第2章 ンプァクト

第10話 この世界の常識

「いいですか、ソメヤ様。聞きたいことがたくさんあるのはようくわかります。ですが、全くの異文化のことですから、ひとつひとつ聞くよりも、全部一気に聞いてから質問する方が良いでしょう。なので、少し黙ってください」


 朝起きた私があれって何これって何それって何!? と騒いでいたせいでややくたびれた様子のチェレーゼが、適当なノートをちぎりながら言う。彼女は寝巻きの少しくたびれたTシャツを着て、ふわあとあくびしながら、「こどもの聖典」と描かれた絵本を、こちらへ手渡した。私は左手で素直に受け取り、右手でパンをもぐもぐと食べる。そうしているうちに、チェレーゼはペンを取って講義を始めた。


「とにかく、ここにおいて重要な常識は、神は実在するということです。これを疑う人は陰謀論者と同じです」

「そ、そこまで?」

「ええ。ですから"神官"である私が国家公務員なのです。とりあえず静かに聞いていただけます?」


 注意された私は、しゃん、と背筋を伸ばしてみせる。わざとらしく口を一文字に結ぶ。チェレーゼは少し呆れつつ、話を続ける。ノートには、「神=実在する!」と書かれ、ぐるぐると丸で強調されている。このメモ、意味あるか?


「神はかつて、7日間で理想の世界を作られ、そこに人間を造りました。それがエデンの園です。その本の最初のページを開いてください」


 おとなしく開くと、確かに神様っぽい見た目の男の人が、裸の男と女の前に現れている、子供向けのタッチの絵が出てきた。


──神さまは、わたしたちの祖先(そせん)、アダムとエヴァに言いました。ここが、あなたたちの世界だよ、と。


「しかし、人間の祖先、アダムとエヴァが罪を犯し、追放され……そこでも人は悪辣であったため、神はあらためて種を蒔きました。物理法則という種です。次の次のページを開いてください」


 そこには困った顔をした神と、キラキラした星が描かれている。たしかに、複数の宇宙を表しているように見える。


──神さまはお困りになって、あたらしい種をまきました。そこでは人は年をとり、りんごは地面へ落ちるのです。それはどの宇宙でもそうでした。


「物理法則という種に、主が光あれと囁いた瞬間、ビッグバンが発生し……宇宙がひとりでに、たくさん生まれました。それぞれの宇宙は、少しずつ異なる文化や法則で育ちます……そうして人間は種レベルで分断される。これがバベルの塔の崩壊……ええっと、つまり、人は昔ひとつの世界、ひとつの宇宙、ひとつの言葉で喋っていたのですが、今はひとつの世界にたくさん言語があり、宇宙がある。そうなってしまった理由です」


 私は、アダムとエヴァ、という単語が聖書に出てくる言葉なのは知っているが、他のことはよくわからないので、この補足は助かった。とにかく、神様がいろんな宇宙をつくったと。OKOK。


「というわけで……ここはあなた方の言う"異世界"ではなく、異なる宇宙でしかありません。この図のように、宇宙は複数あっても、世界はひとつです。ファンタジーじゃないんですから」

「!? おぇっ、げほっ」

「だ、大丈夫ですか?」


 盛大にむせた私に、チェレーゼは水を入れてくれた。ぐびぐびと飲み干し、可愛らしい手編みのコースターにコップを置いて口をティッシュで拭う。ここはいわゆる異世界じゃない。さっきまでの説明で理解した気になっていたが、理解していなかった……そういう信仰の、そういう異世界なのだと、そう思い込んでいたことに気がついた。ここと、地球が、地続きの同じ世界だって? そんなの、にわかに信じがたい。いや、異世界への召喚だって、同じぐらい信じがたいけど。


「私は一貫して、あなたのいた場所のことを"異界"と呼んでいたはずです。"世界"はひとつですが、"宇宙"はひとつではない……そして、別の宇宙を我々は、"異界"と呼びます。ここまでよいですか?」

「ちょ、ちょっと待って。それは異世界ではないの? 宇宙? がなに?」

「ええっと……"異世界"という言葉は、私たちには、ソメヤ様のいう意味で伝わりません。それは……私たちとは別の神がいる世界、つまりフィクションの存在です。一方で異界は、同じ神の元、観測可能な別の宇宙。同一の世界です」

「なるほど……わかったようなわからんような」


 たしかに、"異世界"と呼ぶにしては何もかもが近すぎると思っていた。知的生物……つまり人間の見た目もほとんど地球と変わらないし、異種族とかいないし、車とか電車とか走ってて高層ビルもあるし、なにより空気を吸って吐く、この体の感覚さえも……。変わったことと言えば、魔法……そう、魔法ぐらいだ。私の想像力が平凡だから、夢の中の世界もあまり面白くないのだろう、そんなぐらいに捉えていた。けれどここが夢じゃないのなら……今日の朝、チェレーゼの顔を見た瞬間の確信が真ならば。最初からあまりにも現実すぎる手触りが、私を焦らせていたのなら……。たしかに、「異世界」というよりも、「異なる宇宙の異なる惑星」と考えた方が、まだ幾分か現実的ではある……気がする。


「ソメヤ様の気になっていたエデンの言語についても、ここにヒントがあります」

「そうなの?」

「ええ。かつて言語はひとつだった……それはその絵本にもあるはずです……どうしてそんなことが成し得たのでしょう? 結論、このひとつの言語は、すなわちテレパシーだった。そう今の科学者は考えています」

「科学なんだ」


 私が率直な気持ちを口にすると、チェレーゼは眉毛をぴくりと動かし、握っているペンに力を入れた。あらためてチェレーゼの書いていたメモを見ると、インク溜まりができるぐらい紙にペンをたっぷりと押し付けてから、「神=実在する!」にさらに丸をつけている。その下には幾つかの矢印がいつのまにか書かれており、宇宙1、宇宙2、宇宙3(地球)、宇宙4(ピグイタン)、宇宙5……という図解がされている。宇宙4(ピグイタン)から、「観測」という矢印が宇宙3(地球)へ伸びている。ずっとこれを書きながら説明してくれていたのだろう。無視していた。


「……地球の文明レベル的にまだ信仰がないのは仕方ないことですが……そういう人を選定したのも我々ですが……いいですか、夢物語ではなく、現実の、科学的な話をしています。私は国において信仰科学研究をしている神官であり科学者です。真剣に聞いてください」

「ご、ごめん……」

「先ほども言ったとおり、ここでは無信仰は陰謀論……というか、危険思想です。外でその空気出したら、ドン引きされますから」


 チェレーゼはしばし私を睨みつけた後、さっと不思議な動きをして、ふう、と落ち着いた。あれは祈りの動作だろうか。


「ごめんなさい。少々取り乱しました……ちょっと待っててください」


 今日ほど、政治と宗教と野球の話は迂闊にするなという言葉を正しいと思ったことはない。私はチェレーゼが平静を取り戻すまで、パンをもそもそ食べて待った。

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