ただ事実を連ねただけに過ぎなかった。


 それに、入学前説明会でも伝えられていた。それらの経緯があってこそなのか、泡沫は微動だにせずに中央階段を登った。


 今年の入学者が使う教室は四階。


 途中の二階、三階には人の気配がしなかった。登校を遅らせているのか、それとも休みなのか。泡沫が知る由は今はなかった。


 気になるほどに空気が綺麗なのを除いて。


 中央階段を中心に、登って右がAとB。左がCとDになっている。


 トイレはそれぞれAとBの間、CとDの間に設置されている。廊下の端には階段があり、端から下の階へと降りることも可能だった。


 この階層は騒がしい。既にグループとか出来ていそうだ。Bクラスの扉を開けると、より騒がしさが耳を刺激する。


 耐性のない人間であれば、思わず視界が歪むほどの衝撃がある。


 扉を閉めて、泡沫は席を探す。


 とはいえ、机に名前が振られていることもなく、諦めてホワイトボードに貼り出されている席順を見た。


「名前の順か……」


 小さく言葉を口にして、扉側の席を見る。泡沫は番号で言えば二番目。


 教師の視界端に常に居続ける存在となった。地味に見える席に思わずため息が溢れた。中心よりはマシだと考えながら。鞄を机横に掛けて邪魔にならないようにする。


 正直眠い。


 泡沫は欠伸をして、目端に涙を堪える。いっその事、集合時間になるまで寝てようかなと、腕を机の上に組み立てて頭を乗せる。


 扉が開く。意外にも音が大きく、泡沫は額をあげる。そこには、一人の女子生徒が立っていた。視線を迷路のように動かしていると、泡沫と視線が交わる。


 濃紺の髪色は肩につく程度のミディアムヘアで、毛先が内側に軽くカールする。


 前髪は目にかからない程度に切りそろえられ、一部が横に流されている。その髪型が似合うだけで、美人だと評価できる。


 泡沫と同じように、ホワイトボードに貼り出されている席順を確認する。一通り確認できたのだろう。泡沫の前に鞄を置いた。


「よろしくお願いしますね」


 小さく頭を下げる。髪が彼女の表情を完全に隠し、輪郭を曖昧にした。


 泡沫は「どうも」と冷たく引き剥がすように言葉を返した。頭を上げた彼女は、小さく笑っていた。愛想を振り撒いているようにしか見えない。浅葱色あさぎいろの瞳は光を飲み込みながらも、色を付けることはなかった。


 席に座り、泡沫と似た動作をする。


 しかし、泡沫と違ったのは鞄の中からレザー調のブックカバーに覆われた書籍を取り出した点だけ。他は同じ動作だった。


 泡沫は彼女の背中から視線を落とす。真っ黒になりきれない視界が右往左往と万華鏡が現れては消えてを繰り返して示してくる。


 何度も扉は開いては閉じて。開いては閉じて。その繰り返しを聞きながら寝れるほど器用ではなかった。


 声と吐息が混ざり合い、曖昧な声を出しながら、椅子の背もたれに全てを預ける。


 前髪は少し乱れ、右手で軽く直しながら、まぶたを開ける。


 その時に、彼女が泡沫のことを見ている事実に気付いた。


 わざと椅子に対して横に座り、廊下側を背にして書籍を両手で持っている。時たまに、視線が泡沫の方に向けられている。その様子を泡沫はしっかりと瞳に抑えた。


「……俺になんか用か?」


 声を掛けられるとは微塵も思っていなかったのだろうか。肩を僅かに上下させ、開いていた書籍を音も立てずに閉じる。


 その仕草だけでも、相当な教育受けていることが見え透いていた。


「……特にありません。個人的に気になっただけです」


 抑揚の少ない声で言われる。


 視線だけを向けて、泡沫の頭から上半身。


 認知出来るとこまで、瞳だけは素直に動いていた。傍から見れば滑稽なほどに見える。


「そう言われると気になるのが人間の性だと思うんだ。俺は」

「なにが言いたいのですか?」


 彼女の上まぶたが、僅かに下がる。


 透明なつららのような眼光を、泡沫に容赦を知らずにぶつけた。初日から血気盛んな彼女の姿に思わず彼は、口端が歪んだ。


「逃げ道を用意するなよ。俺はただ、聞きたいだけ。ダメか?」


 机の上に右手を置いて聞く。


 軽く笑う姿は好青年に見えた。ただ、場所が悪かった。この学園での笑みは別の意味に捉えられかねない。


「選別思想のある学園で、その笑顔は怖いですよ……伝えますから。その笑みだけはやめてください」


 書籍を彼女の机の上に置いて、軽く両手を挙げる。


「それじゃ、教えてくれるか?」

「分かりました……その前に自己紹介をしませんか」


 疑問ではなく、断定だった。両手を下げて、顔を泡沫の方へと向ける。表情にも色は薄い。喋る木造人形ではなかったようだ。


 彼女の手元は椅子の背もたれを掴む。


 それだけの動作なのに拘束力が強まったように見える。


 視線が一度、彼女の手元へ映ると好機を得たのか、彼女は喉を揺らして言葉を紡ぎ出した。


「私は朝比奈あさひな結花ゆいか。今後ともよろしくお願いします」

「丁寧な自己紹介なことで。俺は泡沫遊月だ。よろしくな」


 泡沫が右手を差し出すと、掴んでいた手を離して彼に移す。早計だった。泡沫の握る手が強くなり、そう簡単に逃げ出せなくなる。


 軽く手を引いたりと、朝比奈は動作のみで抜けようとするが抜け出せない。彼女の脚は、さりげなく落ち着きをなくしていった。

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